8話 追憶の獣
明日投稿すると言ったな? あれは嘘だ。
ナラト視点からです。
思えばアンダンテとの出会いは最悪なものだった。
始めて顔を合わせたのは四聖職全員が顔を合わせる聖職会議の時。
当時僕はまだ十にも満たない齢で、父さんに付き添ってエルクセム王都まで出向いていた。
会議に参加できるのは四聖職のみ。父さんが他の四聖職と話している中、僕は外で待っていた。
花が咲き乱れる大聖堂の中庭。そこで、暇そうに空を見上げているアンダンテと出会ったのは運命だったのかもしれない。
その頃のアンダンテは退屈な顔をしていた。才能をありあませて同年代の子どもたちを下に見ていた。はっきりとは言えないが、何処か孤立した印象を僕は持っていた。
そんな彼女が自分と同じ四聖職の子どもに興味を持つのは仕方の無いことだとは思う。勇者の娘である自分が、同じような立場にいる剣聖の息子が居ると知れば落ち着いていられる訳が無い。
僕は突然アンダンテに木剣で襲いかかられた。
アンダンテ曰く、剣聖の息子なら楽しめる戦いができると信じていたらしい。
しかし、僕は驚くほど弱かった。アンダンテと比べるまでもなく、僕は当時から同年代の子たちよりも頭一つどころか三つぐらい抜けて劣っている。
当たり前だ、相手にすらならない。
頭にたんこぶを何個も作られた挙句、大泣きしている僕を蹴り飛ばし、軽蔑した目で彼女は言った。
――つまらないわ、と。
その時、僕は涙を流しながら父さんに助けを求めに会議室に入り込んだんだっけ。
本来なら大事な会議の場に足を踏み入れることは許されないだろうけど、ボコボコに叩きのめされた僕を見て父さんを含め全員がびっくりしていた。
当時を思い返すと恥ずかしさが込み上げてくるが言い訳させて欲しい。同年代だろうがいきなり木剣で頭を殴ってくるイカれた人間相手に、まだ自我が芽生えたばかりの子どもが太刀打ちできる筈がないのだから。
僕を苛めた真犯人は、父親でもあり勇者であるエルトランゼさんの前でこっぴどく叱られていた。
しかしアンダンテは不貞腐れているだけで、反省なんて文字は彼女の辞書にはなかったようだ。
それから数年後。
偶然にも魔道学院で出会ったアンダンテは、僕と同じように昔と比べて何も変わらなかった。
彼女は未だに僕に期待し続けていた。どう叩こうが結果を出せない無能の僕に、彼女は飽きずに絡み続けている。
それが、僕はたまらなく嫌で仕方なかった。
◆◇◆
アンダンテが振り向くと同時に、委員長であるミリィが影に呑まれた。
一瞬、たったの一瞬。目を閉じる暇もなく、その場でミリィの膝から上が無くなっていた。
噴き出す血液。顔に生暖かい飛沫が降り掛かり、今すぐにでも否定したい光景が、現実味を帯びて嫌でも分からせにきた。
「キュ――!」
ミリィが死んだことにより、拘束していた魔法の効力が消えた。蔦から抜け出した使い魔のアキヒロが、真っ先にアンダンテに体当たりをしてその場から吹き飛ばす。
刹那、虚空から牙が現れて閉じられた。
アンダンテがさっきまでいた場所に力強い音が鳴った。狙っていた標的を外したのか、近くにあった木を巻き込んで粉々に噛み砕いた。
「こ、こいつは……!」
僕は眼を見開いた。
影から一匹の獣が現れる。今にも朽ちて壊れそうな鎖。そして両目に付けられた刃物の傷痕を見て驚く。
こいつを……僕はこいつを、目の前にいる魔物を知っている。
脅威度B。大いなる凶狼。
三年前、七大魔境『地を統べる蠢く大樹林』から人類圏に侵攻してきた魔物。
村を幾つも壊滅させ、父さんが討伐に向かったが結局は取り逃してしまった相手。
父さんからの見聞でしか語られたことがないが、こいつは七大魔境から逃げてきた。
何から逃げてきたのかは分からない。ただひとつだけ言えることは、人類圏に侵攻したことで元の住処よりもいい狩場を見つけてしまったことだ。
「みんな――逃げるなッ!」
反射的に僕はそう叫んでいた。
「奴を直視するな! 楽しいことを考えろ! あいつは、生物が発する『恐怖』の感情を第六感として周囲の状況を把握している!」
父さんから話を聞いていたので僕は大いなる凶狼のスキルを知っている。
