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秋のメール

作者: 郡司 誠

     秋のメール

「もしもし、わたし。お久し振り。元気」

 これが彼女との出会いの始まりであった。   

「もしもし、わたし。お久し振り。元気」

 これが彼女との出会いの始まりであった。

「もしもし、僕は船津と言いますが、どなたかの携帯と間違っておられるみたいですよ」

「あらいやだ、由美じゃないの。すみません。

たいへん失礼しました」

 そのあと五分ほどしてもう一度携帯が着信音とともに振るった。

「もしもし、お久し振り。由美よね」

 さきほどの女性からだった。

「もしもし、違いますよ。僕は船津と言い、先程と同じく僕の携帯に掛かっていますよ」

「すみませんそうでしたか。・・・、本当に失礼なことをお聞きしますが、この携帯、ずっと貴方が使ってらっしゃるのですよね」

「はいそうですよ。もうかれこれ二年になる筈です」

「それはたいへん失礼致しました」

 秋気が肌にしみる十月半ばの夕方のことであった。手頃なワンルームマンションを借りこれまでの長い社会人人生に一区切りを付け、部屋の中でひとり、定年後のこれからを如何に有意義に愉しく過ごそうかと考えていた矢先の突然の電話であった。船津浩一は最前線の本社営業部長を最後に派手なサラリーマン生活を終えていた。関連会社役員ポストへの誘いもあったがそれらには乗らなかった。己れの人生の黄昏れ時を迎えて船津には他にやれる事やりたい事が山ほどあるように思えたからだ。かと言って具体的な計画があった訳ではなかった。船津はゴルフ、釣り、酒、麻雀といった仕事関連の遊びはある程度一通りこなし、趣味の類も多才で、特に音楽や映画の鑑賞が大好きな、自身でも楽器を奏でる六十五歳の白髪が目立ち始めた男であった。

 この部屋で特に何かをしなければならないといった目的はなく、ただ家族より距離を置いた場所に自分だけの事務所的な城が欲しかっただけである。定年まで真面目に勤め上げた自分への褒美として、この城で今までしたくても出来なかったことを思い切りしてみようと考えていたのである。贅沢な環境に今のところ充分満足している船津浩一であった。

 部屋にはベッド、ソファー、本棚、冷蔵庫、洗濯機、テレビ、レンジ、クーラー、ノートパソコン、プリンターなどが所狭しと一式揃っており、快適な一国一城の主として、船津はある意味第二の青春を謳歌していたのである。人生の黄昏時に差し掛かった彼にとって、この黄昏時代を第二の青春時代と捉えたかったのかも知れない。

 一週間ほど経った西日が鮮やかな、やはり夕方のことである。突然船津の携帯電話にメールが届いた。

《先日は失礼致しました。一週間前の間違い電話の者です。今より携帯をお掛けしますが、お嫌でなければ少しお話し出来ませんか。》

(この前の女性からか。落ち着いた感じだが、魅力的である。どういうことだろう)

 好奇心旺盛な船津は不審に思いながらも少し期待に胸を躍らせた。メールで《承知しました。》の返信を送ろうとぎこちなく指を動かし始めたと同時に電話が鳴った。慌てて落としかけた携帯電話を見ると十一桁の番号数字が画面に表示されていた。

(この番号が彼女の電話番号だな)

「もしもし、今電話していて大丈夫ですか。わたしきっとお仕事の邪魔をしていますよね」

 爽やかでもあるが何かしら物悲しさも感じさせる声に、一瞬可愛いなあと船津は胸をときめかせた。幾つぐらいの女性なのか声だけでは判断をするのが難しい船津であった。

「いえ今は何もしていませんよ。事務所の中

で独りぼうっと夕陽を見ながら黄昏れていたところです」

「愉しい方ですね。ご迷惑は分かっているのですよ。見ず知らずの方なのに、どうしても貴方とお話がしたくって。決して怪しい者ではありません。うふっ、この電話を掛けている時点で充分怪しいですよね。・・・ただ、この前の間違い電話の時の貴方の声が何かしら気になって、どうしてももう一度その声をお聞きしたくて勇気を出して掛けてみました。メールの送信ボタンを押し切るのに一週間掛かりましたが・・・」

「僕は構いませんよ。先程も言いましたが、

部屋の中で何もせずただ時を無駄につぶしていただけですからね。むしろ大歓迎ですよ」

「ありがとうございます。そう言って頂けると助かります。本当に頭の変な女ではないですからね。安心なさってください」

「そんなことは思ってもいませんよ」

 その時、船津の家の玄関チャイムが鳴った。

「もしもし、名無しさん、今ね多分宅配便だと思うのですが、どなたか来られたみたいなので、もしよければ後でこちらから掛け直しますが。番号は画面に表示されている数字でいいですよね。・・・いや、やはりそれはやめときましょう。数分後、名無しさん、もう一度貴女の方から掛けてきてくれませんか」

 船津は遠慮深げにそう言った。

「そんなに気を遣わないでください。用事がお済みになられたら、いつでも結構ですからお電話ください、船津さま。お待ちしております。確か船津さまで良かったですよね。ついでに言いますと私の方は名無しさんではなく、吉田幸さちと言います」

 ピンポーン。再び船津のワンルームマンション玄関からの呼び出し音が鳴った。

「今行きまーす、待ってください。それではあとで僕の方から遠慮なく電話させて頂きますからね。えーと吉田さんでしたね」

「はいそうです、よろしくお願いします」

 船津は意気揚々と玄関に向かった。思った通り約束の待ち侘びた宅配便であった。大きな段ボール箱が五つ届いた。全て船津が自費で出版した本で、A5サイズ百頁の短編小説千冊である。1箱でもかなり重さのある段ボール箱を厭な顔一つせず二十代前半の宅配人は押し入れの中に5箱とも全部運び込んでくれた。船津は気分良く、その若者にお礼を渡そうとした。船津は頑なにチップの受け取りを拒む真面目な青年の繋ぎの作業服胸ポケットに千円札1枚を強引にねじ込んだ。いつもなら、ありがとうのひと言だけで済ませたのだろうが、まだ見ぬ彼女とのことを考えると自然と心が躍り、気持ちにゆとりが出来ていたのであった。

