ステップ2:状況を把握しましょう
女は飛び立つ鳥の騒がしい声で目を覚ました。ぼやける目を擦りつつ無意識にその鳥を視線で追い、そして飛び起きる。その鳥が普通では異常なまでに巨大であったからだ。開いた嘴の内には綺麗に生えそろった歯まで確認できた。寝ぼけていた頭はすぐさま覚醒し、自分も置かれた状況を思い出す。そして、じわじわとその実感が染み渡ってくる。
「ここが、異世界……。ホントに来たんだ……」
女はキョロキョロと周囲を見回し、どうやら自分は鬱蒼と茂った森のど真ん中に寝転がっていたのだと理解する。視界に映るのは自然のみ。現代っ子であり、外で駆け回ったりした経験の乏しい女には、まるで馴染みのないものばかりだった。
(あれ、あれ、やばくね?これどうしたらいいの?え、一人?一人だよね。誰か、誰かいないのか!森とかどないせえっちゅうねん!おぉ?)
脳内で行く先不明の罵声を浴びる女。突然変わりまくった環境に見るからに困惑してしてしまうが、文字通りの神の声が女を救う。
『おおう、戸惑ってるな。大丈夫か?一旦落ち着け。そっちに着いてから詳しく説明するっていっただろう?』
「あ、ああ、神サマ……。よかった、一人じゃない。今ならあなたを盲信できそうです。お布施はどちらに収めればいいですか?」
『やっぱり大丈夫じゃなさそうだな』
その救いの声は胡散臭い男のものだったが、心細さに己の首を絞めそうになっていた、もはや首に手が伸びかけていた女にとって、その声は胡散臭くとも紛れも無い救いであった。
一方神サマは、この女が敬服してくるのがどうにも肌に合わないようで、止させるためにも早速本題に入ることにした。
『取り敢えず、まずはコレを受け取れ』
「うわっと、何ですかコレ。本?」
女の手に突然分厚い冊子が現れる。表紙には『勇者と魔王、戦いの全て』とご丁寧に日本語で書かれている。パラパラとページをめくってみると、中の文章も全て日本語で書かれていた。
『表紙に書かれてる通り、これまでの勇者と魔王の戦いの全てのデータが載っている。これから存分に参考にしてくれ』
「はい、ありがたくお借りします。でもそれより——」
『分かっている。この世界の事を教えて欲しいんだろう?』
「はい、お願いします」
『ああ、でもちょっと待ってくれ。話す事を紙にまとめておいたんだよ。どこに置いたっけなあ……』
神サマはそう一言断ってーから何やらガサガサと漁る音を立て始める。生活感の溢れる神サマの言葉を聞いていると女も自然と落ち着きを取り戻していった。それと同時に、やはりこの神サマを信仰するのも阿呆らしいと思い直す。賢明な判断である。
『お、あったあった。それじゃあ順番に行くぞ。まずこの世界を一言で表すなら、魔法文明だ。人間の生活に用いられているあらゆる道具は魔法を前提としたもので、訓練さえすれば誰でも生活に役立てるレベルの魔法は使えるようになる』
「魔法!回復魔法はありますか?」
『真っ先にそれを聞くあたりリアリストだな、お前は。誰でも使えるわけじゃあないが、あるぞ。極めれば腕がなくなっても生やしたりできる。まあ必要ないだろうが』
「よし!」
神サマの回答を聞いて、女は小さくガッツポーズをとる。異世界に来て、化け物のような鳥を見て、彼女は目先の利益に埋もれて忘れかけていた「命がやべえ問題」を無事に思い出すことができた。それと同時に底知れぬ不安に駆られ始めていたのだが、現代日本にはない、極めて効果的な怪我への対処方法があると知り、その不安も和らいだようだ。
『まあそういうわけで、ここには科学なんてものはない。だから、お前の世界と比べれば大分文明レベルは低いように見えるだろうな。慣れれば便利なもんなんだが。細かいことは説明しきれんし、お前の目で見て回ってくれ』
「確かにそれが一番ですね。了解です」
女が頷き、神サマは次の話へ移る。