奴には『恐慌のオーラ』と呼ばれるスキルがある。それは周囲に存在する生物全てに恐怖の感情を植え付けると共に、スキル所持者の姿を見たものに更に強烈な恐怖感を刻むものだった。
そして『恐怖の感覚』。どんな理由であれ、恐怖を抱いた対象を完璧に捉えるスキル。『恐慌のオーラ』と組み合わせることで、凄まじい精度でこちら側の位置を割り出してくる。
僕が逃げるなと叫んだのはこの為だった。恐怖を抱いてる以上、闇雲にこの場から逃げても奴に居場所を捉えてくる。逃げ出した先に待っているのはミリィが辿った結末なのだから。
「あっ、ひっ……」
委員長を目の前で殺され、大いなる凶狼を直視したアンダンテは恐怖に震えている。話が正しければ、『恐慌のオーラ』に当てられて身が竦みあがってるのだ。
このままでは次に殺されるのが彼女になる。そう確信した僕は容赦なくアンダンテの顔面に蹴りを叩き込んでいだ。
「……グゥ?」
大いなる凶狼が首を傾ける。
僕に蹴り飛ばされたことでアンダンテの恐怖の感情が怒りに塗り変わった結果だった。第六感による感知能力が外れ、その場からいなくなったような感覚に陥ったらしい。
僕の行動は正解だ。奴の視力は父さんと戦った時に両目に傷を付けられているせいで相当見えてないらしい。
『恐怖の感覚』さえすり抜ければ逃げるチャンスがある。
「ナラト! いきなり何を――ッ!」
「うるさい! いいから僕の言うことを黙って聞け!」
普段、滅多に怒ることのない僕が怒鳴り声をあげたことであのアンダンテが怯んだ。
僕らしくないが好都合だった。いつもの調子のアンダンテでは困る。この魔物の感知能力の仕組みをしらなければ逃げることは不可能に近いのだから。
足音が近づいてくる。仕方ないとはいえ、やってしまった。大いなる凶狼は音がした反応――僕が怒鳴り声をあげた場所に向かって歩いてくる。
奴の姿を目視した時点で目を離したのが幸運だった。『恐慌のオーラ』の影響を強く受けていない僕は、他の二人と一匹よりも反応が薄いらしい。
その場で石を拾い、遠くの木を狙って投げる。
コツン、とわざと聞こえるように飛ばしたので奴は検討はずれの方向に目を向ける。
……!
奴が取った行動で確信した。やっぱり『恐怖の感覚』と聴覚と嗅覚でしか周りの状況を把握できていない。
僕が……。
対策法を知っている僕が、ここで動かなければ全員喰い殺される――!
「キュイ!」
アキヒロの鳴き声で力が入った。使い魔契約を通して僕の気持ちを感じ取ったアキヒロが石を投げた先に連続で糸を吐いていた。
そうか! アキヒロは糸を吐いて人の足音にように音を立てているんだ!
不審に思いながらも奴は僕達から標的を変えている。このチャンスを逃すわけにはいかない。
僕はポケットから解体用のナイフを取り出すと自分の腕に突き刺した。
体が痺れるような激痛が走る。血が布越しを通って溢れ出し、思わず顔を歪めた。
血の匂いに気付かれる可能性も考慮したが、委員長が血の沼に沈んでいる以上、既により強い死臭が漂っている。リスクを考えれば『恐怖の感覚』から逃れる方が優先される。
これでいい。強い痛みは恐怖を紛らわせてくれる。下手に落ち着こうとするよりも効果がある。
「セラフィーナ、ごめん」
「え……?」
次に僕はセラフィーナのこめかみに狙いを付けて拳を打つ。 なるべく力を抜いた状態で、脳に直接振動を与えるように。
「――あぅ」
細い悲鳴を喉から出してセラフィーナは倒れ込んだ。強い脳震盪により気絶させたのだ。
父さんから習った護身用の術が、まさかこんな形で役に立つとは思ってもみなかった。
我ながら酷い方法だが意識を失えば恐怖を感じることはなくなる。一時的とは言え『恐怖の感覚』から捉えられなくなるのは必要な処置。
石を投げて再び気を逸らし、音を立てないようにセラフィーナを茂み中に隠して匂いを誤魔化す。
後は……。
「アンダンテ、大きく息を吸って気分を落ち着かせろ。恐怖を感じるとあいつに位置がばれる」
「きゅ、急にそんなこと言われてもできる訳がないでしょ!?」
アキヒロが嘘の位置を教えて誤魔化しているが時間の問題だ。まだ微かに漂っている僕達の恐怖の感情が消えない限り、諦めてくれないだろう。
できればアンダンテをセラフィーナと同じように気絶させたかったが、残念ながら僕にそんな筋力はない。というより、勇者の娘であるアンダンテなら普通にこめかみを殴っても耐えてくる。
