79. 運命を変える薬
魔女の店で待っていたイザベルは、呼び出した人物の姿を認めて目を細めた。
「リシャール、来てくれたわね」
「本当に魔女の元までたどり着くとは思いませんでしたよ。ここには侵入者よけの魔法があるのに……」
リシャールのつぶやきに、魔女が語を継ぐ。
「目くらましの魔法は、害をなす目的や興味本位での来訪を拒んでいるだけだ。そこの令嬢たちは自分の足でやってきた、言わば私の客人だ」
「……そうですか」
それまで沈黙を守っていたジークフリートが前に進み出て、ガラス瓶を二つ掲げた。
瓶は、先ほど代金と引き換えに受け取ったばかりのものだ。
「魔女殿、この薬の効能は依頼したとおりか?」
「ふん、酔狂なものだ。魔女狩りが行われると絶命する薬など、誰が好んで飲むというのか」
吐き出す声には侮蔑が混じっていた。
イザベルはジークフリートの横に立ち、彼から差し出された魔女の秘薬を受け取る。
「リシャール、君に誓おう。僕とイザベルが結婚しても、魔女狩りは行われない。これはその証しだ」
「二人で考えて出した結論ですわ。どうか、わたくしたちを認めてください」
互いに目配せし、それぞれ無言で瓶の蓋を開ける。キュポッという音がして蓋が抜け、紫がかった液体を勢いよく飲み干す。
多少苦みはあったが、我慢できる程度だった。口元の端にこぼれた液体を手で拭い、リシャールの反応を窺う。彼は目に見えて狼狽しているようだった。
「なんて無茶な……あなた方は正気なのですか」
はじめ、ジークフリートから賭けを持ちかけられたときは、イザベルも同じことを思った。しかしながら、これ以外に専属執事を納得させられる方法は思いつかなかったのも事実だ。
「当然だろう。君を納得させられなきゃ、イザベルと結婚できないのだから」
「…………」
ジークフリートはイザベルの腰を抱き寄せ、リシャールの疑うような視線を真っ向から受ける。
「公爵令息と伯爵令嬢、二人分の命が担保だ。未来永劫とは約束できないが、僕たちが存命のうちは魔女狩りはさせない。彼女も公爵家公認の薬師として保護することを誓う。この条件で納得してはもらえないか」
魔女の力を信じるリシャールなら、この言葉が嘘偽りではないことがわかるだろう。
案の定、専属執事は憑き物が落ちたように、呆然と口を開いた。
「それほどまでにお嬢様……イザベル様とご結婚されたいのですか?」
「愚問だな。君こそ、そちらの可憐な魔女殿を妻にしたいのだろう? なら悪い取り引きではないはずだ」
「可憐……?」
老婆の形容詞としては、いささか無理がないだろうか。
その思いが顔に出ていたのだろう。ジークフリートが言葉を付け足す。
「そうか、イザベルは魔力が低いのだったな。老婆の姿は仮の姿。彼女の実年齢はまだ若い、二十代前半といったところだろう」
「失礼な! まだギリギリ十九歳よ」
パチン! と指を鳴らした音がしたと思ったら、ぼふんっと煙が視界を遮る。
イザベルの腰に回された腕に力がこもる。
もわもわとした空気が雲散霧消すると、魔女がいた場所にはうら若き乙女がいた。
「……え……?」
灰色の髪はお団子でひとくくりにされ、青い瞳が宝石のようにきらきらと輝く。黒いローブ姿からのぞく細腕はみずみずしい白肌。
珊瑚のような小さな唇は満足そうに弧を描き、イザベルは瞬いた。
けれど、いくら瞬きを繰り返しても、その幻は消えない。呆気にとられていると、リシャールの嘆くような声が響く。
「ちょっ、エレーナ! 自分から化けの皮を剝がすなんて無謀すぎる」
「心配しなくとも、最初から彼には正体はお見通しだったわ。ジークフリートといったかしら、あなたが親指にはめている指輪は『妖精の涙』でしょう」
口調も老婆から年相応のものに変わっている。
展開についていけないイザベルをよそに、ジークフリートは首肯した。
「ご明察。これは人間の本質を見抜く魔法道具だ。魔女殿との取り引きには有効だと思って、我が家の宝物庫から失敬してきた。魔法で歳をごまかしていたようだが、二重に見えた君はどう見ても年頃の少女だった」
ならば、どうして先に教えてくれなかったのか。
そう詰りたい思いに駆られていると、エレーナと呼ばれた少女が不敵に笑う。
「魔女の予知夢を変えようだなんて、いい度胸をしているわね。いいわ、気に入ったわ。ひとまず、あなたたちを信じることにする。リシャールもいいわね?」