「この荷物が届くのを今か今かと待っていましてね。ありがとうね。今日は本当に気分がいいんですよ。少ないですが何も気にしないであとで飲み物でも買ってください」

 爽やかで無口な配達人はぎこちなく精一杯に頭を下げて帰って行った。

「もしもし、吉田さちさん。遅くなってすみませんでした」

 荷物の受け取りに数十分は経っていた。

「うわー嬉しい。掛けていらした。本当に船津さまですよね。大分と時間が経つので、私の余りの勝手な電話に怒ってられるのかと心配だったのです。よかった、ありがとうございます」

「正直言いますと、僕の方こそ一刻も早くに貴女に電話を掛けたかったのですが、届いた荷物の運び込みにかなり時間が懸かり今になりました。但し運んでくれたのは業者の若者で、文句一つ言わずに一人で全部運び込んでくれたのですよ。爽やかな青年でしたね」

「そうなんですか。お荷物は何でしたの。あっすみません。・・・、私ったら何を尋ねているのかしら。つい馴れ馴れしくなってしまい、厚かましく聞いてしまっていますね。本当に恥ずかしい女ですよね。呆れますよね。今日の私はやはり怪しい女なのかも知れませんね」

 楽しい女性だなと船津は思い、どうしても彼女の年齢が気になって仕方がなかった。

「面白いですね。貴女は本当に愉快な方だ。僕は正直に言っておきますが十日ほど前に定年を迎えたばかりの六十五歳のお爺さんですよ。貴女のようなお若い女性と愉しくお話など普通は出来ない年寄りなんですよ」

「何を言われるのです。私の歳もご存知ないですのに。私もお婆さんかも知れないじゃないですか。私を幾つぐらいの女だと思ってらっしゃるのですか」

「失礼を顧みず言わせて貰うなら、二十代後半から三十代前半の方だと考えています。しかし、落ち着きがあり、いい意味で貫録も持ち備えて居られる様にも感じられ、・・・となると、ひょっとすると四十代の方かなと思ったりもします。いやいや、全く判りませんね。・・・な、なんと僕は失礼なことを喋っているんだ」

「二十代は言い過ぎですが、大体の読みは合っていますね。実はね、・・・うふっ内緒。もう少し秘密にしておいてください。嬉しい。

お顔を見ないでこんなお話が出来るなんてほんと楽しいですよね」

「本当だ。実に楽しい。しかし、僕の六十五は正真正銘本物ですからね。それとですね、また貴女が気を遣われるといけませんので先にお話ししておきますが、僕は今女房に先立たれて娘夫婦と同居している身です。ですから時間の束縛は全くないのですよ」

 秋の釣瓶落としとはよく言ったもので、部屋の中まで射していた先ほどの西日があっと言う間に沈んだのかいつの間にか日没となり窓の外は完全に暗くなっていた。パソコンの光だけが唯一の灯りであった。予期せぬ彼女との会話により、日没に気付かずにいた船津は慌てて部屋を明るく灯したのであった。

「そうなのですか・・・。先ほど確か事務所と言われたように思いますが、今はその事務所にお一人で居られると言う事でしょうか。あら、どうしましょう。ほんとに厚かましい女になっておりますね」

「いいですよ。貴女にならどんなことでもお話しできそうです。そうです。ただ事務所とは名ばかりで、自分ひとりだけのお城を持ちたかっただけで、手頃なワンルームマンションを借りて引っ越してきたところだったのですよ。別に決まった仕事があるわけでもなく、好きなことをしたあとは夜になれば娘の家に帰るという本当に気楽な生活を送り始めたところだったのです」

「ええ、そうなのですか。羨ましい。本当に羨ましいですね」

「そうでしょう。ある意味、僕の永年のささやかな夢だったのですよ。定年を迎えたら真っ先に実行に移したかったことの一つだったのです」

「いいですよね・・・。まだほかにもやりたいことがおありなのですね・・・。もしもし、船津さま。厚かましいついでに下のお名前をお聞きしては駄目でしょうか」

「こんなお爺さんのフルネームを聞いてどうするのですか。貴女が本当の歳を仰ってくれたらお教えしますよ」

「あら、船津さまは存外意地悪な方なんですね。それならもう伺いませんわ」

「怒らないでください。ほんの冗談ですよ。船津さまと呼ばれるのはあまり戴けないので、本名を明かしておきます。僕は船津浩一と言います。船津浩一、それが僕の名前です。よろしくお願い致します。何がよろしくか分かりませんが」

「そうなんですのね。お声と雰囲気でやはりこういちさんがお似合いですね」

「そうですか」

「はい、こういちさんです」

「今日は本当に楽しくて仕方がない。ほんとに貴女は愉快なご婦人だ」

「やめてください、ご婦人だなんて」

「あっ、すみません。失礼しました」

「いえ、確かに一週間ほど前まではひとの妻でしたので、間違いはありませんが・・・。そうなんです。主人と別れて独りになり、昔の友達に何年振りかで電話をしたのです。そうしたら友達の携帯が代わっていて、貴方様がお出になられたのです」 

「そうでしたか。そのお友達と言うのが由美さんだったのですね」

「はいそうです。ちょ、ちょっと待ってください。名前までよく覚えておられますね」

「一週間ほど経っていますが、インパクトが強過ぎて今でもその時の情景が脳裏に焼き付いていますよ。しかし申し訳ないですね。私が余計なことを言ったばかりに、結果的に貴女のことを詮索したようになり・・・、本当にすみません」

