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ステップ3:前向きに生きましょう

 人間が生きていくために必要なものは何だろうか。酸素、水、食料。勿論そのどれも不可欠な物だ。しかし森の中をどろりとした足取りで歩く女には、それらよりもまず、生きるためのバイタリティが必要かもしれない。

 危険な世界に一人放り出され、女はただひたすらにどうすればいいのか分からなかった。着る毛布に包まれたその背中からは、青春を生きる若者らしいパッションなどは感じられず、ただ哀愁だけが垂れ流されていた。大学生というよりは、失職して一人ブランコを漕ぐサラリーマンに近い。

 女がこの世界へやって来たのは、自ら望んでのことである。危険である事も承知の上だ。しかし、頭で理解しているのと実際に体験するのとではまるで違った。いざその環境に身を置いてみると、綺麗に区画管理された現代日本に生きる生粋のインドア派だった女には、生き残っていく自信が驚くくらい芽生えなかった。女は自分の楽天的な判断を呪う。

 実際は女には凄まじいまでの力が与えられており、危険とはまるで無縁なのだが、女はそんな事は知らない。全て神サマとかいう輩の怠慢によるものだが、女はそんな事は知らない。「やっちまったなあ」と白目を剥きながら、ただひたすらに道無き道を歩み続けた。


「いたっ」


 突然、女の足に痛みが走る。一体なんだと思い確認してみると、女の足の裏に尖った石が刺さり、血が流れ出していた。そこで初めて、女は自分が裸足であった事に気付く。それほどまでに自分は自分を失っていたのかと自嘲しつつ、足から石を取っ払った。


「でも、裸足はマズいか。あ、そういえば」


 女が手に持っていた神サマ謹製スーツを広げると、くるまれていた黒のパンプスが転がり落ちた。神サマがスーツと一緒に準備していたものだ。とりあえずこれを履いておこうと思い足を入れると、サイズは驚くほどにピッタリ。さすが神サマというところなのだろうが、女としてはこんなところで神サマらしさを感じたくなかった。配慮すべきところは別にあるだろう、と愚痴をこぼす。

 そのとき、女のすぐ隣の茂みがガサガサと揺れた。「ひっ!」と小さく悲鳴を上げ、女はズザザっと後ろに下がる。


(獣か?肉食のやつか?いや、異世界的に考えれば魔物かモンスターか?それとも人間か?いや、人間もダメだ。今の自分は人間じゃなくて魔族だ。串刺しにされ生き血をすすられ晩のオカズにされるんだ。二重の意味で)


 女は混乱のあまり、人間を悪魔か何かと取り違えた妄想を繰り広げる。が、その妄想はどれも現実にならず、茂みから何かが飛び出してくる事はなかった。女は本当に何もないのか暫く警戒して耳をすませてみるも、動物のものである気配は感じられなかった。

 代わりに、女の耳に別の音が聞こえてくる。ちょろちょろ、ざわざわ、ぱしゃん。それは現代人の女にも馴染みある音だ。


「水の音?川があるのかな。えっと、こっちっぽいか」


 女は聞こえる水音を頼りに誘われるように歩き始める。靴を履いたことで幾らか軽快になった足取りによって、程なくして女は小さな小川にたどり着いた。跪いて手で川水を掬ってみると、その水はどこまでも透明で、一種の美しささえ感じられた。紙パックの紅茶を日に数パックのペースで常飲している女には、その透明さが余計に際立って見えた。糖尿は今の所問題ない。

 女はそのまま手を口にやり、一口飲んでみる。


「……水だ」


 水だった。当然ながら。感動するような美味しさがあるとかいうこともなく、単なる水だった。普段コンビニ弁当カップ麺を愛食している女に、水の繊細な美味しさが分かるはずもなかった。

 しかし特に美味しいとは思わなかったのに、女は何故か無性に水が飲みたくなった。そして、この川は何処かに流れ出てたりしないだろうかと思い、川下へ向かって歩き始める。

 女の足取りは更に軽くなり、いつしか駆け出してしまう。木の合間をぬい、草をかき分け、濡れた石を蹴る。いや、それは不味かった。濡れた石は女が想像しているより滑るのだ。女はずるりと足を踏み外し、大胆にも縦に一回転した。そのまま背中から地面に落ちたが、そこはまさかの急斜面。重力が女の背中をそっと押す。


