表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

少女達は願い、歩む

様々な色のパステルカラーの靄が流動的に変化し続ける。桜は、『あぁ、これは夢か』と自覚すると同時に閉じた瞼に光を微かに感じて、目を覚ましたことを自覚する。目を開ける。日常的な朝。脳が動き出す。晶がいないことに気付く。枕元の時計を見る。午前五時半を少し過ぎたところ。体を起こし、部屋を見回す。やはり晶はいない。遠くで何かが何かを強く叩く音が聞こえる。音の方向から公園だと判断した。ベッドから抜け出し、カーテンを開け公園を眺める。黒い姿の人物が動いていて、動きが止まると同時に、また何かを叩く音が届く。動きに合わせて流れる髪の長さから晶だと推測した。一階に下りる。松竹家の人間は誰も起きていない。サンダルを履き、玄関を開ける。何かを叩く音が大きく聞こえる。小鳥の囀り。自動車の走行音。何かを叩く音。公園に向かう。晶が空手などの『型』に属する動きをしているらしいと推測する。

「おはよ。早いね」

晶は、元々黒かったであろう濃いグレーの、継ぎ接ぎが各所にある空手着のような胴衣を着ていた。桜の声に反応し、動きを止めて、

「おはようございます。桜さんも早いですね」

「私は睡眠が安定しないだけ。薬飲んだからって、安定して八時間とか眠れるわけじゃないんだよ」

「そういうものですか」

「まぁね。トレーニング?」

「えぇ。日課ですから」

「どのくらいやるの?」

「長ければ二時間ほど」

「ここの公園ね、もうちょっとしたら近所のおじいちゃん、おばあちゃんがゲートボールしに来るから」

と、公園の地面を眺めると、晶の足跡と思われる凹みがいくつかあった。何かを叩く音は晶の足音だと理解した。

「晶、その、型やってるときの踏み込みってそんなに力入れなきゃダメ?凹んじゃってるじゃん。ゲートボールに影響出るから、その辺なんとかならない?」

「すいません。そこまで気が回らず、いつも通りやってしまいました。これからは気をつけます。地面をならす道具は……さすがにないですね」

「まぁ、これから気をつけてくれればいいから。凹みはゲートボールの人たちが直すでしょ。心配しないで」

「わかりました」

「晶、型を見せて。どういうもんなの?」

「では、とき様から最初に教えられた『A』を」

晶は直立の状態から、構えへ。素早く足を運び、肘打ちを繰り出す。静の後の動。動の後の静。桜の指摘を守り、踏み込みの足音は弱くなった。桜は

(ちょっと格好いいかも)

と思う。晶が構えに戻り、

「これが『A』です。攻防の基礎中の基礎、といった感じですね」

「次は?」

「では『α』をやります」

『α』と言われた型は『A』と少し似ているようで、やはり細かいところが違う。動作の開始から終了までの技の数が単純に違っていた。

「これが『α』になります」

「ところでさぁ、なんで『A』とか『α』なの?『何々の型』とかそういう名前じゃないの?それか『一の型』、『二の型』とか」

桜は感じたままの疑問を聞く。

「昨日お話ししたとおり、この武術には名前がありません。ただ、とき様に教えられていないだけですが。スポーツチャンバラの椛島師範は『八極拳ではないのか』と指摘されました。私もそうではないかとは思います。とき様に型を教えていただいたときに、やはり名前がないのは不便だという話になりました。ですが、とき様曰く『動きが違えば、その動きの意味も質も根本から違う』ということで『A』や『α』と便宜的に名付けて教えられました」

「まぁ、そこはわかったけど『A』の次に教わるのは『B』じゃないの?」

「では逆に質問します。一、二、三……と無限に並んだ場合、最初に何を思い浮かべますか?」

「そりゃあ、まぁ一でしょ。それか一番好きな数字」

「そうです。人間は本能的に順列を付けるようにできています。先ほどの話に戻ります。とき様の言葉、『動きが違えば、その動きの意味も質も根本から違う』についてですが、『A』と『α』は文化圏の違う言語の最初の文字ですが、種類が違います。他のものでは、日本語の『あ』、数字の『一』。これらは学問で用いられる場合でもそれぞれ別の意味性を持ちます。先ほど披露した型も同じ事がいえるわけです。……少しわかりにくいでしょうか?」

「うぅん……。わかるような、わからないような」

桜は腕を組み、目を閉じ、首を捻る。

「例えばさぁ、小学生が、国語では五十音を、算数では一、二、三を、英語ではA,B,Cを最初に習う。でも勉強という括りでは同質だってことで合ってる?」

「近いです。ショートケーキで苺を最初に食べるのと、新聞でまず一面の記事の見出しを見るということを比較するようなものでしょうか」

「余計にわからんってば」

桜は溜め息をつく。

「あ、今思ったんだけど、アンドロイドと武術の関連性は?あと、ときさんはなんで武術してたの?ただの健康法?」

「私の開発と武術の直接的な関連性は、確かにありません。ですが、機械が人間の身体能力を再現し、それを確認するためには運動は必要な要素です。歩く、走る、飛ぶなど。とき様が武術を嗜んでいた事とも繋がりますが、『人間がどういう仕組みで動くか』を追求するために武術は最適だと思います。さらに相手を倒すためには『柔よく剛を制す』と『剛よく柔を断つ』の両方が重要です。機械としてそれを再現するためには、人間と同等、もしくはそれ以上の能力が必要になります。とき様自身は『森羅万象の理を知るため』や『肉体と精神には相互に繋がりがある』と仰っていました。私は『私』というものを自覚できますが、精神や心があるかどうかは観測できません。卑屈な言い方かも知れませんが、私が武術を続けるのは『とき様の言いつけを守っているだけ』とも言えます」

「ふぅん。まぁ、私も探偵とかでスポチャンをサボってたら『あ、体の動き悪いなぁ』とか思うしなぁ」

「お嬢ちゃん達、おはよう」

声の方に視線を向けると、ジャージ姿の老紳士が声をかけてきた。手には古いタイプのラジカセとゲートボール用のスティックをそれぞれぶら下げている。

「おはようございます。もうゲートボール、始めますか?」

「ぼちぼち集まり出すところだね。お嬢ちゃんは空手かい?」

と老紳士は晶に質問する。

「まぁ、そういったものです。日課のトレーニングをしていました。型の練習をしていたのですが、地面を荒らしてしまったみたいです。すいません」

「どこかね?」

「そことそこと、あとあそこにも足形の凹みが。道具があれば私が直します」

「あぁ、いいよいいよ。コートの管理もゲートボールやるものの責任だからね」

老紳士は笑顔で答える。

「おはようございます。今日は美人さんが二人もいるねぇ。そっちは松竹さんところのお嬢さんかな」

別の老婦人と、その夫だと思われる老紳士が連れ立って挨拶してきた。

「おはようございます」

「おはようございます」

桜と晶も挨拶を返す。老紳士は桜たちに向き直り、

「もうすぐみんな集まるね。お嬢ちゃん達、ラジオ体操くらいはしていくかい?」

「オッケーです。いいでしょ、晶」

「そうですね」

「じゃあ、体操だけ参加させてもらいます」

「若い子がいるとみんな元気が出るからね」

と老紳士はさらに笑顔になる。老人達がスティックを使ってストレッチを始めたので、桜たちは公園の隅でその光景を眺める。老人達が集まってくる。合計で十人。最初に来た老紳士がラジカセを置くと老人達は律儀に整列する。桜たちはそれに倣い、集団の後ろに並ぶ。ラジカセから使い古したカセットテープのラジオ体操が流れる。全員でリズムに合わせて体操する。桜は自分も含めたその光景が、小学生くらいの頃のラジオ体操の集まり思い出させたのと、なんとなく『滑稽だ』と思い、少し笑った。晶を横目で見ると、キビキビとキレのある模範的な動きで体操をしていて、それも可笑しかった。体操が終わったので老人達に、

「それでは失礼します。ゲートボール頑張ってください」

と挨拶し、公園を後にする。晶も、

「失礼します」

と深く礼をし、桜の後に続いた。道路を渡り、玄関を開けると味噌汁の香りがする。杏が起きているらしい。台所に行くと柳が新聞を読んでいた。

「おはよう」

「おじ様、おば様、おはようございます」

「おはよう。二人とも早いね。清水さんは空手をやっているのかい?」

「はい。空手ではありませんが、武術を。先ほどまでトレーニングをしていました」

「あら、晶ちゃん、なんだか格好いいわねぇ。桜ちゃん、パン、出しておいたから。晶ちゃんは朝ご飯、どうする?」

「お味噌汁の香りがするのですが、桜さんはパンなのですか?」

「私、朝は少食なの。いつもパン一個とコーヒー牛乳だけ。晶は普通に食べたら?集合まで全然時間あるし。あぁ、そうだ。ママ、今日は先輩の手伝いで朝から出かけるし、お昼もそっちで食べるから」

「わかったわ」

桜は探偵同好会の事を両親には内緒にしていた。柳には一笑に付されると思っていたし、杏にいらぬ心配をかけないためだった。

「あぁ、そうだ。ママ、私と晶の分の軍手、あったら出しておいて。先輩の手伝いは清掃活動のボランティアなんだけど、汗かくと思うからタオルも」

「了解です」

杏はにこにこと答える。

「晶、朝ごはんにするし、ついでだから体操服に着替えておこう」

「はい」

階段を上がり、桜たちの部屋を通り過ぎて衣装部屋へ。桜は衣装ケースから学校指定の夏用の体操服と、小豆色のジャージを取り出してズボンだけ履く。上着は置いておくことにした。晶を見ると、トランクから緑色の、これも継ぎ接ぎのあるジャージを取り出していた。

「ボロボロじゃん」

「はい。でもこれしかありませんから」

「月曜日、体育あるよ。もう水泳ないし、早く購買で注文しておかないと」

「そうですね」

晶もジャージを着る。桜はそれを確認して、

「こっち来て」

と鏡台に促す。晶を椅子に座らせると、髪の毛を纏め始める。

「う~ん、上手く纏まらないなぁ。量が量だからなぁ。ママに頼むかな。ちょっと待ってて」

桜は階段を駆け下りる。台所ではすでに柳と杏が朝食を食べ始めていた。

「ごめん、ママ。晶の髪を纏めたいんだけど、私じゃ上手くいかないの」

杏は笑顔を浮かべ、

「任せて。汚れないようにアップにすればいいのね」

「うん」

桜と共に衣装部屋に戻る。杏は晶の髪をサラサラと櫛で梳いて髪質を確認し、

「オッケー」

と、まず量の多い髪を一本の三つ編みに纏める。それを後頭部で円形に纏め、

「桜ちゃん、ヘアピン」

「はぁい」

ヘアピンを数本取り杏に渡す。杏はそれを口に咥え、晶の髪に一本ずつさして三つ編みを固定していく。桜はその手際に感心して言葉が出なかった。

「できあがり。なんだか社交界に出られそうね。似合ってるわ」

と言って笑う。

「ありがとうございます。こういう風に纏めてもらうのは初めてなので、なんだか違和感があります」

「可愛いわよ。じゃ、ご飯にしましょ」

「はい」

「うん」

台所で朝食を摂る。柳はすでに食べ終えていて、リビングでニュースを見ている。

「うぃ~す」

と、台所に槇が入ってくる。桜は無視を決め込む。杏が、

「槇ちゃん、おはよう。今、ご飯用意しますからね。あら、そういえば晶ちゃんとは初対面になるのね。昨日パパが話した清水晶ちゃん。新しい家族なんだから仲良くしてね」

「槇さん、はじめまして。清水晶です」

晶は持っていたお椀と箸を置き、一礼する。槇は家族外の人間には基本的に人見知りなので、

「どどどうも。おはようござ……」

と、目を合わせずに中途半端で尻すぼみな挨拶をした。槇は晶の視界に入るのを警戒して、桜の正面に座る。桜はそんな槇の性格に改めて呆れた。

「さ、桜。今日は体操服を着て、どうしたんだ?」

槇は緊張して桜にも視線を合わせないで、胸元を見ていた。桜はその視線にいやらしさを感じながら、

「ボランティア」

と、ぞんざいに言う。槇の、桜の胸元を見る視線に嫌悪感を覚えたが、晶が食べ終わるまでは食卓を離れられない。その間に杏は配膳を終え、

「いただきます」

と、ボソボソと呟いて槇は食事を始める。

「晶ちゃん、味噌汁のお味はどうかしら?故郷の味と違う?」

「そうですね。味噌が違うみたいですが、美味しいです。あと漬け物も美味しいですね」

「あら、ありがとう。家で漬けてるのよ。私のママ。桜ちゃんのおばあちゃんから受け継いだぬか床なの。でも、桜ちゃんも桃ちゃんも漬け物があんまり好きじゃないからちょっと悲しかったの」

「ごめんね、ママ。食べられないって訳じゃないんだけど……。沢庵くらいなら平気かな。ぬか漬けは匂いが苦手」

「ぐすん」

杏は涙ぐむ芝居をする。

「ごちそうさまでした。美味しかったです」

晶が食べ終わり、自分の使った食器を纏めてカップに注がれたお茶を啜る。晶は自分で流しに持って行くつもりだったが、杏に先手を打たれ、片付けられてしまい、

「すいません。今度は洗い物のお手伝いをさせてください」

「あら、うれしい。でも気にしなくていいわ。パパじゃないけど、沢山甘えてね」

「晶、そういうときはね、隙を与えちゃダメ。自分でやるなら速攻でやらないと。洗い物も料理も洗濯も気付いたら即行動。甘えちゃうと癖になっちゃうからね」

と言って、桜はコーヒー牛乳を啜る。

「みんながしっかりしちゃうとママのすることがなくなっちゃうわ」

杏が小首をかしげ、頬に手を当て『困ってしまった』のポーズをする。

「そろそろそういう年頃なの。パパもママももうちょっと子供を信用してよ」

と言いながら壁掛け時計を確認する。

「晶、そろそろ時間。集合場所に行こっか」

「わかりました」

それぞれ飲み物を飲み干し、自分の使ったカップだけは自分で洗う。

「ママ、軍手とタオルは?」

「靴箱の上に置いておいたわ」

「ありがと。晶、先に玄関で待ってて。今日行くかどうかわかんないけどスポチャンの道具、持ってくるから」

「はい」

桜は台所を後にして階段を駆け上がり、衣装部屋へ。スポーツチャンバラの道具が入ったスポーツバッグを一度開け、中身を確認する。昨日使ったままの状態で、胴着はクシャクシャだった。昨日の試合を思い出す。悔しさが甦ってきたが、軽く頭を振って思考を切り替える。汗はほとんどかかなかった。涙を流して少し濡れたくらいだ。予備の胴着に変えようかと思ったが、大して汚れていないのに杏の洗濯物を増やすのも気が引けたので、一度取り出し、畳み直すだけにした。ついでに今日の伊達眼鏡を決めるために鏡台に座る。引き出しの中の並べられた眼鏡の列から気分に合ったものを三つ取り出して顔に合わせる。水色のフレームで、レンズもほんのり水色が入った眼鏡に決める。

