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悪役令嬢は執事見習いに宣戦布告される  作者: 仲室日月奈
第三章

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32/84

32. わたくしはお呼びじゃありませんよね?

「ねえ、リシャール。わたくしはもう帰ってもいいかしら?」

「まだ初日ですよ。さすがに失礼かと」

「それは、そうだけど……。あの二人をご覧なさい。どう見ても、二人きりの世界にいるじゃない。わたくしがここにいる必要はないでしょう」


 顎で示す先には、若い男女の姿があった。

 朝一、フローリアと公爵家の車に乗って別荘に着いたのは、ちょうどお昼前だった。遅くなると言っていたジークフリートは、イザベルたちがお昼を食べた直後に到着した。

 予想より早く登場した婚約者は、湖に行こうと提案したのだ。オリヴィル公爵家が所有する別荘の裏には湖があり、ボートは二隻あった。

 ボートは少人数タイプのため、二人一組で定員オーバーだった。

 組み分けはイザベルが提案した。難色を示したジークフリートには、あまり仲良くない異性と一緒に乗ることは、フローリアが気後れしてしまうと言って押し通した。

 フローリアとジークフリートの乗ったボートは湖の中央で止まり、談笑している声が届く。それを眺めるイザベルは複雑な心境になった。


(……どうして、こうなったのかしら)


 彼らより離れた木の陰に隠れる場所にボートを寄せていたリシャールは、漕いでいたオールの手を止めた。


「ジークフリート様のお考えは、私にはわかりかねます。ですが、お嬢様の気分を害するために呼び寄せるような真似はなさらないはずです」

「わたくしだって、そう信じたいわ。だけど、現状は限りなく黒よ。黒はね、何色にも染まらないのよ。一度、黒に染まった布は決して白には戻らないの。この意味がわかる?」

「……つまり、ないがしろにされて、憤慨されていらっしゃるのですね」


 心境をずばりと言い当てられて、イザベルは口を閉じた。

 ゲームのイベントの関係上、自分でお膳立てしたとはいえ、確かに気分がいいとは言えない。

 二人の楽しげな姿は、スチルと同じ光景だ。イベントが無事に進んだことは喜ばしいと思う。しかし、このイベントに悪役令嬢が出る場面はない。どうして自分がここに招かれているのか、甚だ謎である。


(フローリア様の恋を応援すると決めたけれど、いざ目の前で仲睦まじい様子を見せつけられると、無性に腹が立ってくるのは悪役令嬢だから? それとも単に自分の器量が狭いからかしら)


 どちらにせよ、精神的負担が大きいのは変わらない。ゲーム内のイザベルに同情してしまう。

 透明度の高い水面を見下ろし、ふと昔の記憶を思い出す。


「そういえば、このボートに乗るのも二度目ね」


 初めて別荘に招待されたのは、まだ婚約して間もない頃だった。幼少のジークフリートはイザベルと本を読みふける、静かな子供だった。

 たまに乗馬など違うことを誘ってくることはあったが、イザベルが臆していると、決して無理強いをすることはなかった。ただ一度を除いては。


「……あれは予想外でしたね。当時、ジークフリート様にあれほどの行動力があるとは思っていませんでしたし」


 二人だけでは危ないのでは、と引き止める声を聞き流し、ジークフリートはイザベルの手を引っ張っていった。いつもは生真面目な彼が、一度だけ見せた、年相応な無邪気な笑顔にイザベルは強く出られなかったのだ。

 それは周囲の使用人も同じだったようで、呆気にとられている間に、子供二人が乗ったボートは動き出していた。


「ふふ。みんなが止める中、わたくしを連れてボートに乗り込んだのよね。途中までは顔を真っ赤にして頑張っていたけれど、転覆してしまって。二人そろって、暖炉の前でとても怒られたわ」


 溺れることはなかったが、両親にひどく心配をかけてしまった。おかげで、しばらくボート禁止令が出ることになったけれど。

 視線を前へ向けると、昔とは違って余裕のある横顔が見えた。すいすいと漕いでいた様子からも、彼が筋力をつけて頼りがいのある男になったことは一目瞭然だ。

 時は過ぎ、非力だった子供の姿はもうどこにもない。


「お二人とも泳げたからよかったものの、ボートがひっくり返ったときは肝が冷えましたよ。初夏とはいえ、まだ水温も低かったのですから」


 苦々しくつぶやく顔を見て、イザベルは昔の記憶をさらう。


「……そういえば、思ったより寒かった気がしたわ。もしかして、そのときから水難の相が出ていたんじゃないかしら」

「言っておきますけど、今日はそんなアクシデントは求めていませんからね」

「わたくしだって別に求めているわけではないわ。水にかぶられるのは何度経験しても慣れないものよ」


 全身がぐっしょりと濡れた日には、服が鎧のように重く、とにかく身動きがしづらい。主人が濡れたら着替えはもちろん、湯浴みの準備や温かい飲み物の用意など、専属執事であるリシャールの仕事も増える。


「お嬢様のボートを漕ぐ係は絶対に譲りませんからね? イザベル様はおとなしく座っていてくださいよ」

「心配はいらないわ。わたくしの腕は非力だもの。そもそも漕げないし」

「とか言って、前に漕いでみたい、と無茶ぶりしたことは忘れていませんよ」

「……よく覚えているわね。それより、木陰で休むのもいいけれど、そろそろ出発しない?」


 もうすぐ午後のティータイムだ。ゲーム進行もおおむね順調だ。

 早めに戻り、ふかふかのソファに身を沈めたい。

 そう思って投げかけた言葉だったが、リシャールは耳を疑うように固まっていた。しばらくの間を置いて、地を這うような声が返ってくる。


「まだ進むつもりですか……?」

「あら、もう弱音を吐くの?」

「結構な重労働ですよ、これ。休みながらでないと陸に戻れません」

「ふふ、冗談よ。リシャールも疲れただろうし、わたくしも湖は十分堪能したから、そろそろ戻りたいと思ったのよ」

「それを聞いて安心しました」


 力を抜いて微笑む様子は、完璧な執事というよりも、幼い頃の彼を彷彿とさせた。目が合うと、ふいと視線が外される。

 リシャールは湖の中央にいる二人を見つめながら、ぽつりとつぶやく。


「……本当に、ジークフリート様はどういうつもりなのでしょうね……」


 小声でうまく聞き取れず、イザベルは首をひねった。


「何か言った?」

「いいえ。では、我々は先に戻りましょうか」


 ボートはその場でゆっくりと方向転換し、ジークフリートたちを残して一足先に屋敷に戻った。

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