「うおおおおおおぉぉぉぉぉ!!!!」


女は絶叫しつつ、超大胆に斜面を転がり落ちる。その勢いのまま森を抜け、女は平地に投げ出された。べちっと顔面から落ち、女は激痛に悶絶しつつ、ゆっくりと身を起こす。

 そして感激の声を漏らした。女の目の前には月の光を浴びて輝く、美しい池が広がっていたのだ。


「さっきの川はここに流れてたのか……。いたた……」


 痛みにうめきつつ、女は軋む腰をさする。先ほどの大回転運動により、全身擦り傷だらけ打ち身だらけであった。着ていた部屋着も泥だらけで、ところどころ破れてしまっている。そして、そんな状態の女の目の前には、大量の水がある。


「折角だし、有効に使わなきゃ損か。どうせ着替えなきゃいけないし丁度いいかな」


 女はそう決めると、いそいそと衣服を脱ぎ始めた。下着も取り去り手早く裸になると、池の中に足をつける。冷たさに顔をしかめながら徐々に体を慣らし、やがて全身を水の中へ沈めた。手で擦って汚れを洗い流すと、血の赤がぼんやりと水に浮かんだ。


「魔族って言うけど、血は赤なんだ。緑とか青とかだったらどうしようかと思った」


 そうして、女は自分の体を今一度確認してみる。一糸まとわぬ体は、やはりどこまでも白い。それでも、体型などは元の自分と変わりないように見えた。

 水面に自分の顔を写してみる。髪色は純粋な赤色で、瞳の色はこれもまた純粋な黄色に輝いている。瞳孔の形は蛇のように縦に長い。それらの特徴はやはり人間らしいものではないが、顔立ちだけは元の自分のままだった。友人に「腐った鯛」と表現された、女の顔だった。それが「残念美人」という意味の褒め言葉であると、女は知らない。

 ただ一つ分かるのは、ここにいるのが他ならぬ“自分”であるという事だった。


「なんか白くて赤くて黄色いけど、まんま私って感じだな……。異世界に来たんだから、いっそ渋いおっさんに転生させてくれるくらいでよかったのに」


 虚空に呟きを漏らして女は脱力すると、水面に仰向けに浮かぶ。樹々の切れ間から空が見える。気づかぬうちに、日はほぼ落ちていた。元の世界では中々見られない満天の星が広がっている。女は星座に詳しくない。知っているのは、夏の大三角形と北斗七星と南斗五車星くらいである。それでも、この星空は地球から見えるものとは違っているのだろうと察しはついた。


「でも星が見えるって事は、この世界の外にも宇宙があって、他の星がたくさんあってってことだよね。異世界って言うけど、実は遠く離れた別の惑星とかだったりするのかな。だとしたら、空の向こうに地球があって、私の元いた世界があるわけか」


 女は再び手で水を掬い、口に含む。やはり別段美味しいものではない。ゴクリと音をたてて飲み込む。水は女の喉から食道を通り、やがて胃にまで流れ着く。その感覚がやけにハッキリと感じられた。それがなんだか面白くて、女はもう一度水を手で掬い、飲み込む。それから何度も同じことを繰り返した。結果——


「くるしぃ、飲みすぎた……」


 女は水面に浮かびながら、ちゃぽちゃぽになったお腹をさすっていた。女の人生でこれだけの水を飲んだのは初めてのことだった。

 だが、何故にそれほどに水を飲んでしまったか、飲みたくなってしまったのか、その時女はようやく理解した。この何も分からない異世界の中で、物が喉を通り腹まで届くという一連の流れが、女に“生きている”という強い実感を与えたのだ。その実感が女には堪らなく心地よかったのだ。

 そう気づいてしまえば、女のやる事は一つしかなかった。一度水中に沈み込むと、勢いよく立ち上がる。水に濡れた長い髪を払い、両手を掲げた。


「やるぞ!やってやるぞ、生き延びてやるぞ!そして手に入れろ、自堕落な寄生生活!うおおおおおおおお!」


 夜空に向かって、女は叫んだ。全裸で。現代日本なら一発で御用だが、大丈夫、ここは異世界だ。そう、異世界なのだ。女はようやくそれを割り切り、吹っ切ることができた。

 そして、自分がこの世界までやって来た目的を再確認した。それは魔王を育てて異世界征服を成し、悠々自適な養われ生活を送るということだ。そのためなら、多少の苦労くらいしてやろうじゃないか。生き延びてやろうじゃないか。死にさえしなければ就活よりはマシだろう。そんな思いから、女は覚悟を固めた。