「いえ、そうではありません。何故でしょうか。今船津さまに正直にお話し出来てホッとしています。この離婚も漕ぎつけるのに三年かかりましたの。そのうちの二年は別居生活でしたが、彼がなかなか別れる事に合意してくれなくて辛かったのです。子供が居ればまた違ったのかも知れませんが・・・。あっ私ったら何を話しているのかしら。すみません。つい船津さまならと自然にお話ししてしまっている。すみません、ほんとにすみません」

「いいですよ、お気になさらなくても。僕で良ければいつでも聞き役に徹しますよ」

 船津は嬉しかった。長い間味わっていなかった胸のときめきを彼は感じていたのであった。何故か会ったことの無いこの女性に親近感を覚え、青春を思い出したのであった。

「船津さま、長いことお喋りに付き合って頂いてもよろしいのでしょうか。そろそろ遠慮させて頂かないときっとご迷惑ですよね」

「何度も言いますが、僕はね、暇を弄ぶ自由な人間なのですよ。全くお気遣いは無用に願います。それとも吉田さん、貴女の方で嫌になられたら別です。遠慮せずいつでも電話を置いてくださって結構ですからね」

「いやだなんて。本当は私もどうしようもなく嬉しいんです。船津さまに勇気を持ってメールを差し上げてほんとに良かった。やはり、初めて聞いた電話の声の印象通りの方だった。絶対にまだ切らないでくださいね。きっとお願いします」

「僕も最高に愉しくて夢を見ているみたいなのですよ。青春時代に戻った様に思え、胸が熱くなっているのです。こんな事が実際に体験出来るなど・・・。吉田さんのお陰で二十年は若返りましたね」

「嬉しいです。船津さま、本当に嬉しいです。

ありがとうございます。一人で部屋の中に居りますと、やっと手に入れた自由な生活に満足する筈が、これからの自分の人生を思うと、

寂しさがどんどんと込み上げて来て、涙が次から次へとこぼれるのです。人恋しい季節だからとお笑いになるかも知れませんが、どなたかとお話しをしていたかったのです。だからと言って誰でもいいんじゃなく、やはり船津さまだったから良かったのです」

「ありがとう吉田さん。いやさちさん。今だけこう呼ばせて貰いますね。替わりにさちさんも僕のことを今日だけこういちと呼んでください。船津さまはどうも苦手です。この年寄りには実に気恥ずかしいお願いですけどね。お顔を見ずだとこういう事も有りかなと勇気も出ますね。・・・さちとこういちか、今日一日くらいは世間も許してくれるでしょう。大人のママごとだ」

「こういちさん、ありがとうございます。大人のママごと、ほんとですね。私のママごとにお付き合いして頂いて本当にありがとうございます、こういちさん」

「ところでさちさん、今頃になってお聞きするのはおかしい様ですが、さちさんのお名前はどういった漢字を書くのですか、確か教えて貰っていませんよね。僕はひろしに横いちですが・・・」

「ほんとですね。もうお話ししたつもりでいましたわ。こういちさんは思っていたとおりですね。わたしの方は幸せの一字でさちです」

「やはりそうでしたか。何となく僕もそうだと思ってお話ししていました。改めて幸せの幸さん、貴女はどちらにお住まいですか。僕は大阪でも南のほうの河内という田舎に住んでおりましてね。ここはさきほどまで窓から山々の稜線がくっきりと見え、色彩り豊かな木々が美しく本当に静かで住み易いところなんです。黄昏れるには持って来いの土地なのですよ」

「浩一さん、私は奈良から電話を掛けています。よかった。お隣り通しですね。お会いするとしたら直ぐに会えますね。・・・あらっ、私ったらまた可笑しなことを言って。ほんと、今日の私はどうかしていますわ。今のお話しは聞かなかったことにしてください、お願いします。本当に恥ずかしい。そんなに軽い女ではありませんからね。本当に違いますからね。信じてください」

「充分に分っていますよ。しかし、こうして長いことお話しをしていますと、やはりお会いしたくなるのも事実ですね。僕が若くて容姿に自信でもあれば、無理にでも会いに行きますよ、車で二時間も掛からないでしょうから」

「お歳、容姿は関係ありませんでしょ。船津さまもそうですか。いえ、浩一さんでした。浩一さんもですか。良かった。あっ、もしもし浩一さん、今どこからか電話が入ってきました。保留とかの操作が分かりませんので一度切りますね。また掛け直してもいいですか」

「もちろんです。僕の方こそ望むところです。必ずお待ちしていますよ」

 船津の喜びはピークに達していた。幸からの折り返し電話をまだかまだかと待ち詫びていたが、五分経っても十分経っても掛かって来なかった。船津は先ほど届いた荷物の梱包を解き始め、中から自分の出版物を一冊取り出した。これが新冊の本の匂いかと感動しつつ、カバー、表紙、デザイン、紙の材質などの装幀の予想以上の出来映えに充分納得するのであった。そして初めに手にしたこの一冊を記念としてがらんとした本棚に仰々しく飾ったのである。十五分過ぎても連絡は来ず、船津はその処女作『わかればし』をソファーに凭れながら最初から読み始めた。この部屋はひとり静かに読書をするにも最適な空間であった。『わかればし』は船津にとって上手下手は兎も角も大好きな物語で、七割方事実に基づいたこの小説は二時間もあれば充分読み切れる内容であった。この短編をひとに紹介する時は、決まって「作文の延長です」と控えめに言う船津であった。五ページほど進んだその時、念願の携帯が鳴った。船津は脇に置いていた携帯電話を急いで掴んだ。

「は、はいっ、船津です」

「お父さん大丈夫、わたしよ。何を慌てているの。今晩は何時頃になりそうですか」

「ああ、昭子か。ごめんごめん。あと一時間ほどで帰るよ。友達からの電話を待っていた処でね。てっきり彼からの電話かと思ったんだ。それが済み次第帰るつもりだ」

 同居している長女からだった。このマンションから車で十分ほどの新興住宅地に住んでいる。自宅を改造して、ピアノ教室も開いているしっかり者の上の娘には、三年前に妻を亡くしてからというもの、船津浩一は生活面に於いて何もかも頼りきりであった。

