第1章 8話 人の命を
暗く、湿度の低い廊下を歩いている。
涙は溢れることを許さず、下瞼に溜まる。
ノアはそれを悟られまいと思ったのか、再び前を向き、数秒後には歩き出した。
何に対して、なんで泣いているのかなんてわからない。
それは自由人であるノアのギャップが生み出す巧妙な、意図しないトリックだ。
「...ノア?」
「もうすぐ着くよ。服装直しておいて。」
言葉を遮って、低い背中から高い声が鳴る。
本来は鳥の囀りのように心に染み渡る声のはずが、黒ずんでリンネの真っ直ぐな心を汚していく。
誰か、ノアを救ってよ。
誰でもいいから、さ。
ノアが右向け右をし、私もならう。
まだ人の気配はドアの向こうに感じないのに、騎士というものはここまで律儀に礼儀正しくいなければいけないのか、と気持ちがげんなりする。
木製のノックの音が鳴る。
思惑通り向こうに人の気配はなく、返答すら返ってこない。
「よくあることだ。こういう時は勝手に入って礼儀正しくしてろ、っていうのが騎士団の常識だよ。」
そう言うと、ノアが手を掛けたドアノブは音を立てずに右回りに回る。
部屋の中は、赤い絨毯に6個の本棚。それと書記用の標準サイズの机だけが置いてある、質素なもの。
なのにその机から漂う威圧感は、リンネの胃を荒らして嫌悪感を掻き立てる。
「あぁ、もう来てたのか。逸材君。」
「その呼び方やめてくださいよ、それに逸材はボクだけじゃありませんよ。」
流石にこの3人しかいない状況下で自分のことだと理解できないほど脳は衰退していない。だが、それと同様に我こそがと言えるほど自惚れてはいないのだ。
謙虚に、礼儀正しく存在することは、騎士としての鑑だと思う。それともう1つ。そうあることはいつか報われると信じているからだ。
そんな下心、ノアでもない限りどんな人間にも湧いてくる感情のはずだ。
男が座った。
「あぁ、失敬失敬。そちらの...えぇ...」
「全く...部下の名前くらい覚えておいてくださいよ。ボクは今までに入団した後輩達の名前、全部覚えてますよ。」
私に並ぶ記憶力だ。
その言葉にお偉いさんはふーむ、と顎に手を添えた。太い節くれの指が、白髪混じりの髭をボリボリとかく。
嫌悪感は増幅された。
「あ、思い出したぞ。リンネちゃんだ。」
「あらま、正解ですよ。」
偉い人は重大な仕事を終えた後のようにふぅ〜、とため息をつき、パンパンに膨れた腹を心ゆくまで伸ばして背中を反らせた。
「あぁ、言い忘れていたね。私は梅田俊雄、このレリス騎士団本部の、書記係兼雑用係だ。」
「よ、よろしくお願いします。」
見れば確かに机に積み上げられている紙の束は今にも崩落して彼の顔を隠しそうなほど盛られている。
机の積載量はどうなっているんだろうか。
「うむ、いい子だね。適性魔法は...雷だったかな。」
「まぁ、放出する時には電気として放たれるので微妙にニュアンスが違うようです。」
あれは雷ではなかったのか。
自然の力を使うことが出来たらなと、いつか夢見たことだ。...いつか?
「まぁ、そんなことはどうでも良いだろう、ここに来てもらったのには少々細かい事情があってね。」
梅田さんの皺顔がさらに濃くなる。
白髪の混じった眉毛がまるでノアの耳のようにピクピクと動く。
じっくり顔を見ていると、飢えた獣のような顔に見えてきて、少し笑いそうになる。
いかにも虎のような目だ。
「懲戒処分の件だ。」
ノアの体がびくんと跳ね、そのすぐ後から冷や汗が垂れているのが見える。
確かに、アラタは上への報告はしないと言っていた。
それはサクノの計らいで...
