第三十二話 感謝
「なあ、そろぼちやめにしようや」
「そうだな。そろそろ貴様を殺すとしよう」
勝負がつかない。
無論、死竜騎士が本気を出してこの大地を割る程度の力を行使すれば早々に着くだろうが、そういうわけにもいかない。
ルリアはそんな大量破壊を望まないし、別段、ルリアが帰ってくれば彼にとって仮面の男など生きていようが死んでいようがどうでも良い。
男の目的ははっきりした。王国を破壊する事。ならば破壊すればいい。
あの大臣に支配されるよりも、いっそ消し飛ばされる方が王国も楽というものだ。
「やれやれだ。んじゃあ、俺のドラゴンに相手をしてもらおうか」
仮面の男が右手を挙げた瞬間、天空からドラゴンが舞い降りた。漆黒のドラゴン。
ファフニールクラス――
死竜騎士でも知っていた。間違いない。
バハムート――
かつてドラゴンと魔竜が覇権をかけて争った戦いがあった。
バハムートは魔竜を生んだとされる魔神が従えていた魔竜。
実質魔神軍がまだ残っていたとして、その上魔神軍に竜と契約を結ぶことが可能な者がいればまさに最強のドラゴン。
「貴様、人間か」
「元はそうだ。だがな、闇の魔法を使っちまえば最早人も何もあったもんじゃない。お前だってその口だろう? 死竜騎士。お前のその力、呪いは闇の魔法だろうに」
バハムートが凍てつく炎を口から吐き出した。怒涛の魔力が襲い掛かるが、死竜騎士は正面から受け止め、一気に振り払った。払いのけるかどうかは問題ではない。
死竜を空からも呼び、一気にバハムートにけしかけるが、さすがは大戦時に活躍したドラゴンなだけはある。
翼を広げ一薙ぎ。複数の死竜を払うと同時にゆっくりと腕を振るって地面に見えない何かを叩きつける。
恐ろしさすら覚えるドラゴンの振る舞い。これが絶対竜バハムートの力。
死竜は二度目の死を迎えることはない。だが塵に変えられては話は別だ。
死してなお死を迎えるドラゴン。最近では滅多になかったが、痛む心を死竜騎士は持ち合わせていない。
「止めて……人が大勢死んだのに……ドラゴンまで!」
ルリアはしかし違った。ドラゴンが死ぬ度に心を痛め、自分の戦う理由よりも優先する。
ドラゴンを思う気持ちは人一倍高い。
だからこそ、死竜騎士はその正体をばらすわけにはいかなかった。
隠し続けた正体は死竜騎士であるための保険。
しかし、ルリアにはばれたくないという人間らしさが、死竜騎士の動きを若干封じた。
「うん、それを隙っていうんだ」
仮面の男が一気に距離を詰めてきた。
攻め時を分かっている。
死竜騎士は剣を出して受けようとするも、なぜか仮面の男は攻撃ではなく防御を前面に展開していた。
そして、待っていたかのように、死竜騎士の腕にバハムートがその巨大な足を振り下ろした。
理屈じゃない。死竜騎士は剣を落とし、それを仮面の男がかすめとった。
「ははは、なんてことはない……なんだこれは……」
しかし、仮面の男もまた剣を落とし、狼狽えるようなそぶりを見せた。
死竜騎士はバハムートを片手で払い、落ちた剣を再び手中に収めた。
「呪いがかかっていると言ったのは貴様だが?」
「それはもうその領域じゃない。死そのもの。お前は死を纏っているのか?」
「だったらどうする?」
「ははは、これは面白い。止めた止めた、勝負する方が馬鹿らしい。はっはっは、お前は最高の怪物だな。まさか、自分で闇の魔法をそれと知らずに生み出したっていうのか」
「それがなんだ。貴様を消し炭に帰すことは容易だ」
「おお、それは怖いな。なら俺は立ち去るとしよう。その嬢ちゃんは置いておくぞ。どうだ、お前の戦う理由を奪ってやった」
もしかすると、上手く言いくるめられたのかもしれない。
それでも構わなかった。死竜騎士は剣を降ろし、死竜をゆっくりと手ぐすね引いて控えさせる。
全てを確認し終えた仮面の男は歪んだ笑い声を放ちながら、バハムートの足に捕まり、消えていった。
まるで嵐を通り越してそよ風のようなやつだ。
死竜騎士は仮面の男が消えていった空を見上げることなく、ただゆっくりと背後を見た。
何もない。帰るべき場所のない帰路。家路。どれもこれもしっくりこない。
帰るべき場所のない場所に帰るという皮肉に押しつぶされそうだった。
「ね、ねえ!」
ふと、かかった声に死竜騎士は耳を傾けた。
「……なんだ」
答えるつもりはなかった。
今こそ、ここでこそ、何も言わず立ち去るべきだった。
しかし、死竜騎士は応えた。まるで問いかけを待っていたかのように。
「ありがとう!」
言葉は、死竜騎士が想像したものとは全く違うものだった。
感謝。感謝の言葉。
今まで、どれだけ乞うても得ることが出来なかった称賛の言葉。
ルインとしてではなく、死竜騎士として、初めて浴びた称賛の言葉。
痺れるような感覚が胸を突き、死竜騎士はただ茫然と立ち止まった。
いかなる時も、如何なる攻撃を受けようと、決して立ち止まる事などなかった彼が、たった一言に、心を動かされて、ただ茫然と、立ち尽くした。