『で、肝心の魔王育成計画の話だ。この世界では、勇者の出生と魔王の出現は同時期に起きるものだと決まっている。今代の勇者はつい先日産まれたらしい。だから、こっちも新魔王を決めにゃあならん』
「同時期にする必要はあるんですか?」
『そりゃお前、生まれる時期が違うと力をつける期間に差が出てフェアじゃねえだろ。見世物にする以上ルールにはこだわ——いや、なんでもない』
「今更ヘタクソな誤魔化しをされても……。まあいいです。それで、私がお世話する魔王サマはどちらに?」
『いや、折角だし、それもお前に決めてもらおうと思ってな』
「え、私がですか?」
女が反射的に聞き返すが、神サマは当然とばかりに肯定を返す。だが、自分が魔王を決めるという言葉の意味するところが理解できなかった。そのあたりの事情を話すため神サマは更に続ける。
『そもそも魔王の誕生は人間が産まれるとかいうのとは少し違う。一人の魔族に魔王の称号を与え、“魔王”という種に進化させるんだ。これまでは勇者と同じく完全にランダムに決めてたんだが、お前には今回、その称号を与える対象を選んでほしい。お前が『キミにきめた!』って思えば自動的に“魔王”に進化するようにしてあるから、好きに選んでくれ』
それは単なる仕事の丸投げなのではないだろうか。女はそう思うが、どうせなら育成対象を自分で選べた方がモチベーションは上がるというものだ。誰だって自分で選んだ最初の一匹は最後まで手持ちに入っており、手持ちの中でその一匹が一番レベルが高かったりするのだ。つまり、愛着を持てば、それが無意識のうちに強さに繋がる可能性もあるということだ。
そしてその最初の一匹はいずれ、卵を産むための道具と化す。愛着を持って接すれば、相手も道具となることを甘んじて受け入れてくれるということだ。女が育てる予定の魔王も、いずれは女を養うための道具と化す予定であるので、ぜひ愛着を持って愛情を注いで育ててあげようと女は決めた。今決めた。なので女は神サマの提案を素直に聞き入れることにした。
「分かりました。とびっきりの逸材をスカウトしてきます」
『いいぞ、その意気だ。えっと、あとは……お前の新しい身体についてだな。その身体は簡単に言——』
「ちょちょちょっと待ってください。今、新しい身体とか言いませんでした?」
『当然だろう。お前、魔王側につくのに人間のままでいるつもりだったのか?』
神サマはケロリと答える。オンナは突然の「お前人間じゃねえから!」宣告に呆けてしまうが、すぐさま自分の体を見下ろす。
しかし、相変わらずの全力の部屋着姿はどう見ても人間のものだった。下を向いた時にサラリと落ちる長い赤髪もいつも通り。なんだ、心配いらなかった。何も変わってないじゃ——赤髪?
女は流しかけていた心配を全力で引き戻し、視界にチラチラ映る血のように赤いそれに触れ、引っ張ってみる。
「いたっ」
『まあ、痛いだろうな。お前の毛髪だからな』
痛かった。神サマの言う通り、この赤く長く細い何かは自分の髪の毛だと女は納得せざるを得なかった。
しかし、そこでまた別のものが目に入る。髪に触れていた自分の手の色だ。女は純日本人で、肌の色は言うなれば黄色である。だのに、自分の手は透き通るような白。抜けるような白。雪のような白。見知らぬ、天井くらいの白。ズバリ、白色だった。およそメラニンなどというものは女の表皮からは検出されないだろう。それくらいに白かったのだ。
『つねったりしなくていいぞ。痛いだけだから。紛れもなくお前の手だぞ』
思考を先読みされて、女は手を引っ込める。だが、これで女は理解した。少なくとも女の身体は前の世界とは全く違うものに変わってしまっている。そしてそれは恐らく神サマの言う通り、自分が人間でなくなっているということなのだろう。
ショックを受けるとかいう以前に、ただ呆然としてしまう女だったが、それでも女が現実を把握できたと判断した神サマは話に戻ることにした。そしてその言葉は女を更に呆然とさせることになる。
