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青を、往け。【短編集その2】

作者: 浅野新

「月を望む」

彼を望月と言う。

彼は自分が月を望むのはこの名前のせいだ、と思っている。


実際よく月を見る。月に詳しいという訳ではない。新月等の種類は全く分からず、月なら何でも良い、という性質である。ただ彼が特別に好きな物は満月だった。ある時その理由を訊かれて、単純で分かりやすいからだ、と答えた。何事も単純な方がいい、と彼は思っている。

今日は満月のきれいな夜だった。部屋の明かりを消すと、暗闇の中で三つの窓からわずかな月光が差し込む。望月は一番大きな窓の脇にあるベッドに横になった。家の前にある水田から聞こえてくる、蛙の大合唱が夏の訪れを告げている。彼は少し体を起こし、閉じたカーテンに向かって手を伸ばした。彼はこの瞬間が好きだった。

ゆるゆると暗闇が開け、一条の光が部屋に届く。それはまるで、自分の手で世界という舞台の幕を開けるような快感、神になったような感覚だった。光は柔らかく彼の顔を照らし出す。顔を少し右に傾け、彼は月をぼんやりと眺めた。満月の姿が現れただけで、うるさいほどの蛙の声も、道路を走る車の音も、時折家の前を通る人の声も、全てが静かになったように感じられた。まるで月に音を吸い取られたかのように。うるさい主旋律がBGMに変わった気がした。音を吸い取った主は、墨汁色の空間に独り白く佇んでいる。


単純だから、美しいんだ。そう思った。月をじっと眺めるうちに、白くて丸い形はその輪郭をゆがめ、光は分裂し、全ての音は空の片隅へ流れて行く。

代わりにぼんやりと浮かんでくるのは、朝の風景、四角く大きい窓__。


「どう、最近は」

小鳥のさえずりが聞こえる。窓のブラインドを通して柔らかな光が差し込み、開いた窓からは新鮮で涼しい風が流れてくる。活動を始めたばかりの、まだ静かなオフィスの窓辺に、男が二人座っていた。

「どう」

部長が重ねて訊く。

「はあ。まあまあ」

訊かれたAさんが答える。

「誰かいい人はいないの」

部長の声が少し苛立たしげに響く。

「はあ」

「君ね。今はいいかもしれないよ。でもね、ご両親だって、いつどうなるかも分からない。一人の老後は寂しいよ」

「はあ」

「だから」で、部長の声は大きくなり、慌てて声のトーンを落とす。

「結婚は絶対した方がいい。やっぱり一人より二人だよ。私もね、この年になって有難みがよくわかるようになった」

「はあ」

窓辺の男達の会話が、朝の風に乗って少し席の離れた望月の耳にまで聞こえてくる。

彼はメールを作成しながら、こみ上げる苛立ちを抑えていた。

時代錯誤な部長もそうだが、AさんもAさんだ、と思った。結婚したくないならそうとはっきり言えばいいじゃないか。

Aさんは三十代後半の望月の先輩で、まだ独身だと噂で知った。言われてみれば、穏やかながらマイペースで、趣味_旅行らしい_に没頭しているAさんを見ると、自由人としての生活が合っているように思えた。

部長はそう思ってはいなかった。Aさんと二人で話す機会があると、度々結婚話を持ちかけた。見合い話に始まり、Aさんにその気がないと分かると、結婚の素晴らしさ、老後について、果ては自分の人生論までも熱弁し、それらは全て望月の耳にまで流れて来た。

聞くのが嫌なら席を立てば良い。仕事の電話をかければ良い。もっと簡単なのは近くの同僚に話しかける事だ。

彼は毎回そう思いつつも、席を立つ事も、電話をかける事も、人に話しかける事もなく、硬直したように席に座り続けている。

何故これほど苛立つのだろう、と彼は目の前のパソコン画面をぼんやりと見つめた。特に親しいわけではないAさんの、味方をするつもりではなかった。


自分がまだ結婚したくないからかもしれない。

現在二十七歳。しばらくは仕事に没頭したい、とまだ結婚は望んでいなかった。


全てはタイミングだろう。

自分の意思での。

大嫌いな言葉がある。

「何で結婚しないの? 」


何で皆結婚するのだろう。

望月は簡単な料理ならできる。「これからの男は自炊できなきゃ」と発展的な祖母に小さい頃から仕込まれた。掃除も洗濯も今時の機械なら簡単だ。アイロンがけと裁縫は苦手だが、クリーニングに出せば良いし、服は直さなくても良いなら買えばいい。今は安くて良い物が豊富なのだ。セックスは恋人を持てばいいし、いなければ専門の所へ行けば良い。不道徳と言われそうだが、向こうはれっきとしたビジネスとしてやっているのだ。結婚しても浮気する方が不道徳じゃないか、と思う。子供にはまだ興味がない。