(違ったか。掛かってこない、どうしたのかな。少し時間が掛かり過ぎじゃないかな)

 船津は期待外れにがっくりするも、いずれ連絡はあると思い直し『わかればし』を読み続けた。しかし好きな物語に集中は出来ず、何度も何度も同じところを繰り返しながらテーブルの上に置いた携帯電話にばかり眼を遣るのであった。船津は本を読むのを諦め、携帯を大事に手に取ったのである。 

(どうしたのかな。このまま永久に掛かって来ないのではないのかな。からかわれただけなのかな)

 船津はオドオドと子供の様に不安げに居た。

(どうしよう。こちらから掛けるのはまずいかな。ストーカーみたいに思われるかな)

 冷静さを欠いた船津は、我慢し切れず彼女の携帯の番号を勢いに任せて押してみた。呼び出し音は鳴るも吉田幸の応答はなかった。焦りに焦った彼は再度携帯を掛けたがやはり返事はなかった。かれこれ三十分は過ぎただろうが、船津には何時間も経った様に感じられるのであった。このままでは長女の家に帰れない。もう少し様子を見るしかない。本来冷静な船津浩一は今日は違った。いかん、いかん、これではいかん。現役時代、勝負に出る前によく取ったルーティンを思い起こしたのである。両手を思い切り上げ、そのままの姿勢で深呼吸をし、息を10秒止め、何も考えずにじっとしているというただそれだけの事ではあった。しかし、この一連の動作の実行が、過去に於いて数々の修羅場から彼を救ったのである。船津浩一は自ら理性を取り戻しに懸かったのだった。              

「もしもし、お父さんだ。仕事の都合で昔の友達と飲みに行くことになったから、今日の夕ご飯はいいよ。すまないね」

「えっ、もう用意は出来ているのに。ほんと、呑気な人なんだから。わかったわ。あまり遅くになったら駄目ですからね」

「その言い様は声と言いお母さんそっくりだな。遅くなるようだったら、事務所で寝るよ。たまにはこの部屋のベッドも使ってあげないとね。心配はいらないよ。婿どのとおチビちゃん達によろしく言っといて」

 船津はようやく落ち着きを取り戻した。

「わかったわよ。帰るか、事務所に泊まるか、はっきりとした段階にもう一度連絡くださいね。きっとよ」

「はいはい、いつもありがとうね。じゃあね」

 船津はこの城で今日一晩の篭城の覚悟を決めた。興奮を抑えた船津は今度は食事の段取りを考えた。近くのコンビニで手頃な食料品を買いに行くことにした船津は大切に携帯電話を握り締めながらマンションの外に出たのである。予想に反して月は出ておらず少し肌寒く感じられた。無意識に引っ掛けてきたお気に入りのカーディガンは正解だったと納得する船津であった。 

 夜の七時を回っていたが、コンビニはかなり混んでいた。仕事帰りの若いサラリーマン、OL、海外からの旅行者そして船津のような年配者と様々の人が居た。こちらに越してから初めて利用する店である。なかなか感じの良い、店員の教育も充分行き届いているコンビニエンスストアだなあと船津は感じた。レトルトカレー、缶ビール、酒のつまみ、そしてパックのご飯と買い揃え、レジの順番待ちで並んでいると、待ち侘びた携帯が着信音を奏でた。慌ててカーディガン下のシャツポケットからさきほど持つのをやめて押し込んだ電話を取り出した。

「船津さん、浩一さん、遅くなってごめん」

 ため口ではあったが、今度こそ吉田幸からであった。浩一は嬉しくて涙がこぼれそうになった。待ちに待った幸の声である。

「もしもし、今ね、コンビニで買い物をしているところなんです。すぐに掛け直しますので待っていて貰えますか」

「いいですよ。浩一さん、お急ぎにならなくていいですからね。必ずお待ちしておりますので、一度電話を切らせて頂きますね」

 幸はため口から一変して殊更に丁寧な口調になった。レジを済ませ店の外に出た船津は雲にでも乗っている気分のまま、急いで携帯の着信履歴の一番上の番号をプッシュした。

「もしもし、幸さん。ほんとに幸さんですよね。どれほど貴女の声を聴きたかったことか。僕は本当に情けない男だ」

「浩一さん、泣いているの」

「情けないがその通りです。恋人に逃げられた感覚に陥っていたのですが、その恋人がまた戻って来てくれたような最高の気分を今味わっています」

「嬉しい。実は私も今貴方のお声が聴けて、どんなに心強く安心できたことか。本当に私のことを待っていてくださったのですね」

「もうこのまま終ってしまったのかと思い焦りました。どうしたらいいのか狼狽えました。

まだ見ぬ女性に本当に恋をしてしまった様で、何度も電話を掛けるというストーカー的行為までしてしまいました。何度お掛けしても出て貰えない。やはり嫌われたのだと思いました。始まってもいない恋なのに、この短い時間の中で、破局の辛さ、みじめさを充分に味わってしまいました。それなのにああ、今現在、貴女ともう一度通じている。繋がっている。これは事実なのだ。嬉しい。有難い。こんなに素晴らしいことはない」

「浩一さんからの電話と分かっていたの。電話は前の主人からで、なかなか切ってくれなかったのです。浩一さんが電話の向こうで待ってくれている。早く切らなければ。早くに切ろうとすると、余計に終わってくれないのです。彼はそういう人なのです。・・・ごめんなさいね、お待たせをして。本当に嬉しい」 

