番外編 エレーナの客人
実験器具を片付けていると、ドアベルがちりんちりんと音を奏でた。
作業台の上の棚にちらりと視線を向ける。手を伸ばして、白百合が描かれた古い手鏡を手に取る。小さく呪文をつぶやくと、自分の姿が映っていた鏡の中は店の中を映し出した。
そこには蜂蜜色の髪を垂らしたドレスを着た少女がメイドを伴っている光景が映っており、エレーナは老婆の声を作って「お入り」とだけ告げた。
手鏡をしまうと、部屋の仕切りに使っている魔法の布をめくり、予約客が顔を出した。
「思ったより元気そうね。エレーナ」
「ご覧の通りよ。薬師が病気で寝込んでいたら商売あがったりでしょ?」
「それもそうね」
丸テーブルにカゴを載せ、手前の椅子にイザベルが優雅に座る。
エレーナは用意していた果実水をコップに注ぎ、客人の前に出す。イザベルはカゴの中から袋に入ったクッキーを取りだして、机の上に置いた。ご丁寧に青いリボンで結んである。
「お土産よ。お口に合えばいいんだけど……」
「お菓子は片手間に食べられるから、なんでも好きだわ」
青い瞳を細めて言うと、イザベルが嬉しそうに笑みを浮かべた。だけど、部屋の隅に重ねてある段ボール箱を見て、さびしそうな表情になった。
「……本当に引っ越すのね」
この店は引き払って、オリヴィル公爵家のバックアップのもと、表通りに別の店を出すことになっている。
魔女は自分の代で終わりにする。そのことに、まったく未練がないと言えば嘘になるが、自分が決めた道だ。後悔はしていない。
「ええ。隠れて生きるのはもうおしまい。これからは堂々と自分の姿で胸を張って生きていくわ」
「……リシャールとはどうなの?」
自分の婚約者の名前が挙がり、エレーナはああ、と頷いた。
「結婚の話? 私は別にどうでもいいけど、リシャールは主より先に結婚式をするわけにはいかないと言っていたわ」
「やっぱり、そうなのね……」
「貴族の結婚は何かと準備があるのでしょう? 大変ね」
「式は一年後になったわ。だけど、リシャールは何回促しても首を縦に振らないのよね」
イザベルは手のかかる我が子を嘆くように、片頬に手を当てて嘆息した。
それを見て、自分は貴族の家に生まれなくてよかった、とつくづく思う。
リシャールから聞いた話だと、招待客のリスト作りからてんやわんやらしい。貴族の結婚にはしきたりも多く、準備の話を聞いただけでも別世界の出来事のようだった。
「あー……まあ、いいんじゃない? 引っ越しして新しい客を獲得するのも大変だろうし、それに魔女に関する取り決めで、あなたの旦那が奔走しているわけだし」
「ジークはまだ婚約者よ」
すかさず訂正が入り、エレーナは苦笑した。
ごほん、と咳払いをして話を続ける。
「魔女をやめるって言うのは簡単だけど、手続きはかなり複雑のはずよ。政治のことはよくわからないけど、水面下で交渉を続けているようだし、私はちょうどよかったと思っているわ」
「でも、エレーナだって、リシャールと早く一緒に暮らしたいんじゃないの? せっかく両思いになったのだし」
「うーん。ちょくちょく顔を見せにくるから、そんなにさびしいと思うことがないのよね。もともと私、一人で生きる覚悟でいたし。だから、自分のせいでだなんて、イザベルは思わないでいいのよ」
「……そう? ならいいのだけど」
まだ完全に納得していないような顔だったが、エレーナはやや強引に話題を変えた。
「ところで、何か悩みがあるのでしょう? 相談に乗ってほしいことがあるって手紙には書かれていたけれど」
「……そうだったわ。わたくし、あやうく本題を忘れるところだったわ」
「しっかりしなさいよ。次期公爵夫人になるのでしょう?」
「……う。き、気をつけるわ……」
こういう素直なところは貴族らしくないと思うが、イザベルの美点でもある。
エレーナは頬杖をつき、目の前の友人を見やった。
「それで? 一体、魔女に何の悩み事? 惚れ薬は……いらないわよね」
冗談のつもりで言ったのに、なぜかイザベルは目の色を変えて上半身を乗り出してきた。あわててエレーナも頬杖を外し、後ろに身を引く。
「惚れ薬なんてあるの!? さすが魔女ね!」
「……いや、必要ないでしょ。あんなに溺愛されていて」
「自分に必要なくても、魔法の薬はやっぱりときめくわ! 飲んですぐ効果が出るのかしら? それとも遅効性? 効果はいつまで続くのかしら!」
「……まずは、果実水でも飲んで落ち着きなさいよ」
イザベルはそこで我に返ったらしく、しおしおと腰を下ろした。そして、コップを傾けてぐびっと飲み干した。コトン、とコップが置かれる音がやけに大きく響いた。