 女に与えられた凄まじい力があれば、そんな覚悟はまるで必要ないのだが、女はそんな事は知らない。事実として、女の足の裏に刺さった石による傷も、転がった時にできた傷も、いつの間にか彼女の体からは跡形もなく消え去っていた。しかし、女はそれに気づかない。


「生き延びてやるぞおおおおおおぉ、おぅっへぇ」


 尚も叫びつつ、咽せていた。全裸で。


 一通り叫んで満足した女は、丸洗いした着る毛布をタオル代わりにして体の水気を取ると、そのまま上下真っ黒のスーツに袖を通した。最後に同じく黒い細ネクタイをキュッとしめる。ネクタイは慣れないが、今の自分の覚悟を緩めないためにもしっかりと締めることにした。

 だらしない部屋着から一転、気合いの入った服装に変わる。やはりスーツを見ていると就活を思い出すのだが、今の前向きな彼女はそれくらいで揺らぎはしない。なんせ自分の使命を果たせば、その就活をまるっと無視できるのだ。いやでも前を向くしかなかった。

 というか、余計な事を考えなくとも何故か勝手に心が前を向くような不思議な感覚を女は覚えていた。服用したことはないが、精神安定剤とはこんな感じなのだろうかと女は思いつつ、気のせいということにして頭からその考えを追いやった。

 ただ一つ問題があるとすれば、服の替えがない事である。下着にいたっては、この世界に換えがあるのかどうかも怪しい。やたら清潔な現代日本人にとっては死活問題と言えた。


「ていうか、何にしても情報が少なすぎる。とりあえずこの世界の知的生命体と交流を測りたいわけだけども……」


 知的生命体代表といえば、やはり人間だろう。しかし今の女は既に人間ではなく、人間に「ちょっと聞きたいんだけどぉ」などと声をかけたらば、パスッとヘッドショットを決められて終わりだろう。マッチングした相手からチャットで「初心者とかいらねえ遊びじゃねえんだよ雑魚www」などと罵詈雑言を浴びせられるまでが一セットだ。という悲しい記憶に基づく女の思考回路は若干ズレていたが、危険であるのは間違いなかった。


「となると、魔族か……。魔族の集落なりを見つけて、情報を得て、できればそのまま住み着いて、養われて、あわよくばその集落から魔王候補を見つける。よし、完璧。これでいこう」


 雑に方針を決定し、女は善は急げとばかりに行動を開始した。これまで着ていた服はもはや服としての機能を成していないボロ切れと化していたので、その場に捨て置くことにする。適当に掘った穴にそれらを収め、静かに手を合わせる。ゆったりフィットのスウェットとフリース生地の着る毛布は完全なる合成繊維で自然に帰ることはないのだが、女も特に部屋着達の冥福を祈ったりしていないので問題ない。形だけで何となく手を合わせてみただけだ。本来の意味合いは形骸化し、形式ばかりの行為だけを行う。現代社会によく見られるソレである。なのでこれは埋葬などでは無く、体の良い投棄であった。

 そうしてポイ捨てを終えた女は立ち上がると、神サマから預かった『勇者と魔王、戦いの全て』だけを手にして歩き始める。

 始めたのだが、夜の森は恐ろしく暗かった。星明かりは元の世界の比じゃないほどに瞬いていたが、それだけでは足元も覚束ず、真っ直ぐ歩くことすらままならない。


「仕方ない、寝るか……」


 故に女、諦めた。適当な草を千切って地面に敷き詰めて申し訳程度のクッション性を確保すると、女はその上にゴロンと転がる。この世界に四季があるかどうかは分からないが、少なくともこの日の夜の気候は温暖だった。凍死の危険性が無いことを神サマに感謝——するのは癪だったので仏あたりに適当に感謝しつつ、女は静かに目を閉じた。

 しかし、遠足前夜さながらに心がざわつき興奮して中々寝付けず、結局女が眠りに落ちたのは空が僅かに白み始めていた頃だった。



 男は狩人。今日も狩に出て、兎や狐、猪を自慢の弓で仕留めていた。狩場のあちこちに建てた、村の狩人共用の小屋に獲物を保管し、狩人は再び獲物を追い始める。道中で魔物——ゴブリンに襲われたが、それも難なく撃退した。彼は村でも一番腕の立つ狩人だった。