「幸さん、僕ね、今、胸が張り裂けそうなんです。可笑しいでしょう。こんな感情は何十年振りでしょうか」

「浩一さん、私も胸が熱くなり息苦しいほどなんです」

「幸さん、もう我慢が出来ない。お会いすることは不可能でしょうか。どうしてもお会いしたい。年寄りだと笑われてもいい。取り敢えず逢いたい」

「浩一さん、私も正直いいますと、お会いしたいのです。しかし、お会いして、私を見てがっかりされることを考えると、少し怖いのです。本当にそれが怖いのです。このままの方がいいのではと思ったりします」

「お逢いしてがっかりされるのは、むしろ僕のほうじゃないですか。それでもいい。心より逢いたい。駄目でしょうか。ああ、胸が痛い。潰れそうだ」

「・・・待ってください。もう少し考えさせてください。・・・今はふたりともこの現実離れした、有り得ない状況に惑わされているだけかも知れませんよね。人恋しい秋の所為なのかも知れません。本当に今日の私はおかし過ぎるのです」

「それは僕も同じです。いくらお顔を見ていないからと言っても、お若い女性とこんなに積極的になんかなれる僕じゃないんですよ。しかし幸さん、貴女にお逢いしたい。幸さんの言われる様に、現実離れしたこんなことは誰もが経験出来る事ではないんです。大人のママごとの流れに任せてみましょう。本当にそうしましょうよ」

「そうしたいのです。・・・本当にそう出来たらと思います。・・・あっ、今浩一さんは外に居られるとおっしゃっていましたよね。一度電話を切り、あとからもう一度連絡させて貰ってもよいでしょうか。少しだけ考えるお時間をください」

「わかりました。今歩いて家に向かっていますから、十五分もすれば部屋に着いています」

 船津は暗い夜道に考えた。彼女を執拗に追い詰め、何を焦って彼女を困らせているのだ。お前は充分人生経験を積んだ大人の男ではないのか。日頃よく口にするダンディズムはどこに消えたのだ。船津の理性が秋の夜風にあたり、次第に冷静さを取り戻して来たのであった。マンションの部屋に入るなり彼は幸に馴れないメールを送った。

《幸さんごめん。僕はどうかしていました。秋の夜は長い。貴女に嫌われたくない。もう少しお話をしましょう。》

 勇気を出して送ったメールに対する幸からの返事は直ぐには来なかった。

(どうしたのかな)

 その後三十分ほど過ぎ、幸から電話ではなくメールが送信されて来た。

《遅くなり申し訳ありません。正直言いますと悩んでおります。お逢いしたいのですが、それから先の事が心配です。》

《字数に制限があるみたいですので、長文は送れませんでした。お声を直接聞く勇気がありませんので分けてメールします。》

《まだお逢いしない貴方の事が気になって仕方がありません。胸が苦しく熱くなっております。これは恋心かも知れません。》

《よく言われる様な恋に恋している女心というものではないと思います。やはり勇気を持ってお逢いしたい。》

《文章が途切れ途切れになり、自分の気持ちを充分にお伝え出来ません。浩一さん、お電話ください。やっぱり直接お話ししたい。》

 幸からの断続的なメールが届く時間の間隔はそれぞれに数分を要した。最後のメールを読み終えるや直ぐに船津浩一は吉田幸の携帯に電話を入れた。

「もしもし船津です。幸さん、それほど悩まないでください。貴女さえ良ければもう少しお話ししましょう。僕も今晩は娘の家に戻らないつもりですので、時間を気にせず、ゆっくりと貴女とお話し出来るのです。夜を通してでも出来るのです。ですから嬉しくて嬉しくてたまりません。もしかして二人はこのまま逢わずに電話だけで終わるかも知れないので、幸さん、失礼を顧みずお願いしますが、そろそろ本当のお歳を教えてくれませんか。駄目なら待ちますが、きっと今日中には教えて貰いますからね」

 船津は空気を和ませようと、けれども半分は本気で知りたいことを聞いてみた。

「どうしてそんなに年齢に拘るのですか。私は年の差などまったく気にしていませんよ。それより秋の夜長にゆっくりとお話しをしましょうというご配慮、本当にありがとうございます。気持ち的に助かります」

「わかりました。当分はお聞きしません。ところで幸さん、先ほど聞いておられた夕方に届いた荷物ですけどね、何だと思います。嬉しくてほんとに待ちわびていた物だったのですよ。趣味の域は出ませんが、自分で出した本、小説が出来上がって来たのです。生まれて初めての出版でしてね、この記念すべき日に貴女からのメールが来たのです。今日は何と素晴らしい日なんだろう」

「船津さん、いえ浩一さんは小説家の先生でいらしたのですか」

「違いますよ。暇に飽かして作文の延長を記録として自分勝手に出版しただけで、そんなにたいへんなことではないのですよ」

「浩一さん、それってすごいことじゃないですか。浩一さんがお書きになった小説でしょ。わたしまでわくわくして来ました。是非そのご本を買わせてください。早く読ませて欲しいですね」

「幸さん、この本は売り物ではないのですよ。たくさん作りましたから、何冊でも差し上げられますよ」

「どのくらい作られたのですか。いえ、わたしは本当に馬鹿ですね。大切なご本のタイトルを先ずお伺いしないといけませんのにね」 

 この本の創作話は吉田幸の気持ちを充分に和らげ、幸を数時間前の若々しい原点に戻していた。船津は嬉しくなってきた。

「『わかればし』と言いましてね一千部作りました。題からしてお分かりの様に悲恋物語なんです。道頓堀川に掛かる或る橋に纏わる物語でしてね、文章の上手下手はさて置いて、僕の大好きな内容なんですよ。何百回と繰り返し読みましたね」