(よし)

と気を引き締めてバッグを持って衣装部屋を出る。玄関まで行くと、晶が結いあげた髪を、珍しいものを触るように軽く撫でている。靴箱の上を見ると、軍手、タオルの他に虫除けスプレーが置いてあった。杏が気を回したのだろうと思い、心の中で感謝しておく。それらを纏めてスポーツバッグの隙間に押し込む。

「晶、オーケー?」

「いつでも」

桜も、汚れても構わないスニーカーを履く。台所やリビングのある方に向き直り、

「いってきまぁす」

と大きな声で言う。晶もそれに倣い、

「いってまいります」

玄関を開け、外に出る。昨日同様天気がいいが、まだ暑くはなっていない。桜の方から晶の手を握る。並んで歩く。

「ママの料理、どう?」

「美味しくいただいています」

「一人暮らしだった頃は全部自炊?」

「食堂などでアルバイトしていたときは一食分は出してもらえました。それ以外は自炊ですね」

「料理はときさんから教わったの?」

「はい。ですが忘れてしまうレシピもありましたから、古本などで料理本を手に入れて、簡単なものは覚え直しました」

「得意料理とかある?」

「お茶漬けでしょうか?」

「それ、料理に入るの?」

桜は眉をめる。

「ご飯の炊き加減、ご飯の上に乗せるもの、お茶の種類などでそれなりに味のバリエーションが出せます。調理に時間がかからないのもメリットですね。桜さんは料理は?」

「まぁ、ぼちぼち。包丁をほとんど使わないものばっかり覚えてるけど。目玉焼きとか卵焼きとか。あとパスタとサラダ。まぁ、カレーくらいは作れるかな。本とかの説明文通りに作れば漫画みたいなトンデモ料理は出来ないからね。あぁ、探偵の依頼で災害訓練の炊き出しの依頼とか来ないかな。豚汁くらいは作ると思うから。今度、会長に聞いてみよう」

その後は好きなお菓子の話などをしたが、晶は基本的に質素な生活をしていたので、あまり盛り上がらないまま集合場所に到着。桜の携帯で時間を確認。八時二十二分。スポーツチャンバラでも探偵同好会でも『五分前行動』を叩き込まれていて習慣化している。さらに桜の『待たせるくらいなら待つ方がマシ』という考えから、さらに五分前の集合が桜の基本になっていて、最終的には集合時間の十分以上前に目的地に到着することが桜自身の習慣になっていた。花田小学校の校門前にはもちろん誰もいない。

「晶は掃除好き?」

と、今日の活動に関係するが、しかし半ばどうでもいい時間潰しの質問をする。

「とき様はあまり得意ではなく、私も小さな頃は全くしませんでした。同じ武術を学んでいたとき様の知人の方からそのことについて注意され、家事に関する基本が書かれた本をいただき、それで覚えて、後は実践ですね。今でも必要最小限の事しかできません」

「なんだか意外。もっと万能かと思った」

「そうですね。ロボットとしては、少し資質に欠けますね。とき様が亡くなる前、介護が必要になった頃も苦労しました。現代ほど介護に関する情報も無かったものですから」

「そりゃ、そうだよね」

そこへ小型だが、品のある車が桜たちの前に停まる。桜は携帯を確認する。集合時間の丁度五分前。運転手である青年が降り、後部座席のドアを開ける。中からジャージ姿の真美が現れる。長い髪を深い黄色の髪留めで纏め、動きやすくしている。

「先輩、おはようございます」

「おはようございます。今日はよろしくお願いします」

とそれぞれ挨拶する。

「桜も晶もごきげんよう。晶、そのジャージは?」

「前の学校のものです」

「あなたに緑は似合わないわね。吉ノ園のジャージの色も良いとはいえないけれど、緑は良くないわ。それにボロボロじゃない。見ていると少し悲しくなるわ」

「週明けには購買で注文する予定です」

真美はそれを無視し、

「昨晩のお泊まり会はどうだったの、桜?」

「なんといいますか……」

と真美に晶が家族になることについて説明した。話がややこしくならないように、『遠縁の親戚で、両親が仕事で海外に行ったので戻るまで無期限で預かることになった』と半分嘘を交えて伝えた。真美の反応は、

「あら、そう」

と簡単なもので、それ以上の追求は無かった。

「おはよう、おはよう」

と中年の恰幅のいい男性が声をかけてきた。町内会の会長である。三人は声を合わせて、

「おはようございます」

と挨拶する。真美が、

「今日はよろしくお願いします。昨晩お話ししました通り、人員が増えましたので、人件費について後ほどお話しさせていただきます」

と淡々と伝えた。町内会長は、

「まぁ、よろしく」

と笑顔を作っていたが、不満が滲み出ていた。町内会のメンバーは集合時間の五分後から集まり始め、全員集合するまでに、さらに十五分ほどかかった。

(人によるけど、年を取ると時間にルーズになるのがムカつく)

と桜は呆れ半分の愚痴をテレパシーで送る。

(そうですね。年齢に関係無いことも多いですが、やはり年を重ねるとルーズになる傾向が強いですね)

晶も同意する。

町内会長が安全や分別などの注意事項を説明し、側にいる主婦達がゴミ袋と火ばさみを配る。桜、晶、真美はそれぞれ、燃えるゴミ、燃えないゴミ、ペットボトルと役割分担をし、三人纏まってゴミ拾いを始める。真美は、

「報酬がある以上、手は抜かないでね。私個人の話だけど、年上だろうと尊敬できない人間に見下されるのは気分が悪いわ」

「あ、それは私も同じです」

と桜も同意する。

「愚痴を言っても仕方ないわね。仕事をしましょう」

「はい」

真剣にゴミ拾いをしたので午前中の作業はあっという間に終わった。花田小に戻り、グラウンド脇の水道で手と顔を洗う。真美がジャージのポケットから携帯を取り出し、操作する。

「花澤、お弁当をグラウンドまでお願い」

と電話をかける。しばらくして花澤と呼ばれた先ほどの運転手が大きなバスケットと水筒、シートを抱えて歩いてきた。

「食事にしましょう」

「はい」

花澤が無言でシートを広げ、セッティングをする。バスケットの中身はサンドウィッチだった。食事を始めながら、

「晶、探偵の活動はどうかしら」

と真美が聞く。

「これが探偵同好会の全てではないのですよね」

「そうね。でも昨日、道彦が話した通り報酬がある以上、どの依頼も手を抜いてダメよ」

「えぇ、それはわかります」

「今日は体験入会ということだけど、どうかしら。こちらとしてはやはり人手が多い方が嬉しいわ」

「やりたい部活がある、というわけではありませんが、まだ検討させてください」

「えぇ、構わないわ。道彦に頼めば貯まった報酬から参考書代も出せるだろうから、勉強に支障が出ることは……それは本人次第ね」

「そうですね」

「あ、そういう使い道もあるんですね。会長、お金出してくれるかな?」

「あの男は軽薄だけれど、そこは信頼しても大丈夫よ」

そんなことを話しながら食事を進める。花澤は執事でもないのに丁度欲しいタイミングで水筒から冷たい紅茶を出してくれる。食事を済ませて一息つく。休憩時間の終わる五分前に、食後の世間話に花を咲かせている主婦の話の腰を折りながら新しいゴミ袋を貰い、作業に戻る。町内会の大人達はまだ休憩ムードだが、三人は無視をする。

午後はゴミの捜索エリアを変えて作業を黙々とする。晶は何気なく、

「醍醐先輩はどうして探偵同好会に入ったのですか?」

と聞いた。真美は、

「私のお姉様、と言っても、ただの尊敬すべき先輩だけれど、そのお姉様から誘われたの。最初はもっとロマンのあるものだと思っていたわ。もちろん現実を知ったからといって、失望して依頼の手を抜いたりしたことはないけれど。尊敬するお姉様を否定することにもなるから」

「その、お姉様というのは現在は?」

「受験勉強中よ」

「なるほど」

「私も初めて知りました」

と聞き耳を立てていた桜も感心する。

「桜には、『私を見習え』とは言わないけれど、私がお姉様にして貰ったように探偵として胸を張って活動できるように指導したいと思っているの。もちろん強制はしないわ。学生ですもの勉強の方が大事でしょうから」

「贅沢かもしれないですけど、どっちも手を抜きません、私」

「そう、嬉しいことを聞いたわ。さぁ、口ばかり動かしていてはいけないわ」

「はい」

午後の作業も集中していたので、こちらもあっという間に終わった。ただ、虫除けスプレーをかけていたものの、ジャージの上着を着ていない桜は雑草に分け入ったときに何カ所か蚊に刺された。真美はそれを見て花澤に連絡し、虫刺されの薬を用意させた。作業終了後、虫刺されの薬を塗る。晶はアンドロイドなのでもちろん刺されない。真美も刺されなかったようだった。丁度午後三時、花田小前に戻る。

「私は町内会長と交渉があるから先にお帰りなさい。桜はスポーツチャンバラに行くのかしら。なら吉ノ園のシャワールームで一度体を流した方がいいわ。今日は部活もあるでしょうし、まだ運動部も残っているだろうから問題ないでしょう。あと虫刺されの薬がシャワーで流れるだろうから、ささやかだけどプレゼントするわ」

と真美は話し、桜に虫刺されの薬を渡した。

「それじゃ、先輩。お先に失礼します」

「失礼します」

「ごきげんよう。あ、そうそう、明日は桜に頼むような依頼は無いから」

「わかりました」

桜たちは吉ノ園高校に向けて歩き出す。高校と自宅とは距離はあまり変わらないが、

「樹里にでも会いに行くかな」

と呟く。

「晶、放熱は大丈夫?あ、例えばさ、人間の格好のまま冷たいシャワーを浴びても放熱出来るの?」

「何度か試したことがありますが、どうやら表皮と内部は分かれているようで、熱は無くならないようです。やはり変形しなければいけないようですね」

「そっか。まぁ今日も風はそこそこ吹いてるし、屋上も開いてるだろうから問題ないかな」

話題も尽きてしまったので、無言で歩く。桜は片手が開いているので行き同様に晶と手をつなぐ。少しして桜のバッグからアニメ版『マリア様がみてる』のテーマ曲の着信メロディが流れる。家族や友人、探偵同好会からの電話の着信だ。スポーツバッグを開け、携帯を確認する。樹理から。桜は晶に一度、

「ちょっとごめん」

と言って足を止め、

「ちゃお、樹理」

〈にゃっほー。桜っち、スポチャン?探偵?〉

「探偵。今終わって、汚れたから学校に行ってシャワー浴びようと思って向かってたところ。あと樹理に会いに」

〈おぅおぅ、嬉しいこと言ってくれるねぇ。こっちも部活終わったところ。まぁ、一年は片付けあるから、まだ残るけど。私もシャワー浴びるから合流できるね。桜っちの裸。うひひ〉

「そんじゃあ、まぁ学校で。じゃね」

〈ほいよ。ばいにゃーい〉

通話を切って携帯をしまう。

「樹理も部活終わってこれからシャワーだって。あ、夏休みの宿題とデザートの取引したんだった。まぁそれは明日でもいいか。でも帰りにカフェでも寄ってくかな。晶、お金持ってたっけ?」

「すいません。手ぶらです」

「月島家、だっけ?晶の生活費でてるんなら、あとでパパにお小遣い制で貰えるように頼んでおくかな。今日は私が出すよ」

「では、後でお返しします」

「今日はいいよ。気にしないで。行こ」

再び歩き出す。

「あぁ、良いこと思いついた。私、探偵同好会の会長になろうかな。そんで大学の学費、貰っちゃおうかな。つーか学年上がったら後輩、入ってくれるかな?会長ほどではないにしても権威を示さなきゃいけないし、醍醐先輩ほどじゃないけど、交渉できないと務まらないかな」

桜は独り言を喋った。晶は応えられず、無言で、地面と会話していた桜を見つめる。

「てか、今の一年の会員が少ないよね。私一人って。二年は四人なのに」

「私も入会しましょうか?」

「へ?」

自分の思考に浸っていた桜は投げかけられた言葉への反応が遅れた。

「あぁ、いいって。晶は自分でやりたいこと見つけて、その部活に入ればいいじゃん。まだ全然部活、見学してないでしょ?『探偵同好会』なんて最後の手段でいいんだって」

「『探偵』に興味が湧きました。それが理由ではよくないでしょうか?」

「……今日みたいな活動とか、小学生の見送りとかはどうとでもなるけど、会長とかは他人の恋愛相談とか、本当の興信所みたいなこともやってるよ。私もまだやったことないけど、難しいんじゃないかなぁ」