『今のお前は魔族だ。この世界の人間なら、お前の容姿を一目見ただけで魔族だと分かるはずだ。魔族は人間と敵対しているからな。気をつけろよ。見つかればあっという間に取り囲まれて袋叩きだな。ははは』
「…………」
神サマが軽く言うが、女の返事はない。思考がばっちりかっちり停止していた。異世界の事情を簡単に理解してじわじわとやる気が出てきた矢先の、「お前の行く先チョーやべえ」宣言。哀れなり。
全く反応が無くなってしまい、どうしたものかと神サマは思うが、すぐに『まあ、何とかなるだろう』と思い直し、元に戻るまで放っておくことにした。
『しかし、お前のその格好は何とかすべきだな。数ある部屋着の中でも人前に出られる類のものではないし、余りにも締まらんぞ。……仕方ない、軽く見繕ってやるか。お前は身長は結構あるし……カッチリした服の方が……あー、まあコレでいいか。こっちの世界にもお前の世界にもある服だから怪しまれんし、お前も着やすいだろう』
女を放って神サマはクローゼットを漁り、そしてようやく見つけた一着の服を女の目の前へ出現させた。
『私からのプレゼントだ。大切に着てくれ。ええっと、紙に書かれてることはこれで全部話したな。というわけで、私からは以上だ。私がお前に干渉する気はそんなに無いから安心して気ままにやってくれ。魔族は人間より寿命が長いから、歳をとるのも気にしなくて良いぞ。女性なら、そういうところ大事だろう?それに動きやすいよう、多少の調整も入れておいたから。後で存分に感謝してくれ。それでは、良い異世界ライフを』
女が放心状態であるのをいい事に、神サマは畳みかけるように話して一方的に話を切り上げた。我に返った女が再び呼びかけてみても、返事はない。今度こそ本当に、女は一人ぼっちになってしまったわけだ。その悲しき現実が女の思考を引き戻し、無理やり現実と対面させる。
「どうしようかな……」
思わず口から漏れ出たのは、どうにもならない言葉であった。女はとりあえず神サマの置いていった服を手にとってみる。全体的に黒い服。それは他でもない、スーツであった。パンツタイプのレディーススーツである。物としては中々悪くない。
しかし、スーツを見た女の脳内に“リクルート”という単語が顔を出す。忘れようとしていた元の世界の現実による死角からの奇襲で、女は地面に倒れた。
現実と実感が女を包み、それが次第に不安へと身を変え始め、その不安がパニックの手を引いてくる。やばいという現代日本の若者らしい三文字が脳内を縦横無尽に駆け回る。
そこに、今いる世界の現実が追い討ちを加えてきた。
「あら、あのお宅、人間辞められましたの?」「命の危険があるんですって。怖いわねぇ」という言葉を浴びせられながら石を投げられているような気分であった。
そんな満身創痍の女は茫然自失したままユラリと立ち上がると、神サマから渡された資料とスーツと手に、定まらぬ足取りでと森の中へ消えていった。
♢
一方、そこはそこまでも真っ白な世界。神サマのマイホームである。一仕事終えて、神様は愛用のマッサージチェアへもたれかかる。女への説明のために用意して置いたカンペを適当に放り投げた。その時、そのカンペの裏からもう一枚の紙がペラリと姿を現した。神サマは身を起こし、それを拾い上げる。
「うわ、しまった。二枚目読むの忘れてた。そっか、これを伝え忘れてたから、あいつあんなに落ち込んでたのか……。どうすっかなあ……。ま、いっか。放っておいても力が馴染みゃあ勝手に適応するだろうし、問題ない問題ない」
そう結論づけた神サマは、その神を再び床へ放り出した。ヒラヒラと舞うその紙面に書かれている事は一つ。
『魔王が力をつけるまでの指南役とボディガードの役割も任せる。現在の世界において一番の戦闘能力と、特殊な技能を与える事にする。多分勇者も倒せるでしょう』
どうやら女の人生、先行きは物凄まじく明るいようだ。
この主人公はチート持ちですが、戦闘シーンは無いと思われる。