「いいのか、本当に彼らを信じて……。予知夢どおりに進めば君は!」
エレーナの肩を抱き、リシャールが苦悶の表情を浮かべる。そこには未来の不幸への危惧が描かれていたが、魔女はくすりと笑う。
「命と引き換えに、彼らは誠意を尽くしてくれた。魔女との契約には十分な対価だと思わない? それにきっと、予知夢があろうがなかろうが、いつか魔女は世界から異端の者として切り捨てられる。なら私は魔女の誇りを捨てるわ。代わりに普通の女の子として、あなたと生きていく。ねえ、これって素敵な未来でしょう?」
エレーナの右手がリシャールの頬を包みこむ。その手に自分の手を重ね、リシャールは重い口を開いた。
「……想いを受け入れてくれるのか」
「ええ、そうよ。あなたの妻にしてちょうだい。世界一の夫婦になりましょう」
おどけたような照れた笑いは、少女らしい反応で、イザベルはやっと現実が飲み込めた気がした。
嬉しそうに目元を和らげる専属執事の横顔を見つめながら、そっと祝いの言葉を口にする。
「おめでとう。リシャール、エレーナ」
「……ありがとうございます」
リシャールは展開についていけないらしく、手放しに喜べないような顔をしていた。
その横でエレーナがふわりと微笑む。
「イザベル、あなたには感謝しなくちゃいけいないわね」
「わたくし?」
「運命に一番抗ったのはイザベルよ。あなたたちは何度も引き裂かれそうになったのに、魔女の思惑を飛び越えて結ばれようとしている。精霊たちの祝福の声が聞こえるわ」
魔力値が低いイザベルには、その声はわからない。だがジークフリートを見やると、彼は魔女の言葉に同意するように頷く。
「いいえ、一人の力ではないわ。わたくしのそばにはいつもジークがいたから、彼のおかげよ」
ジークフリートを見つめると、ダークブラウンの瞳が優しく見つめ返す。
(フローリア様もクラウドを選び、白薔薇ルートから紅薔薇ルートに変わった。わたくし一人だけだったら、攻略ルートの変更なんてできなかったはずだわ)
ジークフリートのおかげで、ヒロインだけでなく悪役令嬢も幸せになるルートができた。不可能を可能にした。決まっていたはずの未来を覆すことができた。
もしも、一人であがいただけだったら、この結末にはなっていなかっただろう。
不意にリシャールがよろよろと前に進み出て、頭を下げる。深く腰を折り、最敬礼の形だ。
「イザベルお嬢様。私は主人であるあなたに数々の無礼を働きました。どうか、お嬢様の望む罰をお与えください」
声色にはいつもの覇気がない。
しゅんとうなだれたような赤茶色の髪を見つめながら、イザベルは口を開く。
「……リシャール、あなたには本当に困ったものね。わたくしはあなたをずっと弟のように思って生きてきたのに、いまさら他人行儀になるなんて薄情だわ」
「お嬢様、しかし」
「あなたを許します。リシャール、あなたは素敵な恋をしていたのね。魔女に恋をしていろいろ大変だったでしょう? これからも変わらず、エルライン家に仕えてくれるかしら」
すべて水に流すと暗に告げると、リシャールはゆっくり身を起こす。
「……決めました。私はお嬢様の嫁入りの際にも同行いたします」
「は?」
「私はイザベル様に一生を捧げて仕えたく存じます。どうぞ、末永くよろしくお願いいたします」
決意を秘めた瞳で見つめられ、言葉が出てこなかった。
(これは……まさかの展開?)
思いこみが激しい節のあるリシャールの妙な言い回しに、唯一反応できたのは今まで成りゆきを見守っていたジークフリートだった。
「待て、リシャール。それでは未来の夫である僕と、君の妻になるエレーナの立場がない」
「もちろん、公私混同はいたしません。仕事中は主人を優先し、プライベートでは妻を優先します。イザベルお嬢様はいつまでも私の主人であり、大事な……姉上なのですから」
その場にいたリシャール以外が面食らい、やがて堪えきれずに吹き出した。つられて笑う声を聞きながら、ようやく和解ができたことを実感する。
久しぶりに笑いすぎて横腹が痛かったが、返事を健気に待つリシャールをそのままにしておくわけにもいかない。
目尻にたまった涙を拭き、イザベルは専属執事の手を両手で包みこむ。
「これからも、よろしくお願いするわね」
「仰せのままに。イザベル様」
リシャールは晴れやかな笑みで頷いた。久しぶりに見たその笑顔は、かつて手をつないで遊んだ幼少のときと同じものだった。