「『適性が無い』ということでしょうか?」

「うっ、それを言われると私も怪しいからなぁ。恋愛相談って、ガラじゃないしなぁ。人の秘密とかをどうこうするのも自信がないなぁ」

「醍醐先輩も言っていましたが、指導をしていただけるということなので、私もやってやれないことはないと思います」

「お、前向きなことを言うねぇ。ま、決めるのは晶自身だから、私は口出しできないよ」

「明日は活動が無いということなので、一日を使って考えてみます」

「私には無責任に『がんばれ』としか言えないよ。がんばれ」

「はい」

吉ノ園高校の校門が視界に入る。部活が終わったと思われる生徒たち二十人程度が人だかりを作っていた。桜には野次馬根性がないので、見向きもせず脇を通り過ぎようとしたとき、

「よー、清水晶。見えないが松竹桜も一緒だな」

と昨晩聞いた少女の声が聞こえた。桜たちは足を止め、声の方、人だかりの中心を向く。

「おらおら、ギャラリーはどけよ。さっさと帰んな」

人だかりを抜け、少女は桜たちに近づく。昨晩とは違い、ボーイッシュなゴスパンクで、あちこちにベルトの付いたファッションをしている。大きなアタッシュケースを片手で軽そうにぶら下げていた。

「私に用事ですか?私も聞きたいことはありますが」

晶は淡々と質問する。取り巻いていた生徒たちは、少女の言葉を聞いても帰らず、事の次第をやや離れたところから、ヒソヒソと話しながら観察していた。

「昨日のてめーの質問に答えてやるよ。他にも用事は沢山あるんだがな。わたくしも、時間はあるが予定は詰まってんだよ。とりあえずシャワーでも浴びてこいよ。あと放熱もまだなんだろ?」

「よく知ってますね」

「監視者だからな。あぁ、それについても、後でたっぷり説明してやる」

「逃げるかもしれませんよ」

「百秒以内に見つけてやんよ」

「晶、どうする?」

桜が割って入る。

「安心しろ。必要無けりゃ危害は加えねー。まーあれだ。ゴミ拾いご苦労様ってこった」

「桜さん、行きましょう。といってもシャワー室を私は知りませんけど」

「あ?あぁ、ごめん。案内するね。じゃあ、あなた」

「タイプ7」

「タイプ7……さんもシャワー室まで来てください。そこで待っててもらえますか?」

「構わねーよ」

「じゃあ、行きましょ」

桜は晶の手を取り歩き出す。その後ろをタイプ7と名乗った少女が付いてくる。取り巻いていた生徒たちは付いてこなかった。

体育館の隣に作られている学生用シャワー室前。女子用の扉の脇に樹理が立っていた。

「樹理、待ってたの?」

「まぁね。他の一年はみんな帰ったよ。つって、清水さんとその後ろの美少女は何なのよ?」

「晶は探偵同好会の体験入会。今日は花田小のゴミ拾いの手伝い。こっちの子は……、なんていったらいいんだろうね」

「気にすんな。空気みてーに思ってくれればいーさ」

とタイプ7は応える。

「って、存在感アリアリなんですけど」

と樹理が突っ込む。タイプ7は気だるげに、

「うるせーな。さっさとシャワー浴びれよ。わたくし、時間はあるがそんなに気は長くねーんだよ」

「だってさ。樹理も晶も入ろう」

「わかりました」

三人でシャワー室内の脱衣所に入る。脱衣所はすでにシャワーを終えた生徒たちがまばらに残っていた。その生徒たちは入ってきた晶を見て、ヒソヒソ話をしながら脱衣所を後にして、外で待っているタイプ7の姿に驚き、足を止めた。タイプ7は携帯端末を操作し、周りを無視するポーズを作る。興味を持って携帯電話のカメラを向けた女生徒に対して、携帯端末に顔を向けたまま、女生徒の構えた携帯ギリギリに蹴りを放って、

「失せろ、コラ。殺さねー程度にボコるぞ」

と吐き捨てるように言う。女生徒達はジョークだと思って一枚写真を撮ったが、その直後に次の蹴りで携帯は、豆腐の様に軽々と切断され、ビックリして半泣きになりながら逃げ帰った。

桜たちはシャワー室に入る。樹理は桜と晶の裸をそれぞれ、ひとしきり賞賛した。すでにシャワーを浴びている生徒はおらず、三人並んでシャワーを浴びる。いつもは桜と樹理が一緒に入ると、樹理が桜の裸を撫で回して遊んでいたが、今回は特に何もしなかった。

「桜っち、あの外の子、何?外人の知り合いなんていたの?」

「さぁ、昨日の晩に初めて会ったんだけど、ほとんど謎。で、一人で適当に喋って『またな』って言って帰っちゃって、今、再会」

「ふぅん。清水さん……じゃないや、晶っちは何か知ってるの?」

「アキラッチ?」

晶は樹理の方を向き、少し首をかしげる。

「一応ね、親愛の証の呼び方。桜だから『桜っち』。晶だから『晶っち』。いいでしょ?」

「樹理はね、仲良くなりたいときは呼び方から決めるの」

と桜が補足する。

「樹理さん、ありがとうございます。あだ名を付けていただくことなんて初めてです。先ほどの質問ですが、私もよくわかりません。これから説明してもらえるそうなので、その時に考えようと思っています」

「ふぅん」

「あぁ、そうだ。樹理に説明しないと」

と桜は樹理に、晶について、家族として生活することを掻い摘んで説明した。樹理は一通り聞いたあと、

「うわぁ、うらやまけしからん。晶っち、桜っちは渡さないからね」

「樹理、私は物じゃないよ」

と桜は突っ込む。

「心は渡さないって意味だよ」

「……まぁいいや。そろそろ出よう。あの子、あんまり待たせちゃ悪いし。『気が短い』って言ってたし」

「あいよ」

「わかりました」

桜たちはシャワー室でそれぞれ体を拭く。晶は髪の量が多いので時間がかかった。桜と樹理は学校の備品のドライヤーで簡単に髪を乾かす。それぞれ服を着たのを確認し、脱衣所を後にする。外に出ると、

「おめーら、長ーよ」

と携帯端末を操作しながら、特に感慨もなさそうにタイプ7は言った。

「清水晶。放熱しに行くぞ。そっちの三人目、名前は?」

タイプ7は樹理を睨みつけながら言い放つ。樹理は気押されながら、

「本木……樹理……だけど」

「本木樹理か。おもしれーもんを見せてやる。大丈夫だ、他人に言っても信じちゃくれねーから秘密にする必要もねー。おい、松竹桜。屋上だろ?案内しろ」

「あぁ、うん。じゃあ、行こっか」

桜を先頭に、樹理、晶、タイプ7と並んで歩く。下駄箱で上履きに履き替え、階段を昇る。タイプ7は当然とばかりに土足で歩いた。

「あー、そーだ。わたくしはタイプ7だが、呼びにくいだろー?でだ、わたくしは『セブン』つまり『七』だ。日本語で『ナナ』という音は人間の名前にも使われるらしーな。だから便宜上、わたくしのことは『ナナちゃん』と呼べ」

と勝手に喋った。晶だけがナナに微かに向き直りながら、

「わかりました、ナナさん」

と応えた。

屋上に到着する。

「清水晶、さっさと始めろ。質疑応答は放熱しながらしてやるよ」

「ねぇねぇ、桜っち。何が始まるの?」

「……えぇっと、その、ナナちゃんが言った通り、人間じゃ誰も信じてくれないこと。多分、ビックリするから。あと、色々聞かれても私も上手く答えられないから」

「桜さん、服をお願いします」

晶は服を脱ぎ始め、桜に渡していく。すでに一度、裸をシャワー室で見たはずの樹理は、

「わっわっ、脱ぐの?」

とオーバーにリアクションを取った。晶は風向きと風の強さを測る。位置を決め、桜と樹理に風上に行くように促す。ナナもそこに並ぶ。

「始めます」

と一言断り、変形を始める。桜の前で初めて変形したのと同じ、銀色の骨細工に毛の生えた物。樹理は一つ一つの変化にリアクションを取り、桜に答えを求めたが、

「落ち着いて。待ってて」

と言うことしかできなかった。変形が終了し、放熱が始まる。空気が熱で歪む。

「おーし。質疑応答だ。本木樹理。先ず基礎知識だ。わたくしことナナちゃんと、この物体、清水晶はアンドロイド。つまり人工物だ。ヒトに似せて作られたヒト未満の物だ。何故『未満』かと言うと、不便なことが多い。この放熱がその一つだ。無防備だろー?そこに見える球体。それが脳であり、心臓だ。例えばだが、あれをぶち壊したら、わたくしたちは死ぬ。コアラがユーカリの木から別のユーカリの木に移動する時と脱糞の時に地面に降りるんだが、それと同じ程度に死のリスクがある。理解できるか?」

「さっ……さっぱり」

呆然とする樹理。

「まぁ、ザックリと『人間っぽい人間じゃねーモノ』ってこった。その認識で十分だ」

「はぁ」

「次の基礎知識だ。清水晶は小寺ときという、百年程度前の人間が製造したらしー。わたくしはその研究を元にした劣化コピー品だ」

「ナナちゃん。何で『タイプ7』なの?七体目ってこと?」

「冗長な説明になるが、いーだろーよ。『国境なき医師団』っつーのがあるだろー?あれみたいなもんで、世界中から、気の狂ったあらゆる学問の研究者たちの集まり。それがわたくしの開発元だ。ちなみに『タイプ7』は七体目じゃない。第七世代ってことだ。わたくしが、わたくしたち『タイプ7』が清水晶の『劣化コピー』というのはだな、小寺ときの研究の成果でありプロトタイプであり唯一品でありながら、百年程度活動を続けている清水晶に対して、小寺ときの研究内容をそのまま再現したはずなのに、わたくしレベルに達するのに七世代もかかったということだ」

「『わたくしたち』ってことは他にもいるの、アンドロイド?」

桜は感じたままに質問する。

「あーそーだ。タイプ7シリーズだけで総数が何体いるかなんて、末端の構成員のわたくしには知ったこっちゃねーが、様々な研究のために大量に生産されているんだろーよ」

「なんのために?」

「おいおい、質疑応答つったって脊髄反射で質問するなよ。頭使えっつーの。『なんのために』なんて『あるゆることのために』だ。つっても、わたくしも実際には知らねーがな。ここからは推測だ。人間が人間型アンドロイドを作った場合、即思いつくことと言えば、戦争の道具かセックスの道具かのどちらかだ。次に医療。あとは細かい専門分野だな。発生学、生理学、心理学、脳科学、教育学、エトセトラ、エトセトラ。他に思いつくことと言えば、極限状態での作業だろーな。放射線で汚染された空間に暴露されるだけの素体もいるだろーよ。データ取るためだけにな」

「私も質問していいですか?」

変形したままの晶が声を出す。樹理はそれに反応して、大げさにビクリと体を跳ねさせる。

「おーよ」

「とき様の研究論文をどのように入手したのですか?月島家が封印していたはずですが」

「知らんがな。わたくしは末端の構成員だと言っただろーよ。どうせ武力行使か、こっそり盗んだか、金で買ったかのいずれかだろ?」

「とき様の研究はほとんど世に知られることはなかったと思うのですが」

「それも知らねーよ。『ほとんど』っつーことはウチらの組織の誰かは目を付けてたんだろーよ。あー、次の質問は予想が付くな。『何故、私を知っているか?』だろ?」

「そうですね」

「これも推測だが、小寺ときの研究を知った奴、もしくはその仲間が小寺ときを監視していたってこっだ。で、てめーを発見し、監視対象を増やして監視し続けた。でもって現在の主要な監視者はわたくしってこった。ちなみにわたくしは着任して、まだ一年半程度だ」

「他にも監視者がいるのですか?」

「さーな。だが、合理的に考えて、人間だってミスをする。さらに、その模造品ときたらミスすることも容易に想像できるだろー。わたくしが精神、もしくは心を持っているってことは、どこかで盛大なミス、もしくは逃亡するかもしれないと考える。清水晶を監視する連中がいくらかいて、その監視者を監視する連中もいるってこったろーよ。清水晶、あんたはそれぐらい重要な研究材料なんだろーな」

「では私を捕獲して、その研究機関で調べればいいのではないのですか?」

「それはあれだ。社会人類学になるのか?『人間と交流するアンドロイドの成長と変化』も研究対象ってこったろーよ。わたくしたちコピー品があれば、機械としての研究には支障が無いと判断したんだろーな」

「なるほど」

全員しばし無言になる。

「質問は終わりか?頭使えよ。この高校はそこそこの進学校なんだろー?」

「……あの、……今日の目的って、何?」

桜がおずおずと聞く。

「あー、清水晶の直接的データ収集とコアの回収」

「つまり、私を『殺す』と言うことですか?」

「あー、うー。それも説明しなきゃならんのかい。そろそろめんどくせー感じになってきたな。まーい―や。清水晶、てめーは知らねーと思うが、わたくしたちアンドロイドのコアは単体でもある程度活動出来る。生き続けられるってこった。でもって二つあんだろう?つまり『一個だけ頂戴よ』っつーこった。でもって、そんなこと言ったら、当然信用しねーだろー。そうなったら反抗するだろー?逃亡するか、武力でわたくしを打ち負かすか、だ。で、逃亡に関しちゃ、今までてめーを見逃したことが無いウチの組織が、てめーが今更逃げたところで、当然見逃さない。百秒以内に他の監視者が捕捉するさ。そーなったら次の手段は武力行使だ。わたくしは完全な戦闘用じゃーねーが、戦闘訓練は受けている。で、プロトタイプであるてめーのお手並み拝見ってこったよ」

「では、私の核を回収してどうするのですか?」

晶の放熱が完了し、人間の姿に戻る。桜に歩み寄り、服を受け取り、着る。

「さーな。どうせ研究だろー?わたくしたち第七世代との差異を検証して、第八世代、九世代のためのデータ収集だろーな。ちなみに清水晶、てめーの寿命も研究対象だろーから、回収したコアは返すことになってる。コアが揃えば肉体の復元は可能らしー。復元したら、てめーはまた人間に紛れて生活し、活動が停止するまで監視される。さすがの小寺ときといっても永久機関は作れんだろーとわたくしは推測しているが、わたくしは研究者じゃねーから知らんけどな。あー、そうだ。おい、松竹桜」