「すごい。是非早くお読みしたい。何だか自分のことの様に興奮しますよね」

「幸さんありがとう。まだ読んでも頂いていないのに、僕の読者ファンのひとりの方とお話ししている様な愉しい錯覚に陥ってしまいますね」

「どんなご本でしょう。浩一さんのサイン入りで是非頂きますからね。今日は嬉しくて仕方がありません。浩一さんは本当に謎の人物でいらっしゃいますよね」

「サラリーマン現役の時より何種類かの小説を書いていたのですよ。集中的な時間があまり取れなく原稿用紙百ページに満たない短編がほとんどですが、書くことが好きなんですね。パソコンの中にはいろいろなジャンルの物語がたくさん入っていましてね、恋愛ものは元より空想もの、復讐もの、そして童話などもありますね。懸賞小説なんかにも何度か応募したりもしましたが、今の処、箸にも棒にも掛からぬ結果です。ほんと自己満足の極みです。しかし、本当に物語を書いている時がすごく楽しいのですよ。あれこれと考える、また自分の実体験を思い起こす。これが楽しいのです。やはり趣味の域を脱していませんよね」

 船津はいつになく熱く語っていた。

「羨ましいですね。いいご趣味を持って居られて。浩一さんは本当に謎の多い方ですよね。やはり殿方はいいですね」

「幸さん、随分と古風な言い回しをご存知なんですね。船津様、存外、殿方と所々に出るんですね。幸さんこそ謎多き女性ですよ」

「そんなことはありません。わたしなんかはどこにでも居る平凡なひとりの女です。外に働きにも出して貰えずにずっと家の中だけの世界しか知らないのですよ。そんな女のどこが『謎多き』なのでしょうか」

「お会いしたことのない僕に突然メールを送信して来られ、勇気があり大胆な女の方かなと思えば、一方で秋の夜長のセンチメンタルな乙女になり、少女にもなる。その癖ご自分の歳を一切明かさない。不思議な言葉遣いもされる。そのギャップが僕を虜にさせる。こんな魅力的な謎多き女性が居ますか。貴女は一体どのようなひとなのか、やはり気になって仕方がない。しかし逢いたいなどとは言いませんから安心していてください」

「ありがとうございます。浩一さん、『わかればし』もそうですが、幾つも小説を書いてられると言われましたが、どこからそんなにたくさんの物語をお考えになられるのですか。

やはりご自分の豊かな人生経験から生まれた物語ですよね」

「そんなに大層な事と考えてもいませんよ。

ただこうあって欲しい、いや、あの時はこうだった。まてよ、こうなってもいいじゃないか。理想、願望、現実、そして空想。これらが自由に頭の中を飛び交っているのです。僕にはゲーム感覚なのですよ。何も無い処から新しい物語を誕生させる。自分が過去に経験した事であっても活字としては初めて生まれるのです。他で見聞きした事かも知れない。夢に現れた事かもわからない。それを文字にし文章にするのです。何しろ楽しい。しかし、自己満足の域を出ない。どう読み返してみても文才があるとは到底思えないからです。僕はそれでもいいと考えています。人生の黄昏期を迎えた男のロマンなのです。今迄したくても出来なかった文筆活動なのですよ。武者小路実篤、芥川龍之介なのですよ。今更お金にならなくったっていい、と言うよりなる訳はないのですが、自由な時間に好きな事に没頭する。やっと誰憚ることなく時と戯れることが出来るのです。あっ、幸さん、すみません。すっかり夢中にしゃべってしまって。ほんとにすみません。おもしろい男でしょう」

「浩一さんって子供みたいですね。羨ましい。本当にうらやましいです。早くその自由に書かれた『わかればし』を読んでみたい」

「それには二人はどうしても会わなければならないのでは・・・。しかし、我慢します。そうですよね」

「はい、ありがとうございます」

「幸さん、僕は何度も言います様に、今晩は居候させて貰っている娘の家には帰りません。そしてこの事務所の部屋で一晩過ごすつもりですから時間を全く気にせず長話しできるのですが、幸さんはよろしいのですか」

「わたしの方も何の予定もありません。そして誰からも連絡は無い筈です。浩一さんこそお嬢さんに連絡をお取りにならないといけないのではありませんか」

「実は先ほど、幸さんからの電話待ちの際に

娘にはこちらの事務所で寝て帰ると言ってあるのですよ。ですからご安心ください」

「よかった。けれどお食事はどうされたのですか。まだ摂ってらっしゃらないですよね」

「ああそうでした。あまりの楽しさに完全に忘れてしまっていましたね。幸さんもまだでしょう」

「私は食欲がもともとないので、気にもしていなかったのですが、浩一さんには食事をして頂かないと・・・。もう一度電話を切り、お食事をお摂りください。さきほどお買い物された中に食べ物はあるのですか。お近くならお料理を作りに行かせて貰いますのに。あっ、また可笑しな事を言ってしまいました。ほんと今日の私は変です。浩一さん、何か食べるものはありますか」

「さっきコンビニでレトルトカレーを買いましたので大丈夫です。幸さんありがとう」

「そうしますと、一度電話を置きますね。食べ終えられましたら、浩一さんの方から連絡を頂けますか。きっとお待ちしておりますので」

 秋の夜は本来深くて寂しい。しかし船津浩一の心は充実していた。心身共に燃えていた。

(今何時くらいだろう。あれ、時計は)

 このマンションに越してきてから今初めて、この部屋に時計が無いことに気づいた船津であった。腕時計は丁度夜九時を指していた。

(明日掛け時計を買いに行かなければいけないか。今迄時計無しでよく不便を感じなかったものだ。けれども今晩だけは全く必要ないな。時間を気にしないでこのお城に篭城だものな)

 船津はコンビニで調達したカレーライスを電子レンジでチンをして食べてみた。船津には初めての試みであった。料理好きの長女のお陰でインスタント食品には縁の無かった贅沢な境遇の船津浩一であったのだ。

(最近の即席レトルト品も馬鹿に出来ないな。美味しいじゃないか。充分な味だな。独り住まいも多くなる訳だ)

