新しい毎日。
「おはようルーシィ、誕生日の朝だよ」
目の前に持ってきた手は、ぷくぷくの小さな手ではなくて、傷だらけの、見慣れた大きさの手だった。
真横にはニコがぴったり張り付いている。
繰り返さなかった。
時が進んでいる。
「……え。なんでため息?」
巻きついていたニコの腕に力が入って、ぎゅうぎゅう体が締められる。
それでもまだ確かめなくてはならないことがあると、ルーシィはぐいぐいニコを押し返して寝台を抜け出した。
この家にはひとつだけ扉の開かない部屋がある。
主人にしか扉は開けられない。
それはエリィの部屋。
ルーシィは廊下を進み、エリィの部屋の少し手前で立ち止まる。
扉が薄く開いているのが、その位置から見えていた。
「あれ? あの部屋カギがかかってただろ?」
後ろからのんきなニコの声がして、肩にシャツが掛かった。
ルーシィは袖に腕を通して、無造作に髪を襟の外に出す。
「主人がいなくなったから……」
「主人?」
指一本分の隙間から見える部屋の中は真っ暗に見える。
「なんか……なんであんなに暗いの?」
近寄って少し扉を押し開ける。
ただ鎧戸を閉めきったような暗さではなく、天地もわからぬような、出口の無い洞窟のような、月の無い夜の海のような、密度の高い暗闇がそこにはあった。
自分の背中越しから伸びてくるニコの腕を力一杯叩いた。ルーシィは振り返ってニコの顔を自分の方に強引に向ける。
「……駄目。あんまり見ないで。引き込まれて出てこられなくなる」
「お……おう」
後ろ手に扉を閉じて、もう誰にも開けられないように術を施した。
部屋の中にはエリィの強い力が渦巻いていた。
この世界には何も残さない。
誰にも何も渡さない。
進入さえ許さないと拒んでいる。
どこか別の空間と繋げてあるように見えた。
エリィの死後も術が継続しているのか。
……そんなことできるのだろうか。
自分には無理だけど、エリィならそれも可能なんだろうか。
確信はまだ持てない。
部屋に引き返して、ルーシィは壁に掛けているローブを手に取った。
エリィから譲り受けた、エリィの術がかかった、エリィのローブ。
壁の留め金から外そうとする前に、ほろほろと糸はほつれて、布も崩れ、原型を保てなくなって床に散らばっていく。
新しさを保てず、時間が追いついた状態のローブを見下ろした。
「え? 何これ、なんで急に」
ローブは術が解けて、術者がいなくなったことを物語っている。
それでもやっぱり、確信が持てない。
きっと、多分。
まだ信じたくない。
エリィがこの世界からいなくなったということが。
「……ちょっと」
「どうした?」
「……出掛ける」
どこにも行けないようにとニコは後ろからルーシィの体を締め上げるように抱きついた。
「……嫌だ」
「ニコ……」
「駄目だ、そう言ってどこかに行ったまま……」
「……行ったまま、なに?」
「帰ってこない気だろ」
「どうして? 私の家なのに?」
「……どこに行くんだ」
「……裏側まで」
「裏側ってなんだ! どこだよ。俺も行……」
「ああ、むりむり」
「なんで!」
「ニコ大きいもの。重いし、危ない」
「危険な場所に行くのか」
ゆっくりとニコの腕を解いて、ルーシィは振り返った。
「……ニコ、何したか覚えてる?」
「は?」
「純潔じゃ無くなった魔女はどうなるか知ってる?」
「……魔女じゃなくなる」
「うん、まぁ、大体はそうなる」
「……ルーシィは?」
「魔女のまま……だけど、しばらくの間は不安定だから、ニコと一緒の移動は難しいの」
「魔術でどこかに行くのか」
「そう……ニコが一緒に行けないのは、ニコのせいだからね」
不貞腐れた顔を両手で挟み、頬をしばらくぐりぐりしていたら、ようやくニコはふはっと笑い出した。
「すぐ帰ってくる?」
「どうかな、分からない」
「……その正直なところが好きなんだけど」
「……待たなくていいから」
「……その冷淡なところも好きです」
「じゃあね」
「待って! ルーシィ!」
「……なに?」
「ちゃんと服は着ないと。それ、俺のシャツ」
自分の姿を見下ろして、ルーシィは笑う。
ニコはいっぱいに胸に詰まった何かが邪魔をして、息すら吐き出せない。
ルーシィの笑った顔を初めて見た。