考えれば考えるほど望月には「結婚する」理由が一つも見当たらないのだった。


それも困る。結婚はしたいのだ、いつかは。

他の理由を考えているうちに、三年前に結婚した兄の事を思い出した。


兄は、大人になりたいから結婚したのだ、と思う。

昔から「世間体」や「一般常識」という言葉に弱かった兄は、早く大人になりたがっていた。大人になれば、早く立派な大人になりさえすれば皆からうるさく言われずにすむ、と。その為小さな頃から勉強にお稽古事に飛び回っていた彼の姿は、生きているというより生き急いでいると言った方が良かった。大学生になる頃には酒と煙草と女性との付き合いも「一般的に」たしなみ、大学を出ると、さっさと就職した。それで一旦〝大人になった〟という事に満足したのか、少しの間兄は大らかで、陽気だった。望月はこの時の兄が好きだった。子供時代を除いて滅多にしなかった家族全員での旅行をしたのもこの時期だ。しかし兄は、すぐまた元に戻ってしまった。

きっかけは、兄が帰省していた正月の事だった。父母と兄と望月の家族団欒の中、おとそでほろ酔い気分の父が兄に向かって言った。

「これで結婚したらお前も一人前だよ」

兄は笑っていたが、その笑顔が硬いのを望月は見逃さなかった。やがて兄は普段の神経質でせかせかした男に戻り、わずか半年で当時付き合っていた女性とは違う人と結婚した。最近子供も生まれた。

兄は父の一言で気付いたのだ。「結婚すれば社会的信用を得られる」という事に。

社会に出て働き、結婚し、子供をもうけた兄は、世間から一人前とされた。父母も周りも兄を立派になった、と褒め称え、会社では順調に出世している。

大人になるために大人になった兄。生涯の目標が「大人になること」だった兄は、早くもその目標を達成し、安心した。安心して、満足してしまった。

望月は知っている。兄が最近家に寄り付かなくなった事を。以前兄の妻から電話を受けた事がある。最近出張が多いらしいが、あなたの所へ行っていないか、と。もちろん兄は来ていなかった。父母には何も告げていない。

兄は妻子を捨てる事はないだろう。それは兄曰く「大人でなくなってしまう」から。しかし、大人になって満足した兄が、別の満足を探しているとしたら。

そんな兄は望月に会う度に「お前も結婚してこそ大人なんだからな」と言う。兄が大人なら、大人になんかならなくてもいい、と思う。


世間から大人になったと認めてもらうための結婚。


全く当てはまらない、自分には。

他に皆が結婚する理由があるはずだ。

一番純粋で、シンプルで、だからこそ高尚だと言われている理由。


その人と一緒にいたいから。



望月は、はたと考え込んでしまった。

愛しているから、結婚する。

何故だろう、しっくりこないのは。

自分は一番その答えを望んでいたのではなかったのだろうか。

望んではいても、信じていないのだろうか。

彼は、恋愛で、つまり「愛しているから」結婚した友人達を数多く見てきた。その後離婚した人々も。

愛しているから、結婚する。

その理由を、頭から否定するほど大人でもなかったが、心底信じられるほど子供でもなかった。


結婚したい理由が、どこにもない。

もしかして自分は、結婚してはいけない種類の人間なのだろうか。

突然、ひゅうと強い風が窓から吹いて、カーテンを揺らした。気がつくと、蛙の声が近くに聞こえていた。道路を走る車の音もする。  

満月に目をやると、ひっそりと、光っていた。


数ヶ月が過ぎた。その間部長はあいかわらず結婚話をし、Aさんは「はあ」「まあ」と呑気な返事をしている。

分かった事がある。Aさんは、「はあ、まあ」ぐらいしか結婚する理由がないから、結婚しないのだ。Aさんなりの理由。


結婚する理由は、皆と同じでなくてもきっと良い。

僕なりの速度。

僕なりの理由。

それが見つけられる相手を、きっと探してみせる。

望月はパソコン画面に目を戻すと、壁紙をじっと見つめた。

美しく白い、満月の壁紙だった。


僕は、この、月を。

この白くて丸い、単純な美しさを。


彼を望月と言う。彼は自分が月を望むのは、この名前のせいだ、と思っている。







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