 こんな他愛のない独り言を呟きながら、心に余裕を持ち、僅か十五分で食べ終えた船津は後片付けはそのままで、まだ見ぬ愛しの幸にわくわくしながら電話を入れたのであった。

「もしもし幸さん、浩一です。今いいですか」「浩一さん、お食事、もう済ませたのですか。早過ぎですよ」

「おいしいカレーライスを頂きましたよ。恥ずかしい話なんですが、レンジを使うのも、レトルトカレーを食べたのも初めてなのですが、味はなかなかいけますね」

「嘘でしょ。浩一さんは今まで本当に恵まれた環境に居られたのですね」

「そうかも知れません。自分でも本当にそう思いますね」

「浩一さん、私ね、今考えていたんです。貴方のお書きになった『わかればし』ってどんな内容の物語なのか、すぐにでもお読みしたいなって」

「それは僕の方こそ先ず貴女に読んで頂きたい、何らかの方法で近々必ず読んで貰いたいと思っています。文才は無くっても、幼稚な文体であっても、幸さん、貴女には『わかればし』の内容は是非知っていて欲しい。あっもしもし幸さん、どこからかキャッチホンですね。このままで切らずに少し待って頂けますか。切られると本当に怖いのです」

「わかりました。何もせずにじっとお待ちしています」

『ああ昭子か。どうしたんだ』

『おとうさん、今まだマンションに居るんでしょ。うちのひとが今帰ってきたんだけど、車でおとうさんのマンションの前を通ったら、部屋の電気が点いていたと言うから気になって。今晩お友達に会わなくなったのなら、今からでも帰って来てくださいよ。お食事もまだなんでしょ』 

『ありがとう。遅くになったがもうすぐに出かけるよ。大丈夫、大丈夫。今からだと間違いなく真夜中の帰宅になるのでここに戻って寝るよ。ありがとう、婿どのによろしく伝えといてくださいね』 

「もしもし幸さん、もしもし」

「はい、幸です」

「ごめんね、随分と待たせしてしまって本当に申し訳ない」

 船津の言葉遣いに変化が生じてきた。

「いいえ、どなたでしたの」

 幸も知らず知らずのうちに馴れ馴れしく受け応えていた。

「娘からでしてね。今晩の寝床場所の最終確認でした」

「お優しいお嬢さんですね」

「お節介な娘だ。世話を焼くにも程がある。小さな子供じゃないんだから」

「何をおっしゃるのです。こんなに有難いことは無いですよ。浩一さんってほんと子供みたいなひとですね」

「それより『わかればし』ですけどね・・・」

「何を誤魔化しているの。恵まれた環境に感謝しないと本当に駄目ですよ。罰が当たりますよ。わかっていますか、浩一さん」

 お互いまだ見ぬふたりは完全に恋人同士となっていたのだった。

「わかりました。心の底から感謝致しておりますよ。幸さんに叱られてしまった」

「わかればそれでいいんですよ」

「はい、了解致しました。ところで幸さん、『わかればし』ですけどね。先ほども言いましたように、幸さん貴女にだけは少しでも早く内容を知っていて貰いたい。どうでしょう、あらすじだけでも聞いて頂けませんか」

 船津の喋り口調は元に戻っていた。

「私の方こそ、お頼み出来ないものかと願っていたのです」

 幸も元に戻っていた。

「十数年ほど前になるのですが、仕事帰りの地下鉄改札口で反対方向に擦れ違った若い女性が、昔、青春時代をともに過ごしそして突然に消えてしまった恋人と瓜二つだったのがこの物語を書くきっかけとなったのです。『わかればし』はほとんど実際にあった事がらに基いています。台湾出身の華僑を父に持つ彼女は学生時代は大邸宅で何不自由なく暮らしていたのですが、同郷の知人の裏切り、後添えの義母による不倫などが重なり、世を儚んだ父による義母を巻き込んでの無理心中から彼女の家の没落が始まったのです。その後すぐに大学を卒業した『私』は引き留める彼女を残して、生まれて初めての勤務地東京で遊びと仕事に夢中になっていたのです。絶望と寂しさを連日の手紙で訴えていた彼女に『私』は即座に応えようとせず、いずれ『私』と一緒になるのだからと高を括っていたその間に彼女の方は『私』との別れを決心していたのです。どうにかやっとの願いで逢うことが叶い、学生時代にふたりしてよく渡ったその『わかればし』で一度は寄りを戻しかけた様に思われたのですが、そうではなく、彼女は始めからこの想い出の橋『わかればし』での永遠の別離を強く心に決めていたのでした。そしてこの日の夜に忽然とこの世の中から消えてしまったのです。『わかればし』は江戸の昔より、この橋を渡った恋人同士はきっと別れる『縁切り橋』と言われていたのです」

「浩一さん、彼女はその後どうされたのですか。あまりにも酷い運命の悪戯ですよね。残酷過ぎます」

「そのあと、方々に手を尽くし探したのですが、後悔した時はすでに遅く、杳として行方が知れなかったのです。僕が東京と言う巨大都市に飲み込まれ、珍しさもあり遊び呆けていた時、彼女は気を狂わんばかりの絶望と寂しさに包まれていたのです。唯一の心の拠り処である僕に放って置かれたのです。僕の方はいづれふたりは一緒になるのだからと、いつまでも我慢して待っていてくれるものと安心仕切っていたのです」

「彼女が別れようと決心されるまで、まさか一度も連絡をしなかったんじゃないでしょうね」

「幸さん、実はその通りなのです」

「やはり、やはりそうでしたか」

「僕は本当に大馬鹿者で非情な男だったのです。最低な人間ですよね」

「浩一さん、それが事実であるなら、浩一さんは酷過ぎます。彼女は今現在どうされておられるのでしょう。何が何でも幸せに居られないと駄目です。そうでないと嫌です」

「僕も心からそう願っています。幸せに暮らして居るならそれで良いのですが、もしそうでないなら何か手助けは出来ないものかという思いもあり、青春の記録として書き残してみたのです。もしかするとどちらかでこの小説の内容を知り、連絡があるかも知れないと思ったのです。そして誠に勝手なのですが小説を書くことで先ず謝らせて貰ったのです」