「ち、懲戒処分...内容は...」
「なぁに、そんなに気にするな。3日間の謹慎だ。今回の事故...と言うべきか、あれは朔夜には早すぎたというだけだ。」
胸を撫で下ろしたい気分を抑えると、かきかけた汗の汗線が閉じる。
「それにノア。今回のお前の件は第6分隊からの報告があった。...なんで勝手なことをした?」
それは────、言いかけるが、それは個人の口から言った方が相手に伝わる。そう思ったから、口は開かなかった。
考えている間に、やはりノアは最善の行動を自発的に選んだ。
自信を持ったかのように、胸を張って口を開ける。
そうやって自分の行動を正当化しようとするのは感心しないことだ、普通は。
ノアの本質を知っているからこそ納得できる信頼が私にはあった。
「それは、死傷者を最低限に留めておきたかったからです。」
「ほーう?たった10人しか死んでいないのに?」
その命を軽く見すぎた梅田さんの双眸に、ノアの冷たい目が光って映る。
ノアのような優しい人物ならば必ず怒る返答だ。
「...梅田さんは人の命を軽く見すぎです。」
ノアは、ただそれだけしか言わなかった。
否、言う必要はない。
今の声のトーン、場の雰囲気で感じ取れるノアの怒りは、真っ直ぐ梅田さんに向いていた。
「.........逆だったら?お前が人の命を重く見すぎた。それだけのことだろう。もっと冷酷な人間になれ。然もなくばお前は戦場では生きていけない。」
ノアは下唇を強く噛み締めた。
そして、ただ、消えるような掠れた声で言った。
「了解致しました...」
今までに見たことないほどにボロボロに打ちのめされた顔を、今初めて見た。
「だが、今の言葉で騎士として優秀だなとは思った。だから謹慎処分はリンネ君と同じ3日間だ。減給の件は無しにしてもらうように言っておくよ。」
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ノアと隣に並び、とぼとぼと歩く。
何も、ノアまで謹慎にされることはないのに……。
それに、ノアは命を護ろうとしてみんなを撤退させたのに、あの人は何人死んでも命令を守れと言うのだろうか。
そうなのであれば彼は人間であるまえに、動物としての尊厳を欠いた、それらの底辺に位置するいわゆるクズというものである。
「冷酷じゃなきゃ、戦場で生きていけないんだって。バカバカしい。ボクの命で、1つ以上の命を救えるなら、死んだって構わないのに。そもそもボクは弱くない。なのに…………。」
隣で愚痴を言い続けるノアの愚痴は、本当に納得できる。
ノアは強い。
放った魔法からもよく分かる。
風を操り、あれだけの竜巻を起こせるんだ。
並々ならぬ努力をしないと、いくら才能があってもあんなに上手く使えない。
「ノアって、魔法は誰に教えて貰ったの?」
私も、あんなふうに魔法を使えるようになりたい。
役に立てないで他人に迷惑をかけるのはもう嫌だから。
「お兄ちゃんだよ。今は捕らわれてるけど、ボクの3倍以上は強いんだ。」
そんなに強いなら、なぜ逃げなかったのだろう。
私も、いつか会ってみたい。
「お兄ちゃんはね、とってもきっちりしてて、でも強いから、命令に従っててもみんなを護れるの。」
聞くところ、騎士団には入っていなかったらしいノアの兄だが、命令はきっちり守るらしい。
たとえそれが無茶な命令でも、大体はこなしてしまうくらい強かったみたいだ。
「お兄ちゃんは、太陽の魔力を持ってて、魔法属性も炎で。とても強い。だから所属していたギルドからは、重宝されていたの。」
でも、と、付け加え、ノアは話した。
ノアの兄が受けた仕打ちを。
「その強さ故に、ギルドの仲間の一部分からは妬まれていた。それだけ強ければ、他の人に仕事が回らないからね。」
妬まれていた、ただそれだけではない。
仕事の邪魔をされたり、依頼を無理矢理断らないといけない状況に陥れられたり。
聞いた仕打ちは、そんなものには留まらなかった。
「ギルドの仲間のうちの何人かが、裏切ったの。隣国ジェクトへ嫁ぐ人の護衛を任された時にね。……………。仲間の………仲間だった1人がその人を殺したの。そして、隣国へ着く前に他の護衛達を買収して。お兄ちゃんをジェクトに本拠点を置いている1つのリグルの騎士団に、殺人犯として突き出した。周りは買収されて、助けてくれなかった。だから、捕らわれてるの。」
そんなことがあったなんて。
あの本には書かれてなかったのに。
「ギルドは?…………。ギルドは、助けてくれなかったの?」
ギルドの仲間が裏切ったのに、ギルドは助けなかったのか、私は疑問を抱いた。
「ギルドは、その事を知っていたの。でも、黙認した。本国エヴンの名誉に傷が付くのを恐れたんだ。それに、それにこじつけてリグルに文句でも言おうものならその返答は巨大に膨れ上がった憎悪とそれに比例する戦力だ。」
ギルドまでが敵なんて。
そんなこと思ったこともない。
その話が本物だとすれば、ノアは周りの人からどんな目で見られたんだろう。
殺人犯の妹、だとか、裏切り者の家族、とか。
詳しい事情を知らない周りの人からしたら、そんなふうに見えたはずだ。
そしてその魔力の強大さが、更に悪評判を呼びこんだのだろう。兄と似て、強大な魔力はそれを連想させてしまう。
「家族は、助けようとはしてくれなかったの?」
「ボクらは、両親がいないんだ。だから双子の弟と妹を守るのに必死で。」
自分の評判よりも残った家族を大切にする。とてもノアらしい、彼女を具現化した行動だと言える。
梅田さんの言葉が蘇る、もっと冷酷な人間になれ。
ノアにそんなことできる訳がない。
否、してはいけないことのはずなのだ。
騎士という職業柄からしてそんなものは二の次だ。
皆、皆そんな人間であればいいのになと願った。
「今、その弟さん達は?」
「国直属のスパイとして、いろんな所へ行ってる。お兄ちゃんを助ける方法を探すのはもちろん、他国に負けないためにね。」
ノアは、今独りぼっち。
私がノアにできることといえば、傍に居ることくらいだろう。傍らに少人数でも仲間、味方と思える人がいることは彼女にとって心休まる場所があることと同等なのだ。
だから決めた。
ノアの家族が帰ってくるまで、いや、帰ってきたとしても、私はノアの傍に居ると。
いつの間にか帰ってきていた家の、空いた部屋。
それを考えると、ノアの気持ちを体現したような感覚がして、何だか寂しい気持ちになった。