「へ?」

晶とナナの会話をぼんやりと聞いていた桜は間抜けな声を上げた。

「てめーは現存する唯一の適合者だ。いずれウチの組織がデータを取りに来るかも知らねーから、覚悟しとけ」

「って言われても、私何もできないし」

「まー、そうだな。ま、監視対象になったってことだけ認識してろ。殺しゃしねーし」

「はぁ」

ナナは晶に向き直り、

「さー、どーするよ。あっさり回収されるか、ちーっとばかし抵抗するか」

晶はナナを見つめたまま、しばし無言になる。そしてゆっくりと、

「ナナさんの『核一つでは死なない』というのは、やはり信用できません。桜さんを巻き込むのもいただけません。抵抗します」

「オッケーだ。人間らしー自己防衛本能だな。ただし、松竹桜はすでに監視対象だ。危害は加えねーが逃げられねー。抵抗に関しちゃ、こちらもデータが欲しいからな。望むところだ」

ドスンと今までぶら下げていたアタッシュケースを床に落とす。

「ちなみにこの戦闘にはわたくしに優位性がある。決定的にな」

「やってみなければわかりません」

それを聞いたナナは気だるげに、

「てめー、武術やってんだろ?相手の力量くらい見ただけで量れよ」

「何故そこまでの自信を?」

「経験の差」

端的に即答するナナ。

「特に『対アンドロイド戦闘』において。てめーは対人戦闘の経験しかないだろー?そーいうこった」

「ちょっ、ちょっと待ってよ。二人とも戦うってこと?バトル漫画じゃあるまいし。晶もやめてよ、バカげてるじゃん」

桜は慌てて、晶とナナの間に割って入る。

「桜さん、今の状況では戦闘は避けられません。多分、ナナさんの組織は、仰る通り私も桜さんも見逃してくれないでしょう。ナナさんの仰ることが本当であれば、ですが。そして、私はとき様から頂いた『清水晶』という個体を守らなければなりません」

「わたくしは嘘は吐かねー、そんなにはな。だが、このミッションは清水晶、てめーを破壊するものではねーよ。その上で、ちょっくらじゃれあおーじゃねーかっつー話だ」

「と、言うことだそうです、桜さん」

「え、えぇーっと……、待ってよ」

「待てねーな。そろそろ時間も無くなってきた。わたくしのスケジュールは詰まってるんだよ。さー、ギャラリーの理解なんかどーでもいーぜ。始めよーか」

晶は、桜と樹理から離れつつ、

「もう始まっています」

と屋上の中央付近で構える。

「いー心がけだ」

言い放って、その場から一足飛びに数メートル間合いを詰め、前蹴りを放つ。

晶は半身かわして、間を置かず肘打ちを放つ。

踏み込んだ脚の力でコンクリート製の床のタイルに罅が入る。

ナナは両腕をクロスし、ブロック。

数歩、退く。

「いーねー。やるねー」

ナナは笑いを漏らしながら言う。しかし、肘を受けた両腕はあらぬ方向に折れていた。

「ちょっ、おれっ折れちゃったよ?」

樹理が腰を抜かし、へたり込んで桜の足にしがみ付く。その桜も、なんとか立っているが両膝が震えていた。

晶は構えを解かない。

「清水晶、追撃はねーのかよ?」

「腕を破壊しました」

「そーかよ。おつむが弱いのか、プロトタイプ?」

言うと、ナナの折れた腕は復元していく。手品師のフィニッシュのように手を広げながら、

「じゃーん、つって。じゃ、とりあえず対人戦闘でお茶を濁しますか」

言い終わると同時に再び間合いを詰め、パンチ、キックを素早く放つ。

マーシャルアーツ。

動体視力に自信があるはずの桜にも三回くらいの攻撃しか確認できなかった。実際は十一発。

晶は攻撃を全て受け切り、反撃の拳。

ナナはそれをかわしながら腕を掴み、捻じり、放り投げる。

晶は背中を床に強く叩きつけられる。

受け身。

即、立ち上がり構える。

「合気。なんつって」

片方の口の端をつり上げて笑うナナ。

晶は鋭く拳を打ち込む。

その打ち込んだ速度で、逆方向に跳ね飛んだ。

それを見た桜は、晶が後方にジャンプしたのだと思った。

屋上のフェンスに背中を打ち付ける晶。

床面に着地。

拳を打ち込んだ腕は、肩から歪んでいた。

「合気っつったろーがよ」

呆れ気味に言い放つ。

晶も腕を復元させつつ、一歩で間合いを詰める。

踏み込み、両手による掌底。

脚で床のタイルを踏み砕く。

ナナは居を合わせ、晶の掌底に自分の掌を重ねる。

合成された力は、方向をねじ曲げられ、上へ。

晶のフェイク。

二人とも肩から腕全体が壊れる。

開いたナナの腹に膝を打ち込む。

その蹴り脚をそのまま体ごと振り下ろし、ナナの顔面に頭突き。

「ピィィィーーーー、ガ……ガガガ」

ナナの口から電子音が発せられる。数歩、退く。

晶は腕を復元させ、構えに戻る。

「ココココココアに……にッッ響いたぜ」

顔面の上半分が潰れた状態のまま、ナナは言う。

晶に破壊された腕は、波打ちながら復元していく。顔の歪みもゆっくり戻っていく。

「あははははは、やるなー。初めてにしちゃーなー。あはははははは」

ナナの復元を待たず、再び踏み込む。

膝への蹴り。

ナナの脚が関節と逆方向に折れる。

間髪入れず、両拳で左右それぞれの側頭部を殴りにかかる。

ナナは体を沈み込ませながら、折れていない方の足を軸に高速回転。

折れている脚で、晶の踏み込んだ脚を刈る。

体の軸を崩され、よろける晶。

足払いの回転を利用し、その勢いのまま蹴り足を振り上げ、崩れた晶の側頭部にハイキック。

足を振り抜き、一回転し、そのまま胸へ突き蹴り。

晶は体勢を立て直そうと構えを作るが、よろけ、数歩退く。

頭部と胸部、それぞれの核への攻撃で、晶の身体のコントロールが崩れる。

「あ、あき……」

桜は、ダメージを受けた晶に声をかけようとしたが、声が上手く出なかった。桜の見る限り、晶の攻撃は一撃でも人体を破壊できるレベル。ナナも、体は小さく、体重も軽いのだろうが、相当の威力だろうと観察。人間の立ち入れる領域でないことは判断できた。樹里は桜の腿に顔を埋め、ガタガタと震えていた。

ナナが仕掛ける。

ハイキック。

体のコントロールを取り戻しつつあった晶は、左腕でそれを受ける。

しかし、キックを受けた左腕は簡単に破壊され、折れる。

ハイキックから切り替わり、ストレートへのコンビネーション。

晶は右腕でストレートの力の方向を変化させ、交わし、踏み込む。

折れたままの左腕の肘を脇腹に打ち込む。

受けたナナは踏みとどまり、下段から上へ、三連の蹴り。

二段目まで受け止め、三段目は上半身を反らし交わす。

ナナは蹴り足を変化させ、踵を振り下ろす。

鎖骨付近に直撃。

服で見た目には分からないが、双方、打撃を受けた部分は凹んでいた。

観戦していた桜は緊張で集中力を失いつつあった。息苦しさを自覚した。ただ分かるのは、乱打戦になり、腕や足が折れ、頭や拳がひしゃげても攻撃の手を止めない事だった。

ナナが突然、手を止める。

晶も反応して、形の歪んだ拳をナナの顔面の寸前で止めた。

「飽きた」

ナナが呟く。

「飽きた飽きた飽きた飽きた飽きた飽きた飽きた飽きた飽きた飽きた。対人戦闘、やーめた」

ナナはクルクルと回りながら間合いを離す。

「……では、こちらの抵抗は成功ですか?諦めてもらえますか?」

「いや、こー見えてもわたくし、任務には忠実なんでね。対アンドロイド戦闘に切り替える。今日のミッションのリミットも差し迫ってるしな。じゃー、始めようか」

ナナの腕が変化していく。両の肘から手首までが太く、筒状に変化する。

パイルバンカー。

腕を、拳の付いた杭打ち機に変化させた。

晶は臆せず、先手を取りに拳を打ち込む。

その拳に、合気の要領で居を合わせ、ナナはパンチを打つ。

双方の拳がぶつかるタイミングで、ナナは杭打機から拳を射出。

晶の腕は、肩まで貫かれ、原型を失った。

弾け飛んだジャージの布片が風に舞う。

「清水晶、意外と賢いな。破壊される寸前でナノマシンを硬質化させたな?普通ならコアを残して上半身の四割は吹き飛ばしてるところだが」

晶は構えを解き、残っている手を小さく挙げる。破壊された腕も復元していき、同じように小さく掲げ、降参のポーズを作る。

「わかりました。これ以上は無駄なようです。時間をかけさせてしまって、すいません」

「いやいや、構わねーさ。データも取れたし、なかなか楽しめたしなー。ウチの組織の歴史でプロトタイプと初めて接触したわたくしがここまでやられるとはね。小寺とき、すげーな」

ナナは杭打ち機にしたままの腕の、その拳でサムズアップをした。ナナは桜たちの方を向き、

「おーい、終わったぞ」

桜は反応して歩き出そうとしたが、足にしがみついて泣きべそをかいていた樹里に気付いた。

「樹里、ほら」

と、樹里の頭を撫でる。

「うえ?終わったの?」

「みたい。立てる?」

樹里は膝を震わせながら立ち上がる。桜が支えてやる。ゆっくりと晶たちに歩み寄る。

「晶の……負けってこと?」

「そうですね。引き時のようです。時間をかけ過ぎました」

ナナは腕を人間のものに復元させ、晶に歩み寄る桜たちの側を通り過ぎ、屋上入り口付近に置いたアタッシュケースを拾い上げ、再び晶たちの所に戻る。

「晶はどうなっちゃうの?」

桜は、戻ってきてアタッシュケースを床に置いたナナに聞く。

「頭部を切断して、コアとナノマシンの一部を持ち帰る。まー、生首をコイツに入れてバイバイってこった」

と、足下のケースを軽く蹴る。

「ねぇ、本当に核?一個でも生きてられるの?」

桜は恐る恐る聞く。

「あー、大半のナノマシンは維持できないがな。信用できねーなら、てめーらを気絶させて、その間にちょちょいとお仕事させてもらうだけだがな」

「晶を調べる期間ってどのくらい?どのくらいで元に……、人間の姿に戻るの?」

「知らねー。ただ、ウチらの組織の研究員は今回のミッションを楽しみにしてるだろーから、仕事ははえ―だろーな。推測に過ぎんが、わたくしは嘘は吐かねー、そんなにはな。じゃ、始めるか。清水晶、てめー背が高―からけ。ザックリ一発で終わらせてやる」

「分かりました」

晶は床に両膝を付く。ナナは低くなったその頭を鷲掴みにする。

「晶……」

「心配しないでください、桜さん。ナナさんを信用しましょう」

「い―心がけだ」

晶の頭を掴むナナの手に変化が現れる。小指が割け、その裂け目が肘まで拡がる。肘の部分に機械的な軸が形成される。小指から分離した部分は硬質化し、ブレード状に形を変える。ブレードは、肘に作られた軸を中心に回転し、適当な長さに伸びていく。晶の頭を掴む手に対し、九十度回転したところで止まる。

「やっぱ、ちょっと待っ」

桜が口を挟むと同時にブレードが振るわれる。簡単に晶の首は切断され、一緒に切られた髪がバサリと落ちる。ドサッと音がして、桜が目を移すと樹里が気絶していた。ナナは作業的にアタッシュケースを開け、緩衝材の詰まったそれに晶の生首を乱暴に放り込んで、やはり作業的に閉め、

「一丁上がり。じゃーな」

とそのまま屋上を後にした。

桜はへたり込んで、しばらく頭の無い晶を眺めていた。虚無感が精神を支配して、反応できなかった。晶の髪の毛に変化が起きる。黒かった髪が銀色になり、粒子になって風に舞っていった。次に肉体だった部分が液状化して、崩壊した。肌色だったそれは銀色に変化し、光沢も無くなった。桜は泣いている事に気付いた。何の感慨も無いのに、目の前で起きている現象を目の当たりにしただけで、泣いている。昨日会ったばかりの、人間もどきのはずなのに、涙が止まらなかった。

「晶、生きてる?」

呼びかけるが返答がない。

「晶、核一個でも大丈夫って言ってたじゃん。応えてよ」

桜は床に伏せて声を上げて泣いた。

(桜さん、聞こえますか?)