薄く、それは口の端が少し持ち上がった程度だったけど、ニコがいつまででもルーシィの帰りを待つと決意させるのに充分な程だった。
「何十年でも待ってます!」
「……いや、お昼までには戻る気だからね」
「え?! そんなちょっと?」
「……ちょっとって言ったよね?」
広い範囲で煙が上がり、まだ燻っている木片が辺りに残っていた。
きれいに円形の更地になった地面は、夜の闇の中で小さな橙の星を散りばめたようになっている。
遠くに陣を構えているのか、魔力の気配が点在していた。
その円の中心にルーシィは降り立つ。
「……浅ましい」
目の前には何重にも障壁が施されている。
エリィの姿は残っていないが、場に魔力だけはまだ留まっていた。
留められている、といった方が正しい。
散り消えないようにこの場に縫いとめられていた。
囲ってどうしようというのか。
誰が何を考えているのか。
そんなことは知らないし、どうでもいい。
ただ骨のひと欠片も残さず焼き尽くされるような戦い方をし、それを敵に許しておいて、まだエリィジェイドの力を利用しようとする、その性根が気に食わない。
ルーシィは何重にもある障壁を一枚一枚剥がしていく。
実際それはルーシィにとっては紙のように薄く、脆く、簡単に破れる程度のものだった。
障壁を張った術者が異変に気付いたのか、周囲が騒がしく動き始める。
最後の障壁の一枚を丁寧に消して、エリィの力を解き放つ。
魔力を持つ者にしか見えない、小さな光の粒。
夜の星に紛れるように、空に光の粒が散っていく。
エリィの、黄緑色をした光の粒はふわりふわりと昇っていった。
「さようなら、エリィジェイド」
破術の 鏃 が付いた矢が空を切り裂きながらいくつも飛んできたけど、その全ての方向を逆にして、倍の力を加えてきれいに返すと、ルーシィはその場を後にした。
人非る力を持った者はもういない。
梏桎の魔術師はこれで本当にこの地上から姿を消した。
手枷足枷から解放されて。
もうこれ以上死ななくていい。
繰り返しの魔女は、ニコのおかげでまあまあすごい魔女に格下げになった。
もうこれ以上繰り返さなくていい。
「おい、どこに行く俺の魔女」
「……ちょっと薬草を取りに行く」
「ルーシィのちょっとは遠過ぎる、俺も連れて行け」
「そう言ってこの前死にかけたくせに」
「……あんな断崖登れるか!」
「だからひとりで行くって言ってるのに」
「やだやだ行かせないもんね!」
「ふもとのおじいの腰痛は?」
「腰が痛くて弱るぐらいで丁度良いんだって! テキトーに傷薬でも塗っとこうぜ。おじいにはわかんないから!」
「ニコにつける薬が欲しい」
「うん? もっと男振りが上がる薬?」
「しばらく大人しく静かになる薬」
「……その笑顔! 堪りません! 大好きです!」
「……ああ。ありがとうございます」
「さあ! これから寝台にでも!」
「いえ、行きませんので」
「あ!……っくそぅ!」
ルーシィに伸ばしたニコの手が空を切る。
そのまま不貞腐れて庭先で大の字になって寝転んだ。ニコは口を尖らせる。
ひとつも雨の心配がない高い空をしばらく眺め、気を取り直すとむくりと起き上がった。
ルーシィはちょっとと言ったら、本当にちょっとの間に帰ってくる。
約束なんかしなくても。
うんと頷いて家に向かう。
今からルーシィの好きなパンケーキを作ろう。できたての温かいものが食べられるようにしておこう。
少し焦げて苦いところも食べてくれるけど、今日こそ完璧に作って、喜ばせて、にっこり笑わせてみせる。
ニコは両方の拳を青空に向けて振り上げた。
これにてこのお話は終わりでございます。
お読みいただきまして、ありがとうございます。
ブクマや評価も、すごく嬉しいです。
重ねてお礼を申し上げます。
アレコレ駄目じゃね? と全年齢対象からR15にさせていただきました。
そして、だらりだらり鬱々とはしたくなかったので、コンパクトにまとめようとして、結果。
最後ニコの話じゃん!! となってしまいました。
自分の力不足です、申し訳もございません。
もっと良いお話が書けるように、精進して参りますので、これからもどうぞごひいきに。
よろしくしてやって下さいますよう、願いを申し上げます。
お付き合いいただきまして、ありがとうございました!!