怒りによって恐怖の感情をより薄くさせる効果があるが、大きな声でも出されたらこれまでの行動の意味が無い。
「逃げるわよ」
「……アンダンテ?」
「いいから逃げるのよ! ここに居ても殺されるだけじゃない!」
僕はハッとして気付く。
遅すぎた。
今ここで喋れる時間も、アンダンテに目の前の魔物が持つスキルを教える時間も、あまりにも足りなすぎたんだ。
「まっ……」
待つんだ、と声が出そうになった口を手で抑えて封じ込めた。
慌てて手を伸ばして引き留めようとしたが、僕が服の裾を掴むよりもアンダンテの方が先だった。掴み取りそこなった手のひらが閉じられ、彼女が動き出す。
木の葉を散らし、靴が土を踏み潰した。
言い訳にならない。僕は、
アンダンテを助けるよりも、アンダンテを犠牲にして自分が助かる方法を選んでいたのだから。
「グルゥッ!」
『恐怖の感覚』と逃げる足音により位置が捉えられた。背後から迫る殺気に気が付き、アンダンテは後ろを振り向く。
直視してしまった。『恐慌のオーラ』を受けて完全に気付かれてしまった。こうなってしまっては、もう奴から逃れる術はない。
「ぎゃッ、がッ……!?」
彼女が最後に見た光景と、僕が見捨てた光景が重なり合う。
直後、彼女の視界が黒く塗り潰される。大いなる凶狼が放った闇魔法によって、黒い槍が胸を穿っていた。
喉から込み上げてくる血を零し、アンダンテはその場で倒れた。
鼻をひくつなせながら獲物を仕留めた獣は彼女に近づき、臭いを嗅いで死んだことを確認している。
「グゥ――」
気が狂いそうになるほどの静寂。口元を手で塞ぎ、アキヒロと僕は『恐慌のオーラ』の効果を受けないよう目を逸らし、必死になって楽しいことを考える。
ほんの一秒が途方もない時間に感じられた。何度も襲いかかってくる恐怖から逃れようと過去の思い出に縋り現実から目を逸らす。
どれぐらい時間が経ったのだろうか。近くからおぞましい気配が遠のいていき、大いなる凶狼がこの場から立ち去った。
「はぁ……はぁ……」
生きた心地がしなかった。やり過ごすことは出来た安堵よりも、恐怖でどうにかなりそうだ。
「アンダンテ!」
大いなる凶狼が去った後、僕は倒れ伏したアンダンテに駆け寄った。体に触れると氷のような冷たさが伝わってくる。
即死だった。
闇魔法によって胸を貫かれている。心臓が完全に潰され、息をしていない。
震えながら手を離すと、彼女は糸が切れた人形のように崩れ落ちた。落ちた衝撃で血が飛び散り、中の赤黒い贓物が散乱する。
「――うぷっ」
緊張が解かれたことで吐き気が込み上げてくる。まぶたの裏に焼き付いてきた肉片が頭から離れない。急いでアンダンテから視線を外すと、胃の中のモノを地面に吐き出した。
最低だ。最低だ、僕は。
立て続けに人が殺される光景。自分の体中にべっとりと付いた他人の血。あまりの凄惨な出来事に対して、頭が耐えられなくなりそうだった。
僕のせいだ。僕が見捨てたんだ。
見捨てたからこそ、アンダンテが死んだ。
「はぁ……っ! はぁ……っ!」
言い難い感情が心中を渦巻く。
酸っぱい匂いがする口元を拭いながら、ゆっくりと膝に力を入れて立ち上がる。
吐き気はなくなったが気分は最悪に近い。吐いたことで少しだけ、ほんの少しだけど落ち着いた。頬を叩いて体に鞭を打つ。
「キュイ……」
いつの間にか使い魔のアキヒロが膝に擦り寄っている。使い魔契約を通して僕を心配して慰めようとしている。そんな気持ちが伝わってくる。
「大丈夫、大丈夫だから」
震えるアキヒロを抱き締めて思考を巡らす。
しっかり、しないと。これからの僕の行動で大勢の命が左右される。
早くこのことを街に伝えないといけない。
一秒ですら時間が惜しい。大いなる凶狼が向かった先は街の方角。このまま迷宮都市に侵攻されてしまえば、例え冒険者や自衛団、騎士が防衛したとしても大いなる凶狼相手では歯が立たない。
脅威度Bクラスの魔物と渡り合えるのは四聖職である父さんのような人間だけだ。その父さんが、今は七大魔境の調査に赴いて家を空けている。
早く街の住民達に避難を呼びかけないと。でないと――住民全員が奴に喰い殺されるのだから。