桜は泣き続けた。

(桜さん。晶です。大丈夫です)

晶の声が桜の脳に直接届く。

「晶?どこ?」

見ると晶の破れたジャージの中に微かな膨らみがあることに気付いた。桜はジャージの上着をどかす。そこにはソフトボールより少し大きい銀色の球体があった。

「晶、これ?核?」

「そうです。自我を確認し、自分の状態をトレースするのに時間がかかりました」

球体から晶の声がする。桜は軽く球体に触れる。温かい。

「どうやら『心』は残っているようです。ですが今の状態で維持できるナノマシンはこれが限界のようです」

「あぁ……」

桜は液状化したナノマシンの中から球体を取り出し、抱きしめる。

「晶……」

「心配しないでください。あとはナナさんを信用しましょう」

晶が声を発すると、晶である核から小さな振動が伝わる。

「わかった。私にはそれしかできないもんね。泣いてちゃダメだね」

それでも涙が溢れた。晶である球体に涙が落ちる。

「樹里さんは大丈夫ですか?」

「あぁ、そうだね。でも、ショックがデカかったから起きるまでそっとしとこう。……っていうか、力が出ないよ。あ、立てない。へへっ」

軽く笑って、一つ鼻を啜る。

樹里が目を覚ますまで、桜は晶の核を抱えながらぼんやりとした。涙はすでに止まっていた。風が強くなる。樹里が風邪を引かないように何かを上に掛けてやろうと思ったが、あるのは晶のジャージだけだったので諦めた。

「あぁ、ママたちに説明しないと。何から話そう。なんか、全然わけわかんないし。話したらまた泣きそう」

「私が話します。多分、その方が話が早いでしょう。松竹家の皆さんを巻き込むかたちになってしまいますが」

「でも……、多分、ナナちゃんの組織はウチの家族には何もしないんじゃないかな。私だけが適合者って事みたいだし」

「それだといいのですが」

話題が尽きてしばらくして、

「う?あー、桜っち。変な夢、見たの。なんて、屋上じゃん。やっぱ夢じゃねーし。怖かったよぅ」

樹里はゆっくりと体を起こす。桜は、

「晶、ちょっとごめん」

と床に晶を置き、樹里を抱きしめる。

「樹里が大丈夫って言うまでこうしててあげる」

「とりあえず、ありがと。晶っち、死んじゃったの?死体も血も無いけど」

「後で家に行こう。ウチの家族と一緒に説明してあげる。全部。今はまず、落ち着いて」

「落ち着いた、と思うんだけど……、あぁ、やっぱまだ無理かも。キスしてくれたら大丈夫になるかな。試して」

「我が儘だなぁ」

桜は樹里の頬にキスをする。樹里はやっと手を動かし、桜の顔を掴み、唇にキスをした。桜は抵抗しない。少し長く。

「桜っち、目が腫れてる」

「ちょっと泣いたから」

もう一度、唇を重ねる。

「もう、オッケー」

立ち上がる樹里。少しよろける。桜も立ち上がり、晶を拾う。

「桜っち、そのボール、何?……あぁ、晶っちのコア…とかいうやつ?」

「樹里さん、大丈夫ですか?」

晶が話しかける。

「どわっはっっ!!」

驚いて退こうとして失敗して尻餅をつく。

「晶っち?」

「えぇ。現状ではこういう形状になりました。驚かせてしまってすいません」

「樹里、悪いけどそろそろ帰ろう」

「あぁ、うん。わかった。晶っち、触っていい?」

「構いません」

樹里は立ち上がり、恐る恐る晶に手を伸ばす。指先で軽く触れる。

「あ、温かい」

掌で軽く撫でる。

「不思議ってレベルじゃねー」

それから帰る準備をする。晶のジャージの上着とシャツ、下着は半分近くが崩壊している。桜はそれも一応、スポーツバッグに詰めた。晶本体をバッグに入れるかどうかを考えて、結局手で抱えることにした。屋上から校舎へ入り、下駄箱へ。靴を履き替える。晶の靴も桜のバッグへ詰め込んだ。松竹家へ向かう。

「晶、どの程度のことが出来る?目、無いけど見えるの?」

「見えません。ナノマシンをコントロールして目を形成すれば見えるかもしれませんが、客観的に考えて、桜さんたちの気分を害すると思います。現状、見えなくても問題ないでしょう。手足がないので、何も出来ませんし」

「食事とかどうするんだろう。一応、食べないと死んじゃうんでしょ?」

「桜っち。晶っちってロボットなのに食べるの?何食べるの?コンセントに繋いで充電、とかじゃないんだ」

「うん。普通の人間の食事でいいんだよ。今日の朝も昼も一緒に食べたから」

松竹家のドアを開ける。杏が出迎える。

「あら、樹里ちゃん、こんにちは。あら?晶ちゃんは?」

「パパたちみんな、いる?」

「うん、いるわよ。槇ちゃんはバイトがお休みだし、桃ちゃんも雑誌の撮影、終わったから。二人ともお部屋にいるわ」

「みんなリビングに集めて。話があるの」

杏は桜の様子から判断して、特に何も聞かず、言われた通り家族をリビングに集め、紅茶の用意をした。松竹家と樹里の六人が揃う。

「これ、晶。晶、みんな集めた。説明を始めよう」

リビングのテーブルの中央に球体の晶が置かれる。松竹家の面々は桜が何を言っているのか理解できず、無言になる。

「清水晶です」

球体が声を発する。松竹家の一同はそれぞれ、

「はぁ」

と応えるだけだった。ICレコーダーか何かに録音した声だと判断した。晶はゆっくりと一つ一つ説明していった。昨日、桜に説明したこと。今日、ナナと接触し、知ったこと。これから推測されること。誰もリアクションを取らず、静かに聞いた。柳が、

「清水さん、今言ったことが本当だという証明は出来るのかい?録音された音声を再生してるだけじゃないのか?」

「証明は難しいですね。皆さんが積極的に理解しようとしていただかないと先に進みません。ですが、いくつか試してみましょう。おば様、私の分の飲み物をいただけますか?」

「え?あぁ、はいはい」

杏は晶用のマグカップに紅茶を淹れ、

「はい、紅茶よ」

と球体の側に置く。球体の表面が変形し、まず目を一つ作る。

「視覚を確保しました。今は目を一つ作るのが限界のようです」

「キメーよ」

桃は吐き捨てるように言った。晶の目は球の表面を移動し、周囲を観察する。

「証明、一。視覚。おじ様は薄いグリーンのポロシャツを着ています。槇さんは黄色のシャツに赤い柄のプリント。ハーフパンツでしょうか?桃さんは、カラフルですね。人間の状態より視力が悪いようなので、この程度しかわかりません。証明、二。摂食。おば様、紅茶、いただきます」

球面から目が無くなり、表面の一部が突起する。その突起が伸び、触手を形成。晶用のマグカップに触れる。何度か探り触手が紅茶の中に入る。変形し、筒状に。観察している松竹家の面々にも紅茶が確実に減っているのがわかった。

「晶ちゃんの声のするキモいのさぁ、紅茶、飲んでるの?」

桃が聞く。言葉に刺が含まれる。拒絶を隠さない。

「はい、飲めています。温度は多少わかりますが、味はわかりません。今のところ、機械であることは証明できたと思いますが、『清水晶』であることは証明できていませんね。何か質問はありますか?」

「いや、いい」

溜め息混じりに柳が言う。

「理解は出来んが、トリックがあるとも思えん。確かに清水さんかどうかはわからない。こちらとしては、どう対応していいかわからん」

柳は本心をそのまま口にした。

「清水さん、動物みたいな扱いになるが、桜、面倒はお前が見ろ」

「うん」

「私はノータッチだからね。付き合ってらんない。やっぱキモい」

「桃ちゃん、部屋分ける?私、晶のために用意した部屋で寝るようにするよ」

桃は頭をクシャクシャと掻きむしる。

「あー、わかったよ。そこまでしなくてもいいよ。私が悪かった。でも、慣れるまで桜ちゃんにも晶ちゃんにもイヤな気分にさせると思うから。そこは、ごめん」

「無理だったらいつでも言って。こんなの普通、耐えられないと思うから」

諦めを前提に含ませながら桜は言う。

「警察かなんかに言った方がいいんじゃねぇか?」

槇がボソリと言う。

「これを信じると思う?あと、多分、晶と私を監視してる組織はそんなこと許さないと思う」

「ところで晶ちゃん、私はどういうご飯を作ったらいいのかしら?ワンちゃんや猫ちゃんのご飯じゃダメよねぇ?」

杏が暢気に聞く。

「口を形成するとき、歯は作れないと確認しました。流動食をお願いします。味がわからないので栄養だけ考えていただければ。推測ですが、納豆、ヨーグルト、バナナ、塩をジューサーに掛けて液状にしてください。現在の状態では一日一食で構わないと思います。お手数をおかけしてすいませんが」

「わかったわ」

「晶ちゃん、ただでさえキモいのに、喰うもんもキモいのね」

桃が率直に言う。

「桃ちゃん、やめて」

桜は力なく言う。

「桜さん、構いません。松竹家の方々を巻き込んでしまったのは、私が至らなかったからです」

「清水さんを狙ってる組織は世界規模なんだろう?じゃあ、君には責任は無いんじゃないかな」

柳は、やはり溜め息と共に言葉をはき出す。そして、

「家族会議はこれで終わりだ。みんな、清水さんには出来る限り協力しよう」

桜は晶を抱えて樹里を玄関口まで送り、

「樹里、今晩泊まりに来ない?夏休みの宿題やろう。私もまだショックでダメみたい。樹里には悪いけど、誰かに支えて欲しい」

「わかったよ、お母さんに言ってみる。晶っちにもなんかデザート、買ってくるね。じゃ、ばいにゃい」

「ちゃお」

その日の松竹家の夕食は誰も喋らなかった。

食後、桜は部屋で、

「桃ちゃん、一緒にお風呂入ろう。晶も一緒に、だけど」

「あー、まぁいいよ。まだ慣れないけど、桜ちゃんずっと泣きそうなんだもん。双子とはいえ、姉としては放っておけないからねぇ。晶ちゃん、ムカつかせたらごめんね」

「いえ」

桜と桃は風呂でそれぞれの体を洗った。晶を湯船に入れたら浮いた。晶を中央の浮かべ、桜と桃は向かい合わせで温めの湯につかる。

「桜ちゃん、晶ちゃん、ごめんね。言い過ぎたと思ってるよ。正直、怖いし」

天井を仰いだまま言う。それからは無言で過ごして、桃が先に上がった。桜が風呂から上がると樹里がキッチンで麦茶を飲んでいた。

「宿題、どのくらいまでやってるの?」

「桜っちが怒るくらい」

桜はコーヒー牛乳を作り、氷を浮かべる。

「徹夜かな。眠剤はやめとこう。夏休み明けのテストの順番にやってこうか」

「できなきゃできないでいいよ。怒られるだけだし」

「レギュラー狙ってるんでしょ?バレー部だって成績うるさいんじゃない?」

「まぁね。中間で赤点とらなきゃいいかなぁ、みたいな」

「宿題やってなかったら、その情報も顧問に行くんじゃない?」

「だろうね。じゃ、やるか」

麦茶の残りをあおる。桜もコーヒー牛乳を飲み干す。

その日の夜から日をまたぎ、日曜はずっと樹里の宿題をした。桜のものを写して処理をするだけ。時々、休憩で晶を交えて話をした。

桜は徹夜をしても眠くはならないが軽い頭痛がしていた。樹里が時々意識を失いかけたので、三時間ほど仮眠させた。


二週間ほどが過ぎた。晶は転校早々だが、家庭の都合で一時的に登校できないと言う風に柳が学校側に説明し、学校生活は晶が来る前と大差ないものになっていた。桜は毎日、スポーツバッグに晶を入れて、授業中の教師の雑談の時などにテレパシーで会話した。持ち運びが出来るので、体育とトイレの時以外、桜は晶とずっと一緒に過ごした。桜の精神が安定していないのか、昼休みなどに晶を机の上に置いて樹里と会話しているとき、桜は時々、突然涙を流した。探偵の時も晶を持ち歩いた。家に帰った後は、その日あったことを晶と話した。桃は二、三日は無視していたが、すぐに慣れて会話に参加した。晶は食事中の姿を見られることだけ拒絶した。桜は素直にそれに従った。毎晩、桜は晶を抱いて寝た。晶が休眠状態に入ると、晶の夢らしき鈍い色の付いた靄が桜の脳に伝わってきた。人間状態だった晶と寝たときよりも薄くぼんやりとした靄だった。

日曜日、スポーツチャンバラから帰って夕食を待ちながらリビングで晶と武道談義をしている頃、インターホンのチャイムが高速で鳴らされた。杏が調理の手を止め、インターホンに出る。

「桜ちゃん、、ナナちゃんってお友達から。『ナナちゃんと言えばわかる』って」

桜は晶を持って玄関を開ける。

「よー、元気にやってるか?」

ナナはケラケラと笑いながら言う。今回は変身ヒロインの様な派手なコスプレをしていた。

「ナナさん、こんばんは」

「晶の核、戻ってくるの?」

「茶くらい出せっつーの。今日は説明しに来ただけだ」

ナナをリビングに通す。杏には『ネットで知り合った友達』と嘘を吐いた。杏が用意した麦茶を啜りながら、

「松竹桜、それに清水晶、いくつか選択肢がある」

「選択肢?」

「あー。清水晶の調査は一先ず終わったらしー。で、このままコアを返してもいいんだが、どーする?」

「どうするって……、そりゃあ戻ってきた方がいいけど。晶はどう?」

「ナナさんの話を全て聞いてから考えます」

「おっし、スーパー説明タイムだな。調査は終わった。研究者どもはもう一つのコアといくらかコミュニケーションを取ったらしー。あと、清水晶を構成しているナノマシンについてだが、わたくしたちの方がいーもんらしーから、全て交換したそーだ。コアもブラックボックス化している部分や記憶情報に関する部分以外は取っ替えたそーだ。ここから何が推測できるか、少し考える時間をやる」

と言って残りの麦茶を飲み干す。桜も少し麦茶を啜った。

「桜ちゃん、そろそろ晩ご飯だけど。お友達も食べてく?」

無言になったリビングに杏が声を掛ける。

「じゃー、いただきます」

ナナは即答した。

「ママ、先に食べてて。こっちの話が終わってから食べるから」

ナナは小さく舌打ちし、

「早く考えろ」

「そう言われても」

桜は視線を泳がせる。

「ナナさん、考えが纏まりました」

「聞かせろ。早く食いたい」

「核が二つ揃った場合、まず記憶に齟齬が生まれます。これがどういった問題を起こすのかは予測できませんが。次にナノマシンの交換。今の、こちらの私のナノマシンと新しいナノマシンでは、人体の臓器移植のように拒絶反応が発生することが予測されます。これは向こう側の、調整された核と未調整の私との間にもいえることでしょう。それを踏まえた上で二つの核が揃って、私が『清水晶』として復元するために、今度はこちらの私を回収しに来た、という感じでしょうか」

「おー、やるねー。大体そんなところだ。まー、小寺ときのアンドロイドには自己復元能力と環境適応能力があるらしーから、現状、このままてめーをここでこちらに返しても構わねーそうだ」