 そして狩人がまた一頭の猪を仕留めたその時、彼の優秀な耳が一つの水音を捉えた。


「あっちの方角は……心力の水場か。あそこに動物がよりつくなんて珍しいな」


 狩人は不思議に思いつつ、音の方へ歩き始める。

 心力の水場とは、とある池につけられた名だ。その池の水や流れ込む魔力の含まれた小川の水は飲んだ者に一種の興奮作用をもたらし、心の病に苦しむ人の治療薬として古くは用いられていたという経緯からそう名付けられた。動物や魔物はその興奮作用を不快に思うようで、その場には寄り付かない。また人間にしても、興奮作用は確かなものだが、心の治療に関しての効果は殆どない、若干の中毒性すら存在するということが偉い研究者の調査で発覚して以来、水場を訪れることはなくなった。

 研究者曰く、「単純な人間ならば効くかもしれない」とのことだったが、そんな風に言われて喜んで水を飲みに行く物好きなど皆無だった。

 なので、狩人が池までやって来たのは単なる興味本位だ。動物や魔物がいれば、興奮して襲ってくる前に退散する。人間がいれば、きっと何か悩みを抱えているに違いない。話くらい聞いてやろうか。そんな風に思いながら、彼は池のほとりの茂みからそっと顔を出す。


 その時、水の中から一人の人間が姿を現した。水飛沫が星明かりを受けて輝き、その人影の真紅の髪を照らし出す。現れたのは、生まれたままの姿の、美しい女だった。女が長い髪を払うと森がざわめき、風がどよめいて女の髪をなびかせる。

 女の真っ白な肌は間違いなく人間のものではなく、女が魔族であるということを雄弁に語っている。魔族は人間と敵対する種族だ。人間である狩人の姿に気づけば、殺そうとしてくるかもし  れない。彼はすぐにその場から離れ、さっさと逃げるべきだった。

 しかし、狩人の視線は女に釘付けだった。水浴びを覗き見ていたいという助平心などではなく、最高の芸術品をただひたすらに眺めていたいという心理からだった。精巧な彫像のような肢体。血の色を彷彿とさせる怪しくも艶かしい髪。そして醸し出される、抜き身のナイフのような、棘の中に咲く薔薇のような、中学生にして成人向けゲームに手を出そうとしている時のような、「俺には妻と子が……」と言ったら「お願い、今夜だけは側に居て……」と潤んだ瞳で返されてしまった時のような、危険や背徳感と隣り合わせの魅力。狩人の心は目の前の魔族の虜だった。

 ただ、彼はこの女がとんでもない力を持った存在だというのも理解していた。先程から冷や汗と震えが止まらない。狩人として、これまで様々な魔物と対峙してきたが彼でも、これ程のプレッシャーを感じた経験はなかった。時間が経つにつれて奪われていた男の心を本能が取り戻し、男もそろそろ逃げた方がいいのではないだろうかと思い始める。

 と、その時、突然魔族の女は両手を高く掲げた。天上の星を己のものにしようとするかのように、力強く突き上げる。そして、叫んだ。


「な、なななんだ!?こりゃ呪文か!?もし、もしかして俺はとんでもない現場に遭遇しちまったんじゃ……」


 狩人は本能的な恐怖に腰を抜かし、しどろもどろに言葉を繋ぐ。女が発している言葉は、男の知らない言語だった。だが、人間と魔族の言語形態は同じものだ。魔族特有の言語などは存在していない。故に、男は女が吐き出してるのは何らかの呪文であると思った。女から迸る強い覇気から察するに、それも相当凶悪な魔法や呪術の類だと確信する。


「待て、そういや最近どっかの村で勇者の証を持った赤子が生まれたって聞いたぞ。ということは、まさか、ま、魔王が!?」


 驚くべき事実に気づいてしまった。狩人はいよいよその場に居られなくなり、脇目もふらずに逃げ出した。

 勇者が生まれた、それは即ち魔王が直にこの世に魔王が現れるということを表している。あの女は魔王を呼び起こしているのではなかろうか、もしかするとあの女が魔王であるのかもしれない。何にせよ、あの魔族が何かとんでもない事をしようとしているのは間違いない。男は全力で森を駆けながらそう考える。


「まずは村長に報告しねえと!そんで『魔族狩り』を呼ぶんだ!あいつらなら、何とかしてくれるはずだ!」


 狩人は今後の算段を立てつつ、自身の住む村へと急ぐのだった。

 その魔族の女が魔王の関係者(予定)で、世界征服を目論んでいるというのは間違いではないのだが、彼の抱く強い危機感はどこか決定的に間違っていた。

というわけで四話投稿でした。

明日以降は毎日一話ずつの更新予定です。

気に入って貰えたなら、コンゴトモヨロシク。

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