「……わたくし、昔からどうしても叶えたい願いがあるの」
「願い?」
「ええ」
強い肯定に、エレーナも背筋を伸ばした。
「何か深い事情があるようね。ここには私しかいないわ。話してちょうだい」
「エレーナ……わたくし、身長を伸ばしたいの!」
「…………は?」
耳を疑う発言が聞こえてきた気がするが、聞き間違いだろうか。
しかし、そんなエレーナの胸中には気づいた様子はなく、イザベルは生真面目な口調で語り出す。
「昔から同年代より低いこの身長が憎いの。おかげで、下級生に見下されるわ、デビュタントでは迷い込んだ子供扱いされるわ……聞くも涙、語るも涙の悲しい思い出ばかりなのよ!」
「……く、苦労してきたのね」
「わかってくださる!? 高等部に上がって間もない頃、アクシデントがあって初等部の服を渡されたときの衝撃は忘れられないわ。絶対無理よと思ったのに、普通に着られた自分の子供体型がおそろしかった……」
確かに初めて会ったときも、少し身長が低いとは思っていたが、まさか本人がここまで気にしていたとは思っていなかった。
エレーナは額に指先を当て、うなだれるようにうつむいた。
「……イザベル」
「なあに?」
目を開けると、期待を隠しきれない瞳と視線がぶつかった。
しかし、自分は無慈悲な魔女の末裔。当然ながら客の要望に応えられないときもある。なぜなら、魔女は万能ではないのだから。
「これ以上にないくらい期待しているところ悪いけど、身長を伸ばす薬はないわ」
「……ごめんなさい。もう一度、言ってくださる?」
イザベルは現実を受け止めきれないように、瞳を揺らがせている。
エレーナは今度は言葉を変えて、キッパリと言う。
「魔女でも作れない薬はあるの。身長を伸ばすには、自分の力でなんとかするしかないわ」
「うそ……でしょ……」
「嘘なんかじゃないわ。身長が低いのは遺伝によるものが大きいと思うのだけど、親族で背が低い人はいなかった?」
可能性を示唆すると、何かを考えこむようにイザベルが固まった。
「……そういえば、母方のおばあさまが小柄な方だったと聞いたことがあるわ」
「じゃあ、そのせいね」
「…………」
「イザベル。身長が低いと嘆いているけど、周りはそんなあなたが大好きだと思うわよ」
「……え?」
谷底に突き落とされた子ウサギのように目を丸くしているので、エレーナは説明不足だったかと思って、再度口を開く。
「小さいことは悪いことだけじゃないわ。庇護欲をかき立てられるし、見ていて和むもの。あなたの存在が誰かの癒やしになっていると言っても過言ではないと思うわ」
ない知恵を絞って選んだ言葉は、イザベルのかたくなだった心に届いたらしい。
その証拠に、目の前の彼女は憑き物が落ちたように静かな顔つきに戻っている。けれど、それも長くは続かなかったようで、震える子鹿のように小さい声が語りかけてきた。
「で、でも……これは悲願なの。人並みの身長を手に入れて、誰にも背が低い伯爵令嬢なんて思われたくないのよ」
「そう……あなたにとって、なかなか根が深い問題のようね」
「魔女に頼るしか、わたくしに残された手はなかったというのに……!」
「そんなに大きくなりたいの?」
「もちろんよ!」
拳を作って頷く様子に良心が刺激され、エレーナは横を向いてつぶやくように言った。
「…………ひとつ、手がないわけじゃないわ」
「なんですの!? ぜひ教えてくださいませ!」
「現実の身長はどうにもならないわ。だけど、夢の中なら魔女の力が使えるの」
それは特別な相手にしか明かせない、古の魔法。
悪用を避けるために封じられてきたものだが、イザベルはきょとんと瞬くだけだった。
「なんというか、夢のようなお話しね」
「……どう? 試してみる?」
「当然よ! この際、夢の中でも構いはしないわ。わたくしは身長を伸ばして、皆をぎゃふんと言わせてみせるもの!」
「…………」
「それで、具体的にはどうすればいいのかしら?」
エレーナは席を立ち、木箱の中に入れておいた中から目当ての瓶を一本、取りだした。そして、それをイザベルの前に置く。
「寝る前にこの薬を飲み干して。それは夢見の秘薬。魔女が夢に現れて、あなたの夢に関与するための薬だから」
「まあ、エレーナがわたくしの夢に?」
いまいちピンときていないのだろう。
空想のおとぎ話を聞いたような顔つきで、考えこんでいる。
「言っておくけど、これは特別よ。私の友人でもあるイザベルだから渡すのであって、本来なら持ち出し厳禁なんだから」
「そんな貴重な薬を……本当にもらっていいのかしら」