「じゃあ、こっちの晶を回収しなくても人間の姿に戻れるんじゃないの?」

桜が話に入る。

「まー、そーだ。多分、『清水晶』として復元するだろーな。そこは問題ねーよ。こっからは感情論だ。ウチの組織でアレコレすれば、自然に復元するより復元は早く済むらしー。『実質、何日ですか?』っつわれても、わたくしにはわからんがな。で、このままこっち側の清水晶を返して自然に復元するのをのんびり待つか、ここの清水晶を預かってちゃちゃっと復元させるかの選択だ。ウチらに預けたらしばしのお別れになるってこったな。松竹桜、これはてめーの情の問題だ。ちょっぴり寂しー思いをするか、もっさり目の前で復元していくのを待つか。さー、どうする?あ、すいませーん。お茶、おかわりくださーい」

「あ、はいはい」

食卓ではすでに杏、桃、槇、柳が揃って食事をしていた。杏は麦茶のおかわりをナナに淹れてやる。桜は、

「あっ、……えっと、でも。うぅん……」

何度も何かを言おうとして、それを飲み込んだ。

「はーら減った、はーら減った♪お腹と背中がくっつくなー♪餓ぁ死、餓死、餓ぁ死、餓死♪わたくし、予定もあるのよねー♪」

とナナは嘘を歌った。

「うるさいなぁ」

桜はキッチンを見る。松竹家の面々は杏以外食べ終わったようだった。桃が飲み物を飲みながら桜たちの様子を伺っている。

「食べよう。その間に決める」

「おーよ」

ナナは杏の料理をいちいち褒めながら食べた。『漬け物、うめー。煮物、うめー』と何度も言って、ご飯を三杯おかわりした。桜はナナの出した問題を考えていたのと、ナナの過剰なリアクションで料理の味はほとんどわからなかった。食後、ナナは麦茶、桜はコーヒー牛乳を飲む。

「うん、決めたよ。うん」

「ほー、それで?」

「晶、向こうで人間になって戻ってきて」

「いいのですか?」

「ナナちゃん、ちゃんと戻ってくるんでしょ?」

「おー、清水晶の社会生活、プロトタイプと適合者の生活はわたくしの監視任務だからな。まー、研究者どもが『手放したくない』と我が儘言い出すかも知れんが……、まー、これは嘘だ。絶対戻ってくるぜ。安心しとけ」

桜はテーブルの上の晶を抱き上げ、

「待ってる」

「桜さんは大丈夫ですか?」

「大丈夫。うん、大丈夫。ナナちゃん、お願いします」

晶をナナに手渡す。ナナは乱暴に鷲掴みにして、

「まかせとけ。つってもどうこうするのは研究者どもだし、復元するのは清水晶本体の問題だからな。わたくしは持って行くことしかすることがねー。『果報は寝て待て』か?安心して寝てろ。さー、食ったし、持ったし、帰るとするか。じゃーな、見送りはいらねー」

と言ってナナは松竹家から出て行った。その晩、事情を桃に説明し、桜は桃にひとしきり甘えながら寝た。桃は呆れながら桜をあやした。


次の日曜、昼食後にインターホンが高速で鳴らされた。今は桜しか家にいなかったので、インターホンに出る。

「はい、松竹です」

〈桜さん、晶です。戻って参りました〉

その声を聞いて、即インターホンを切り、玄関へ走る。玄関を開けるとゴシックロリータ風の服を着た晶。

「晶!」

桜は晶に飛びつく。その勢いで転がり、そのまま向かいの公園の前で倒れ込んだ。

「大丈夫ですか、桜さん?」

「うん!良かった、晶。ちゃんと戻ったね」

晶の胸に顔を埋める桜。

「良かーねーよ。危ねーじゃねーか」

桜の後ろから呆れ気味にナナが声を掛ける。深い赤色の修道服。ヘッドドレスの中央には何故か『卍』。首からは十字架ではなく、チェーンの部分には曲玉、鳥居のエンブレムが付いたネックレスをしていた。

「晶、なんかおかしいの?自己修復だっけ?まだ完璧じゃないとか?ごめん、私、嬉しかったから全然気を使えてない。こけたの、痛くない?」

桜は早口でまくし立てる。晶は、

「問題ありませんよ」

「あー、なんだ。説明してやるから家ん中、通せ。もてなせよ。あと、深呼吸三十回してまず落ち着け」

ナナは倒れている桜と晶に上から声を掛ける。

「あぁ、うん」

と言って立ち上がり、晶を起こすように手を貸す。晶の服に付いた埃を払ってやる。

「この服、可愛いね。似合ってるよ」

「ナナさんの趣味のようで、着慣れていないので動きにくいですね。私の体に合わせた特注品のようです」

「あぁ、汚しちゃったね。ナナちゃん、ごめんね」

「そんなこたーどーでもいーっつーの。今日はミッションはねーから時間はあるが、ちんたらしてんじゃねーよ」

一つ溜め息をつく。言われて桜は改めて晶たちを家に招き入れる。リビングのソファに座らせ、コーヒーを淹れる。桜はコーヒー牛乳、晶はブラック。

「ナナちゃん、コーヒーだけど、砂糖とミルクは?」

「シュガーはスティックで三本、ミルクはいらねー」

テーブルにそれぞれ置いて、全員一口ずつ啜る。

「それで説明だが」

カップを置いて喋り出すナナ。

「結論から言うが、清水晶は復元していない。今見えているのは外っ面だけだ。中身はスカスカ。ナノマシンを気泡構造にして内部を構成している。で、体重は三分の一程度しかねー。多分、松竹桜、お前より軽いな。だからさっきてめーを支えきれずこけたっつーわけだ。完全に復元するためには、通常の食事を続けて三ヶ月ってところらしー。まー、日常生活には支障はねーがな。あー、そーだ。調整したコアと今のナノマシンは熱効率が違―からな。放熱は一週間に一度程度で構わねー。まー、それでも蓄熱状態はてめーでチェックしておけよ」

「なるほど。晶、何か変わった?」

「まだよくわかりません。とりあえず、ナナさんが説明したこと以外は、以前の状態に戻ったとは思います」

「つーわけで清水晶は返した。今日のお仕事はこれだけだ。わたくしはこれで監視任務に戻るぜ」

コーヒーの残りを飲み干し、立ち上がる。

「ごっそさん。じゃーな。見送りはいらねー」

ナナはそう言ってさっさと松竹家から去っていった。

「晶、ホント良かった。ところで研究施設ってどんなところだった?怖いこととか無かった?」

「それが……、研究者の方々と話した記憶はあるのですが、この姿に戻った後に何かをされて、気付いたらナナさんとここへ向かって歩いていました。研究施設の記憶は……そうですね、『白かった』くらいでしょうか。あと研究者の方々は紳士的だったように思います。やはり記憶は曖昧ですが。あぁ、そうですね。桜さんに会いたかったとずっと考えていました。心配させているのではないかと」

「そっか、ありがと。私は大丈夫だったよ。樹里もいたし、勉強とか探偵とかスポチャンとかで気が紛れてたからかな。桃ちゃんがね、ずっと優しかった。いつもは私をオモチャにして遊ぶだけなのに。あ、復元中みたいだけど、学校行けそう?もうすぐ体育祭だし、勉強の遅れたところもあるし」

「現状、問題無いと思います。ナナさんが言った通り、体重が三分の一程度なのがどの程度影響するのかはまだわかりませんが」

松竹家の面々が帰宅する。それぞれ晶が帰ってきたことを喜んだ。槇だけはまだ人見知りが抜けていなかったが、桜の嬉しそうな顔を見て少し笑った。柳は担任の芳村に電話を掛け、晶が次の日から学校に復帰できることを告げ、フォローして欲しいと伝えた。桜は晶の復元が完全でないことを桃にだけ話した。桃は、

「ちょっとごめんね。力抜いて」

と言って晶を『お姫様抱っこ』して体重を確認した。

「わぁ、私でも持てるや。まぁ、それはいいや。みんなでお風呂入ろう」

三人で入浴。さすがに湯船に三人は入れないので、交代で入った。桃と桜は他愛ない会話をして笑い、晶はそれを優しげに眺めていた。風呂から上がり、杏に頼み、来客用の布団を一セット出して貰う。それを晶用の布団の隣に並べて敷き、晶を真ん中に、三人で揃って寝た。桜はいつも通り寝付けない。気分が少し高揚しているのもある。布団に入って三十分ほど。すでに桃の寝息が聞こえる。

(晶、まだ起きてる?)

桜はテレパシーを送る。

(はい。いつ意識が無くなるかはわかりませんが)

(探偵、する?)

(あぁ、そうですね。入会したいと思います)

(じゃあ、すっごく忙しくなるから。勉強の遅れを取り戻すのと、探偵の基礎を覚えるのと、あと探偵同好会として体育祭を手伝う事になったの。多分、学校が開くくらいの時間に登校して勉強のフォローでしょ?放課後は探偵。体育祭の準備も入ると夜遅くなると思う。土日も依頼があれば動くだろうし。あ、スポチャンもやりたいなら、それも予定に入ると思う。遊ぶ時間無いね。樹里が怒っちゃうな)

(出来る限りやってみようとは思います。至らなければ叱ってください)

(私だってまだ叱られる立場だもん。まぁ、気楽に失敗しようよ。先輩たちがフォローしてくれると思うから)

(わかりました。そろそろ意識が飛ぶかも知れません。これだけは伝えさせてください。桜さんに再び会えて本当に嬉しいです)

(私も嬉しい)

その直後、宣言通り晶の意識は休眠状態に入った。桜はまだ眠くない。晶とテレパシーで話して、さらに気分が高揚した。朝まで眠れなくなるかも知れないと思った。晶の指に自分の指を絡める。今日は晶は夢を見ていないようで、伝わってこない。深呼吸を数回して、桜の意識も沈んでいった。

夢を見る。『あぁ、これは夢だ』と認識して目を覚ます。外は曇りのようで時間がわからない。夢の内容はすぐに忘れた。晶が隣にいないことに気付いた。トレーニングのことを思い出す。桜も起き上がり、カーディガンを羽織り、玄関を開ける。公園にはやはり晶がいて、型をしていた。

「おはよ」

声に反応して、晶は動きを止める。

「あぁ、おはようございます。体重が軽い事がわかりました」

桜は寝起きと睡眠薬が抜けていないのとで頭が回らず、何を言っているのかわからなかった。

「力が入りません。予測している量が出力出来ないようです。瞬発力なども著しく落ちています。試しに道路でダッシュをしてみましたが、踏ん張りがききませんでした」

桜はゆっくり考えて、

「今日、体育あるけど見学する?生理とか嘘吐いて」

「いえ、体がどの程度動くのか把握するには体育は丁度良いと思います」

「あぁ、体育の時、一応三つ編みにしてね。先生、煩いから」

「わかりました」

「朝ご飯、食べよ」

「はい」

朝食を摂る。杏は間違えて、晶が核だったときの流動食を作った。晶は『もったいない』と言って一口啜ったが、

「酷い味ですね。私はこんなものを飲んでいたんですか」

その後は普通の食事を摂った。桜はいつも通りにコーヒー牛乳と菓子パン。食後すぐに準備をして登校。教室にはもちろん誰もいない。桜は晶にほぼ一ヶ月分の授業内容を大雑把に説明した。細かいところは中間テストまでに埋めていこうという方針を決めて、今日ある授業の予習をする。クラスメイトたちが少しずつ教室に集まる。晶を見つけると、皆、明るく挨拶し、『困ったことがあったら言ってくれ』と口々に言った。

「皆さん、親切ですね。私のことは忘れているのだろうと思っていました」

「ま、転入した日に私とキスしたのがインパクトあったからね。あ、イジメとかあったら言ってね。守ってあげるから、ってこれって前にも言ったね」

「ありがとうございます。私は、そうですね、大丈夫だと思います」

「おおぅ、晶っち。にゃっほー。幽霊じゃないよね。あ、桜っち。にゃっほー」

朝練を終えた樹里が明るく声を掛ける。

「ちゃお、樹里。幽霊じゃないよ、って、ごめんね。戻ってきたときに連絡するの忘れてた」

「樹里さん、おはようございます。現状、幽霊に近いですね。体重も軽いですから」

「よくわからん。でも、戻ってきて良かったよ。晶っちがいない間、桜っちが幽霊みたいだったからね」

「あー、それは言わないでよ!」

桜と樹里はひとしきり笑った。授業前のホームルーム。晶は芳村に頼み、転入初日の再現のように、

「ご心配をおかけしました。改めてよろしくお願いします」

と挨拶した。生徒の一部がふざけてキスコールを送った。桜は顔を真っ赤にし、ただでさえ小さい体を丸めた。その日の体育の授業はバスケットボール。身長の高い晶はディフェンスを任されたが、対戦相手の生徒とぶつかるとすぐに倒れた。しかし、授業後半にはコツを掴んだのか、得点に絡む動きをし、桜に、

「何とかなるものですね。面白いです」

と言った。昼食の時に桜は、

(晶、放熱は大丈夫なの?)