「もしかして、本当にどこかでその小説をご覧になられるかも知れませんよね。偶然目にされお読みになられたら、どう思われるでしょうね。現在お幸せに居られたら、甘酸っぱい青春の思い出と懐かしがられるかも知れませんが、そうでない場合はどうでしょう。辛くて悲しい時代を思い返されることになるのでしょうか」

「そうですよね。あっ、そのことは今まで気付かなかった。僕は本当に甘い人間です。本にしたこと自体僕の完全なエゴ、自己満足ですよね。彼女にとっては迷惑でしかありませんから、ふたたび苦しかった過去を呼び起こすものですよね。僕は生まれて初めての本の出版に、勝手に有頂天になっていた。ただの嬉しがり、馬鹿ですね」

「浩一さん、そんな風に思わないでください。

彼女はきっと幸せに暮らして居られますよ。そしてご本をお読みになられ、ご自分が世間を離れたあと、浩一さんが後悔をされ、一生懸命自分の行方を捜してくれたこと、そして何十年経っても尚自分を思い出してくれていることに感謝をされ、心より喜ばれることと思います。きっとそうです。彼女の物語を書かれたことには、意味、意義があるのです」

「ありがとう、幸さん。実はね、貴女にはまだお話ししていないことがあるのです。先ほど彼女ともう一度寄りを戻しかけたと言いましたでしょ。その時には既に彼女は一度だけですが、不貞行為を犯していたのです。その頃の僕は、嫉妬深く、独占欲の異常に強い、了見の狭い男だったのです。自分は遊び回っていたにも拘わらずですよ。その『橋』の上では何も言わずにいた彼女はその夜東京に帰った僕の処に電話を掛けて来て、今は許しても今後事ある毎に僕がそのことを思い出し一生お互いが苦しむことになると言って、電話を切るや過ちを犯したその男と夜逃げしたのです」

「そうだと思っていました。浩一さんは今も昔のまま変わっておられないのですか。私の離婚の原因ははっきりと言って、前の主人の異常な独占欲、嫉妬心なのです。そしてそれに繋がるDⅤなのです。浩一さんが彼と同じような方なら私はどうすればいいのでしょう」

「幸さん、今の僕は、あの頃の世間知らずの男ではありません。殻を破り、完全に脱皮していますよ。その為にも『わかればし』を一言一句飛ばさず読んで貰わないといけない。すると、人生六十五年を生きて来た船津浩一という男の真の姿を見て貰えると思います」

「浩一さん、今は本当に貴方のことを充分理解しているつもりです」

「ありがとう幸さん、貴女に言われる今の今まで、出版が彼女に迷惑をかけるかも知れないなどとは考えもしなかったのは事実なのです。しかし、やはり、彼女のことを小説に書き留めてよかったと、今は幸さんのお陰でそう思えます。ほんとにありがとう」

「浩一さんの強い思いが入った『わかればし』を全文早くお読みしたい。そうすればもっと貴方を知ることができますよね」

「そのためにも早くにお逢いしたい。やはり絶対にお逢いしなければならない。また貴女を困らせてしまいますが、勇気を持ってお逢いしましょう。もしお逢いして直ぐに別れたいと思われたら、その時こそ、お渡しする予定の小説『わかればし』をその場で突っ返してくれたらいいのです。どうでしょうか。幸さん逢いましょう」

 吉田幸に逢いたいと願う気持ちが船津の心の中にまた無性に芽生えてきたのである。吉田幸は悩みに悩んだ挙げ句、遂に決心をした。

「船津浩一様、私、吉田幸はもうすぐ誕生日を迎える現在三十九歳の女です。少し前に離婚をしたバツイチで、こどもは居りません。身体のほうは至って健康で、痩せてもいませんし肥えてもいません。顔は人並み、普通だと思います」

「嬉しい。何なんだ、この幸せは。最高だ。こんなことが現実にあるものなのか。幸さん、貴女は本当に謎多き女性だ。素晴らしいひとだ。今からでも逢いたい。早く逢いたい。幸さん、駄目ですか」

「また、子供の様に駄々をこねるのだから。困ったひとですね、浩一というお人は」

「すみません、余りの嬉しさについ調子に乗ってしまいました。幸さん、少し恥ずかしいのですが、貴女は私の下の娘と同じ年なんですよ。私は六十五です。ほんとにいいのですか」

「浩一さん、本当に怒りますよ。どうして歳の差を気にされるのですか。私の方は始めから判っていたじゃないですか。全てを理解した上で私も是非お逢いしたいのです。心からお逢いしたいのですよ」

 幸に完全に主導権を握られている浩一であった。いざ本当に会えるとなると、船津の頭の中に様々な不安が過ぎった。顔に皺が多くないか、背中が曲がっていないか、髪の毛は薄くなっていないか、そして加齢臭はどうかなど、船津浩一は悩み始めたのである。

「幸さん、馬鹿みたいなことを言いますけど、本当に逢えるとなると、少し怖くなってきましてね。つくづく自分でも情けない男だと実感しています。どうすればいいのかと」

「浩一さん、わかりました。それじゃこうしましょう。お会いするのは、飽くまでも『わかればし』の作者先生のサイン入りご本を直接プレゼントして貰い、握手をして頂くということでどうでしょうか」

「ああ、それがいい。それがいいですね。少し恥ずかしくおこがましいのですが、本をお渡しする目的のためにだけに会って頂く。ただそれだけですよね。そうです、そうです。それがいい」

「嬉しい、少し不安ですが、お逢いするのが本当に楽しみです」

「僕も最高に嬉しいです。早速ですが、明日お時間はありますか」       (了)

     


 



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