「これでも私、あなたには感謝しているの。リシャールを救ってくれたこと。あの子が思い詰める前に、自分でどうにかしちゃったんだもの。だから、言わばお礼とでも思ってちょうだい」
そう、本来ならば。
イザベルはこうして今、目の前で笑っているはずなんかないのだ。
最初の予知夢で見た「魔女狩りが行われるはずの未来」はリシャールの行動で変化した。
イザベルは物語の悪役令嬢のように断罪された挙げ句、呪いの薬で老婆の姿となり、人里離れた山奥でひっそり暮らすはずだった。けれどその未来でさえ、彼女は変えてしまった。
悪役令嬢だけでなく、魔女さえも幸せになる結末とともに。
「そういうことなら……ありがたくいただくわ」
大事そうに小瓶を抱えるイザベルがいそいそと帰り支度を始める。イザベルがパーティション代わりの布をめくる直前、エレーナは注意事項を思い出した。
「……あ、言い忘れていたけど。その薬、とっても苦いから」
「へ……」
「まあ、夢を叶えるには代償はつきものよね。頑張って飲み干して」
「わ、わかったわ……」
渋い顔つきだったが、大丈夫だろうか。わずかな不安を残したまま、イザベルの背中を見送った。
*
イザベルに渡した薬が持ち出し厳禁なのは、理由がある。
他人の夢を媒介して魔法を使うには、魔女も同じ薬を飲む必要があるためだ。
ゆえに、本当に信頼できる者にしか渡さない決まりなのだ。
(そろそろかしら……)
時計の針を確認し、エレーナはベッド横のサイドボードに置いていたガラス瓶を手に取った。蓋をひねると、キュポッという音がする。
琥珀色の液体からは甘い香りがするが、その味が正反対なことは鍋に材料を入れた張本人だからこそ、よく知っている。
「…………」
エレーナはごくりとつばを飲み込んで、ガラス瓶を傾けた。途端にうめきたくなるような苦みが襲うが、気合いで飲み干した。口の端からあふれた薬液を袖口でぬぐい、息を吐き出す。
(うう。味はもう少し改良したいところね……)
反省点をかみしめながら、ベッドに倒れ込む。
しびれ薬を盛られたように手足が小刻みに揺れている。全身から力が抜け、意識がもうろうとする。抗いきれない睡魔に瞼を伏せた。
そして次に目を開けると、右も左もわからない霧の中にいた。
(…………ここは?)
先ほどとは違って、意識ははっきりしている。
他人の夢に入るのは生まれて初めてだ。緊張で口の中が乾く。だけど、ここまで来た以上、後戻りはできない。
覚悟を決めて前を向く。すると、白い霧が徐々に晴れて、緑の絨毯が目の前に現れた。
足元を見やると、ふさふさの芝生があった。名もなき小花も咲いている。横から風が吹き、そちらへ視線を向けると、見覚えのある蜂蜜色の髪が見えた。
(いた……イザベルだわ)
その身長は、今よりもっと小さい。初等部に入る前の頃かもしれない。
彼女は芝生の上に座り込んで、花の冠を作っている途中だった。
エレーナはイザベルの後ろにたたずみ、その様子をつぶさに観察した。不器用な花冠はところどころ歪んでいる。花の向きも下に垂れ下がっているため、全体的にもう一息というレベルだった。
だけど、今もイザベルは真剣にせっせと編んでいる。
エレーナは彼女の横に腰を下ろし、花冠が完成するのを待つことにした。はじめから自分の存在は見えないのか、まったく気づく様子はない。
しばらくして、イザベルが立ち上がった。頭の上にはできたばかりの冠が載っかっている。達成感と高揚感で頬が上気している。
子供らしい笑顔を間近で見つめ、エレーナは右手の人差し指をくるりと回した。
すると、右手から金の蝶が生まれ、イザベルの真上をひらひらと舞う。蝶が羽を動かすたび、金の粒子が降り注ぎ、彼女の小さい体をあっという間に覆い尽くす。
指をパチンと慣らすと、蝶は跡形もなく消えて、うずくまっていたイザベルが起き上がる。その顔つきは記憶と同じものに変わっていた。
ただ、一点だけ異なるのは、彼女の身長だった。エレーナが見下ろしていたはずの身長はぐんと伸び、今はエレーナより少しだけ目線が高い。
イザベルは自分の体をひねり、背が伸びたことを何度も確認している。気のせいではないことがわかると、一気に顔が華やぐ。
それから遠くでイザベルを呼ぶ声がし、喜色満面で声の方へと走っていく。
(私にできるのはここまでね……)
夢の接続を切るため、そっと瞼を伏せる。
エレーナの意識はそこで途切れた。
*
翌朝、イザベルが従者も連れずに突撃訪問してきて、文句を言う前に抱きしめられた。ありがとう、と繰り返す横顔はゆるみきっていて、叩き起こされた怒りはどこかに消えていた。
悪役令嬢が主人公の新連載を始めました。お時間がありましたら、新作もお読みいただければ幸いです。