(えぇ、ナナさんの言った通り熱の蓄積は少ないようです)

と、応えた。


放課後、探偵同好会の視聴覚室に集まる。道彦と真美に改めて晶は入会の旨を伝えた。

「頑張りたまえよ。まぁ、当分は簡単な依頼ばかりでつまらないと思うがね」

と道彦。

「晶、入会を心から歓迎するわ。今度、桜と一緒に私の家にいらっしゃい。お祝いのティーパーティをしましょう。桜の時は出来なかったから、桜の分と一緒になってしまうけれど」

言って、真美は優しく微笑んだ。それから体育祭の、探偵同好会の担当区分についての会議をした。基本的には『使いっ走り』。各学年の雑務を引き受けることになると道彦は説明した。特に受験を控えている三年のフォローが重要だと真美が補足する。それと、吉ノ園高校とは違う日にちの、他の小中学校などの運動会の手伝いも並行することになる。

「大変ですね」

桜はメモを取りながら、簡単な感想を言う。

「松竹くんと清水くんは初めての体育祭だし、他の探偵の依頼もあるから、二人は必ず一緒に仕事をしたまえ。言い方は悪いが、成功は期待していない。体育祭の期間中は引退した先輩連中も手伝ってくれるらしい。だから過酷な状況にはならないと思うよ」

「二人に私のお姉様を紹介するわね」

会議は終わり、今日の依頼である小学生の下校の護衛。桜と晶は言われた通り、二人一緒に行動する。小学生たちは晶の背の高さを見て『スゲー、スゲー』と連呼して、一、二年生くらいの生徒はしきりにしがみついたりした。桜はそれを注意したが、

「構いませんよ」

と晶は優しく言う。依頼を全てこなしたときにはすでに暗くなっていた。

「あぁ、やっぱり子供の相手は疲れるなぁ。って私もまだ子供だけど」

桜は首を回す。関節が軽い音を立てる。

「今までは桜さん一人でやっていたんですよね。確かに大変でした」

「ま、今は晶を珍しがってるだけだから。私より背の高いことを自慢する女子と、いちいち胸を揉む小僧は許さんけどね」

それから二人は毎日忙殺された。勉強、通常の依頼、体育祭の準備。土日もママさんバレーの集まりに参加したり、初めて生徒同士の恋愛の浮気調査のために尾行をしたりした。桜は柳に頼み、晶もスポーツチャンバラを始めることになった。椛島の薦め通りに槍を練習。道場の隅で単調な練習をしている晶を見て、桜は、

「何してるの?」

「漫画で読んだ槍の基礎です」

と言って、

「ラン、ナァ、チャア。ラン、ナァ、チャア。」

と繰り返し呟いて素振りをした。

「何それ?」

「意味はわかりません。『ラン』と『ナァ』は相手の攻撃を捌く動作。『チャア』が突き。これが基礎であり全てだと漫画の中の『李書文』は言っていたように記憶しています」

「ふぅん。槍使ってる人ってあんまり見たこと無いけど、もっと派手に振り回してたような。まぁ、いいか。乱取りしてみたら?」

桜は椛島に頼み、試合形式で晶を中学生の男の子と対戦させた。中学生は杖。中学生は軽いフットワークと高速な杖捌きで晶を攻撃。晶は練習していた基礎通りの動きで攻撃をしのぎ、的確に突きを決める。しかし、結局晶は手数に押され、負けた。

「まだまだですね。漫画の教えも活かせていませんでした」

「これからだって。始めたばっかじゃん。良い動きしてたと思うよ」

と桜は励ました。


体育祭当日。桜と晶は自分たちが出場する競技以外は探偵の仕事であちこち動き回っていた。桜のクラスは紅組だったが、成績を気にしている余裕は無く、気が付いたら白組が優勝して閉会式になっていた。敗北の悔しさを感じることもなく、片付けの手伝いをする。一通り片付けて視聴覚室にいくと道彦がお菓子とジュースを用意して待っていた。

「松竹くん、清水くん、お疲れ様。我々が一年の時より君たちは頑張っていたと思うよ。なのでささやかだが労おうと思ってね。まぁ、食べて飲んでくれたまえ」

「桜、晶、よく頑張ったわね。お疲れ様。嫌な話だけれど、これから中間テストね。わからないところがあったら、私が協力するわ」

視聴覚室には引退した三年生も集まっていて、桜たちを珍しそうに眺めて、それぞれ挨拶した。真美の『お姉様』も紹介された。桜がイメージしていたのとは違い、真美より小さく子供っぽい印象の人だった。三年生は少し食べてすぐに帰っていった。しばらく談笑しながらお菓子を摘まんでいると、

「桜っち、晶っち!」

樹里が息を切らしながら入ってきた。

「樹里、帰ってなかったの?慌てたりして、なんかあった?」

「帰ろうとしたら、校門の所にナナちゃんが来てた。『呼んでこい』って言われた」

桜たちは道彦たちに一言断って校門に向かう。校門の前ではナナが浴衣姿で夕日をバックに仁王立ちしていた。裾はミニスカートの様な丈で、指や手首、首にはシルバーアクセサリーをごちゃごちゃと付けていた。

「よー、よー、お疲れさん。いやー、てめーらよく働いてたなー。感心したぜ。青春だな」

「今日は何?今度は私の調査?」

桜は眉間に皺を寄せて聞く。

「清水晶、調子はどーだ?」

桜の質問を無視し、晶に聞く。

「身体能力はまだ以前の調子ではありませんが、問題はありません」

「あれ?気付いてない?おっかしーなー。そろそろだっつって研究者に言われてきたんだが。ニックとアンナの奴、嘘こいたのか?清水晶、最近感じることは?些細なことで構わねー。いや、些細なことこそが重要だ」

軽く首をかしげ、晶は考える。

「そうですね。杏おば様の料理の味付けが濃くなったように思います。……今はこのくらいでしょうか」

「えぇ、ママの料理なんて特に何も変わってないよ?」

「それだ」

人差し指を突きつけるナナ。

「コア、ナノマシンともに調整した。それによって、人間でいう神経が、過敏になったはずだ。いや、まー今までが鈍かった、という方が正しーんだがな」

「桜さん」

晶は桜の正面に回り込み、体を屈め、頭を桜の高さに合わせる。髪を両手でポニーテールの状態に纏める。

「ビンタをください。私と初めて会った日のように全力で」

「えっ、なんで?意味分かんないよ」

「これからわかります。ですから、全力でお願いします」

「え……、あぁっと」

晶は桜を一心に見つめる。桜は戸惑って視線を泳がせる。

「樹理ぃ……」

後ろで事の次第を眺めていた樹理に助けを求める。

「いや、私に振られても」

「ううぅ……」

仕方なく構える。腰を捻り、

「いくよ?」

小さく頷いて応える。

パァン

「痛ぁ~」

ビンタを放った手をパタパタと振る桜。

「これは……」

晶は眼を見開く。

「頬が痺れます。熱いです。これが正しい『痛み』ですか?桜さん、私は痛がっているのですか?」

「一応、言われた通り全力でビンタしたよ。人間なら痛いと思うけど……」

「はぁっっ!?」

晶は体を起こし、目元に手を当てる。

「液体……。涙?ナナさん!涙を流せるのですかっ!?」

「まー、機能として備わってるらしーな」

「あぁ……!」

晶の眼から涙が溢れ、頬を伝って流れ落ちる。

「桜さん!私は泣いているのですか!?」

「えっ……と、うん、泣いてる。痛がって、それで泣いてるよ」

「清水晶、気付いたか?感情の大きさ。てめー、叫んで、泣いてるんだぜ?」

ナナは淡々と言う。

「っっ!!」

晶は桜を強く抱き寄せる。

「桜さん、私、泣いています。感情が……、あぁ、感情がこんなに大きく。とき様!とき様、私は今、痛がって泣いています!」

「晶……」

桜も応えて晶を抱きしめる。桜の頭に、溢れた晶の涙が降りかかる。目を閉じた桜の脳裏にときの映像と音声が流れ込んでくる。『晶さん』。優しい響き。『晶さん』。厳しい響き。『晶さん』。悲しげな響き。様々な感情の『晶さん』という声が桜に届く。生きている時、亡くなった時、簡素な墓。映像が次々に切り替わる。桜も涙を流した。

「清水晶!一応、聞ーとけ。これが今日確認しに来たてめーの変化だ。喜怒哀楽。一揃い強まってるはずだ。コア、ナノマシンともにもーちーと馴染んでくれば、感度も良くなって、感情の振れ幅が大きくなって、安定して発露するよーになる。まー、せーぜー楽しんでおけ」

桜から身を離し、製造されて初めて涙を拭いながら、

「ナナさん、ありがとうございます」

「感謝するのはわたくしじゃねー。てめーを開発した小寺ときだ。研究者どもは研究を勝手に引き継いだだけだし、わたくしは作られただけだ。まー、唯一感謝されるとすれば、初めてのコンタクトに成功して、研究者どもとの橋渡し役をやってやったくらいのことだろーな。じゃーな、今日のミッションは終わりだ」

言って回れ右をし、ガニ股で歩き出す。晶は再び涙を流しながら、その背中に深く礼をした。晶が落ち着くまで桜と樹理は見守った。

「もう、大丈夫です」

涙が止まった晶は桜たちに向き直る。

「晶、気付いてる?今、笑ってるよ」

「それ以上、指摘しないでください。また、泣いてしまいます」

「戻ろう。お祝いしよう。樹理も祝って」

「オーケー」

視聴覚室に戻る。道彦たちはいつ帰ってもおかしくないような、まったりとしたムードだった。

「会長、今からちょっとパーティします。晶の記念日なんです」

「僕たちは参加してもいいのかな?」

「一緒にお祝いしてください」

「具体的に何を祝えばいいのかしら」

真美が指摘する。

「ただ、『おめでとう』と」

「そう。晶、何かわからないけど、おめでとう」

「清水くん、今日から何かが始まるのかな?とにかく、おめでとう」

「晶っち、乾杯しよう」

桜は新しい紙コップにジュースを注いでいく。

「はい、晶」

ジュースの注がれた紙コップを手渡す。

「では、改めて清水晶くんのこれからに乾杯!」

道彦が音頭を取る。

「乾杯」

それぞれカップを掲げる。

「ありがとうございます」

晶はまだ出来損ないの笑顔で応え、ジュースを飲んだ。


帰り道。日は落ち、街灯に照らされた道を、桜は晶と手をつないで歩いた。

「よく小説で読んだ『感情が溢れる』とはこういう状態なのでしょうか。凄いです。私の言葉では表現できません。言葉では、決定的な何かが足りません」

「人間だってそうだよ。怒っても嬉しくても楽しくても、凄く満ちてる時は言葉じゃ足りないよ」

「桜さんとの適合のせいでしょうか。自分には今まで無いようなイメージが感じられます」

「私もさっき、晶から映像だけじゃなくて、ときさんの声が伝わってきた。嬉しい」

それからは無言で歩いた。すぐに松竹家に着く。お菓子を食べたので夕食は軽めに食べた。食後、それぞれ飲み物を啜る。

「桜さん、コーヒーとはあまり美味しいものではなかったのですね」

「じゃあ、今までなんで飲んでたの?」

「モダンがブームだった頃、あちこちにカフェができて、そこでアルバイトをしているときに初めて飲みました。変な味だとは思いましたが、その店の店長が時々出してくれたんです。当時は高級品だったんですが。その後も色々なカフェで仕事をして、その度にコーヒーを頂いて、インスタントコーヒーがブームになったころには飲むのが習慣になっていました。習慣はできても味には鈍かったようですね。桜さんのコーヒー牛乳、少し頂いていいですか?」

「いいよ」

ピンク色のカップを差し出す。受け取って一口啜る。

「あぁ、こちらは美味しいです」

「今はスタバとかにいろんな味のコーヒーがあるから、今度コーヒーデートしようよ。いろんなコーヒー飲んで、時々ケーキとか食べるの」

「楽しそうですね」

「晶、感情が大きくなったならさぁ、色々なものが違って見えるようになるんじゃない?アートもそうだし、音楽も、文学も。お洒落もさ、色々楽しもうよ」

「こんなに楽しくていいのでしょうか?」

「天国なんて信じてないけど、ときさんはそう望んでたんじゃないかな。そろそろお風呂、入ろう」

「はい」

体育祭で埃になったので、桜は全身を入念に洗った。晶はその間、洗剤やトリートメントの付いた桜の体の匂いを嗅いで、

「恋愛小説で表現される『洗剤の香りからくるときめき』とはこういうものなのでしょうか」

「どきどきは……しないんだっけ。どんな気分?」

「充足感を覚えます。呼吸をする度、感情が短い間隔で増減しているのを感じます。私にとってはこれが『どきどき』かも知れません」

桜はシャワーを浴び、洗剤を流す。晶と場所を交替し、晶の髪を洗ってやる。洗剤を落とし、湯船につかる。

「はあぁぁぁぁ、さすがに疲れたねぇ」

「お風呂。水圧と温度がこんなに感情を刺激するものだとは思いませんでした」

手で湯をすくい、さらさらと流す。何度か繰り返す。

「開眼?悟り?なんだか宗教じみてきたね」

「私はすでにとき様を信仰しています」

桜が小さく笑うと、晶も声を出して笑った。風呂から上がり部屋に行くと、晶用の布団の上で携帯を持ったままうつらうつらとしている桃がいた。桜は桃の体を揺すり、

「桃ちゃ~ん、風邪ひくよ~」

「ほあっ?あぁ、お帰りぃ。体育祭、どうだった?」

「そんなことよりね」

と桜は晶の変化について説明した。

「ほうほう。晶ちゃん、ちょっとじっとしてて」

正座している晶の体の、脇、背中を指で突き、反応を確かめた。リアクション無し。晶の髪をめくり上げ、耳に息を吹きかける。

「きゃっ」

晶は体をビクリと跳ねさせ、小さく身震いし、驚きの目で桜と桃を交互に見た。

「晶ちゃんは耳が弱いのか」

「これは、なんですか?びっくりしました」

「まぁ、反射なんだけど。人間の体にはね、あちこち敏感なところがあるの。っていうかびっくりする晶ってかわいいなぁ」

桜も晶の耳に息を吹きかける。その度に晶は小さな悲鳴をあげ、桜と桃はゲラゲラ笑った。イジメにならないうちに桜と桃は笑いながらベッドに入った。晶は不思議そうに自分の耳を何度もさすった。

「じゃ、おやすみぃ」

桃が照明を落とす。

「おやすみ。くふふ」

「おやすみなさい」

桜は眼を閉じる。いつも通り眠気はない。睡眠薬の効果で意識が無くなるまでこのままだ。明日は振り替え休日。探偵の依頼もない。リラックスして、体育祭までのことを反芻した。しばらくして、思考にノイズが入った。自分の記憶のイメージではない映像と音声が脳に広がる。夕日。小学生。女の子。『おねえさん、せがたかいし、キレイだし、モデルさんみたい』。高い視点からその女の子を見下ろす。目を開ける。映像と音声が途切れる。

(晶、起きてる?)

テレパシーで数回呼びかける。反応はなく、休眠状態に入っているようだった。晶の布団は部屋の中央で、ベッドにいる桜とは触れてはいない。

(晶の夢?)

再び目を閉じる。夕日。鏡に映った自分。違う。今日の事。映像の中の桜がビンタを放つ。閃光が走る。映像が特殊加工されたようにキラキラと変化する。小寺ときと桜の映像が交互に流れる。桜はそのまま眠りに落ちた。


晶は日々、小さいながらも変化していった。授業の合間の休み時間、樹理のトークに声をあげて笑うようになった。探偵の依頼で小学生の下校の護衛の時に、男子が女子にイタズラすると、声に怒気を混じらせて叱るようになった。桜が充から新たに告白された時、物憂げな表情をした。桜はその変化を見つけることが嬉しかった。中間試験が終わり、文化祭のムードが漂い始めたころ、晶は物思いにふけるようになった。その時間は、最初は微々たるものだったが、日に日に長くなっていった。

「晶さぁ、やっぱりさぁ、私、充さんと付き合ってみようかなぁ、なんて」

昼休み。頬杖をついて心にもないことを何気なく話してみる。

「はい、そうですね」

晶は窓の外を眺めながら言う。

「やっぱりさぁ、なんだかんだ偉そうなこと言って男性経験が無いのって問題かなぁって、なんて」

「はい、そうですね」

だるそうに机に突っ伏す桜。

「『優れた母親』の道は険しいなぁ。充さんとお付き合いかぁ、なんか……、もぅ。なんて」

「はい、そうですね」

「晶、聞いてないでしょ」

「はい、そうですね」


家に帰り、晶と宿題をしようとノートを開くと、晶は授業内容を書き留めていないことが増えた。

「晶、どうしちゃったの?なにかあった?」

「……いえ、大したことではありません」

桜の質問に晶は毎回、同じ回答をした。夜、晶の布団に潜り込む。晶の腕に絡みついて目を閉じる。晶の夢は日によって鮮明さが違う。いつもは日常の反芻。時々、ときやレトロな服装をした人々。音声も聞こえてくるが、睡眠薬のおかげで寝ること自体には支障はなかった。今日は、少し高い位置からの桜の映像。晶の視点。ときの映像に切り替わる。これのくり返し。そして、『私は……、私は……、私は……、私は……、私は……、私は……、私は……、私は……、』という晶の声。『私は……、』の続きは無い。桜は最近の晶の状態と重ねて考えて、なにか悩んでいるのだろうと推測した。悲しげな響きだと思った。


文化祭での探偵同好会の活動は『神良道彦の人生相談』。学校側と文化祭実行委員会は『依頼料がかかる』という理由で、探偵同好会には何も依頼をしなかった。暇になった道彦は、

「新規会員と新規の依頼の確保のために探偵同好会のアピールをしないとね」

と言って勝手に企画を進めた。道彦がおかしなことを言わないように真美がコントロールする役を引き受けた。相談料は一回百円ということになり、学校側からも認められた。桜たちのクラスの催し物は『アニソンサロン』に決定した。アニメマニアの生徒達が新旧織り交ぜてアニメソングをかき集める。お菓子作りの得意な生徒達がクッキーやスコーンなどの簡単なものを作る。あとは時間ごとにテーマを決めて、流すアニメソングを纏める。他のクラスがメイド喫茶やコスプレ屋台、お化け屋敷とありがちながらも予算を使いまくっている中、『低コスト、ローリスク、準備の手間がかからない』を掲げて、クラス全員、余裕を持って準備をした。そんな中、

「ねぇねぇ、松竹ぅ。あと清水さんさぁ」

と、クラスの文化祭実行委員の佐々門みこが馴れ馴れしい調子で話しかけてきた。みこはクラスの中でのファッションリーダー的存在で、桜たちとは特に接点のない生徒だった。以前に恋愛相談で何度か探偵の依頼をしてきたが、その時は道彦や真美が担当していた。

「あんたらさぁ、仲良いじゃん?でさぁ、ウチら一応『サロン』って銘打ってるじゃん。でもさぁ、他のクラスみたいに衣装とか用意して無くて、基本、制服にエプロンじゃん?でさぁ、『サロン』として花が欲しいワケよ。でぇ、あんたら、そこそこ見た目良いじゃん。で、経費も余ってるからさぁ、貸衣装でドレスアップして雰囲気作りの手伝いしてよ」

と、やや高圧的に説明した。

「はぁ、まぁ探偵同好会の方に出てない間は手伝いできるけど」

「じゃ、オーケーね」

「具体的に何すればいいの?私たちだけ衣装着てウェイトレスってのも不自然じゃない?」

「あぁ、こぅ、教室の真ん中に専用のテーブルと椅子、置くの。でね、あんたらは優雅にお茶するだけ。あくまで優雅にね」

みこは大げさに身振り手振りを加えながら説明する。

「はぁ?それだけ?」

「花よ、花。お飾り。あ、清水さんは男装でもいいかもね。松竹とカップリング的なノリで」

「晶、どう?」

「桜さんが一緒なら、構いません」

桜は腕を組み、首を捻り、

「うぅん……」

と唸る。

「お茶するだけの楽な仕事だから、いいでしょ?あ、でも優雅にね。品を忘れないでね」

「わかった。いいよ」

「清水さんも?」

「先ほど言った通り、桜さんが良ければ私も問題ありません」

「やった。でさぁ、放課後、空いてる日ある?早速、貸衣装屋に頼みたいんだけど」

「醍醐先輩に聞いてみる」

桜は携帯を取りだし、早速真美にコールする。少しして、

〈桜、今、図書室なの。用件だけ聞くわ〉

「今日以降、依頼ってありますか?文化祭の頼まれごとがありまして」

〈ちょっとまって。メモを確認するから。すぐ掛け直すわ〉

一度通話が切れる。

「どう?どう?」

みこが聞いてくる。桜は少しイラッとした。

「今、確認するって」

携帯の振動が手を刺激する。一応、着信相手の確認。当然、真美だった。

〈あぁ、桜。今日はいつもの小学生の護衛。明日以降も一応あるのだけれど、文化祭を理由に断ることもできるわ。こちらの行事ですものね。構わないわ。そちらのクラスの事を重視して〉

「了解しました。ありがとうございます」

〈用件はこれで良いかしら〉

「はい、解決しました」

〈では、切るわね〉

通話が切れたので、携帯を閉じる。

「明日以降なら問題無いって」

「オーケー。一応、貸衣装屋に何着か見立てて貰うから、二人とも身長とスリーサイズ教えてよ。あと、胸のカップ数。ここにメモって」

とプリクラやシールで派手にデコレーションされた手帳を開き、突き出す。桜は嫌々ながら身長とスリーサイズとカップ数を書き込む。

「変わってるかも知れないから、お店で計り直してね」

「えぇ、まだ胸でかくなるの?スゲぇ」

と、みこが声を潜め気味に言う。桜は身長が伸びていることを期待しての言葉だったが指摘しなかった。

「次、清水さん」

晶は身長だけ手帳に書き込み、

「私はスリーサイズの方はちょっとわかりません。そのお店で計ってもらう形になります」

「わかった。あんがと。じゃ、明日ね」

言ってみこは去っていったが、みこの友人のグループにあっさり手帳の情報を見せびらかし盛り上がっていて、桜はがっくり肩を落とした。


文化祭当日。桜は貸衣装の純白のロリータ服を着て、服に合わせ自前の伊達眼鏡コレクションの中で唯一のレトロなフレームの眼鏡をかけた。樹里は大喜びして、抱きしめたり、携帯で写真を撮ったりした。晶は紳士の服装になっていて、髪を首の後ろで簡単に纏めていた。簡単な化粧も施して、晶は完全に男装の麗人になっていた。みこの宣言通りに教室の中央にだけアールヌーボー調のテーブルセットが置かれ、クラスの誰かが持ってきたティーセットと紅茶が用意された。椅子に腰掛けると、自然、背筋がシャンとする。文化祭の会場前。クラスメイトや新聞部、写真部の部員がカメラや携帯を向け、何枚も写真を撮っていった。開始十分前、アニメソング担当の生徒がノートパソコンからアニメソングを流し、音量を調節する。現在放送中のアニメの新譜が教室中に拡がる。教室に設置されているスピーカーから文化祭開始のアナウンスが流れる。他のクラスの生徒が早速、数人入ってくる。同時に各クラスから呼び込みのかけ声や、音楽が流れる。桜のクラスは、あくまでささやかに聞こえるようにアニメソングの音量をコントロールした。晶はティーカップに紅茶を注ぐ。桜は、みこから『お嬢様役だから』と釘を刺され、何もしないように言いつけられているので、何もできない。それぞれ、紅茶を一口啜る。客である他のクラスの生徒や、一般の父兄から写真を要求される。これもみこからの言いつけで、『直接的なセクハラ以外は拒否しないで』とのことなので、不快が顔に出ないように応じる。来客は低調な滑り出し。探偵同好会の手伝いは昼休憩の後なので、『それまではこんな調子か』と、桜は一つ溜め息をついた。松竹家の面々もやってきて、桃はゲラゲラ笑い、槇は熱心に桜の写真を撮った。柳と杏はそれを他のテーブルからのんびり眺めていた。桜は少し逃げ出したくなったが、頭の中でみこの『あくまで優雅に』を何度もリフレインさせ、晶に椅子ごと体を寄せ、テーブルの下で手を繋いで平静を装った。

(桜さん、聞こえますか?)

晶のテレパシー。

(まぁね。もう疲れてきちゃった)

(桜さん、なるべくそのままで聞いてください)

(何?)

(『死』について、どう考えますか?)

桜は晶の顔を伺う。無表情で桜を見つめている。その見つめ合った状態を百合好きの女生徒達が何枚も写真を撮ったが、桜の意識は晶の質問の事を考えていた。

(私は……、私の家族もそうだけど、あんまり信仰心とか無いから。あ、でもイベントごとだけはするけどね。クリスマス、大晦日、お正月、みたいな。で、そうねぇ『死』ねぇ。子供の頃、幼稚園くらいの頃は『お星様になる』とかは信じてたかな。でも今は、『お終い』。それだけ。悲しいとか、泣いちゃうとかは周りの人の話だから、やっぱり『死』は、本人にとっては『お終い』。そんだけだと思う。あとは宗教とかにあわせて葬られるだけ、かな)

(そうですか)

(最近さぁ、ずっと考え事してたじゃん?それって、このことでしょ?)

(わかりましたか)

(あんなに露骨にボーっとしてたら、そりゃ『なんか悩んでるんだろうなぁ』って思うし。で、今『死』についての質問でしょ?)

(ずっと。そう、とき様が亡くなってからだと思うのですが、ずっと考えてきました。人の『死』と私の『死』)

桜は考え、言葉を選びながら、

(人間の宗教だって、医療だって、そういうのもあんまり関係ないかも知れないけど、とにかく人間に知能ができてからずっと、人間は『死』について考えてたと思うよ。特別な事じゃないよ)

(そう……ですね。もう、百年程度活動してきました。私はいつ終わるのでしょうか)

(わかんないよ。私だって、今日交通事故に遭って死ぬかも知れないし、百歳のおばあちゃんまで生きるかも知れない。ねぇ、晶の悩みもわかるけど、こんな話題やめよう。暗くなっちゃう)

(すいません)

(ちゃんと文化祭を楽しもうよ。今日の文化祭は今日しか無いんだから)

(そうですね。……桜さん)

(何?)

(一緒にいてください。そちらの方が楽しめると思います)

(いいよ、一緒。あ、でも時々樹里も一緒だよ。沢山の方が楽しいから)

(はい)

桜は晶と手を離し、椅子を定位置に戻す。冷めてしまった紅茶を一口啜る。

「晶、笑顔。ちゃんとして」

優しく言う。

「はい」

晶は薄く笑った。

昼休みになり、やっと桜たちは衣装からも仕事からも解放されたと思ったが、みこが嬉々として近寄ってきて、

「探偵終わったらさぁ、お召し替えするから。これ」

と別の衣装を差し出した。桜用のも晶用のも、体にフィットするタイプのシルクのドレス。桜用は赤。晶用は深い紫。貸衣装屋に行ったときに遊びで着せられて、それで終わりだと思っていたが、借りてきていたらしい。

「これ着るの?ノーブラになれっての?さすがにそれはちょっと」

「ラスト一時間くらいだけだからさぁ。いいじゃん。今度はムーディに」

「ヌーブラくらい無いの?」

「あぁ、さすがに予算がねぇ……」

みこの視線が泳ぐ。桜は嘘だろうと推測した。晶を見る。

「晶、どう?」

「私は構いませんが、桜さんは大丈夫なのですか?」

(精神的に)

晶がテレパシーで付け足す。

「まぁ……、いいですよ。やります。セクハラの監視とかはしっかりやってね」

「はいはい、その辺は任せてよ」

掌をパタパタさせ、軽薄そうに言うみこ。桜は大きく溜め息をついて、

「そんじゃ、探偵の方に行ってきますから」

「は~い」

「行こ、晶」

「はい」

杏の用意した弁当を持って移動。視聴覚室に入る。視聴覚室には花澤がいて、探偵同好会の二年は四人全員、花澤が持ってきたであろう真美の弁当を食べていた。真美は人生相談の集金箱からお金を出し、計算しているところだった。お金の量から、かなり好評だったらしい。

「やぁ、松竹くんに清水くん。お疲れ様。新聞部に君たちの写真を見せてもらったよ。清水くんの男装は素晴らしいね」

「私も見せてもらったわ。二人揃った空間はなかなかに芸術的だったわ。写真部にパネルにしてもらおうかしら」

「勘弁してください」

桜は苦笑いする。

桜と晶も食事を済ませる。『アニソンサロン』で座っているときに、あまりに暇だったのでついついクッキーなどを摘んでしまい、桜は弁当を半分くらい残した。昼休憩が終わり、上川と下城はそれぞれクラスの催し物の手伝いに行ったので、桜たちと交代。桜たちの仕事は受付と列の整理。桜は受付担当。口コミで評判が拡がったのか、そこそこに行列ができていた。道彦の人生相談は一回五分前後。相談者の長々とした相談に対し、道彦はほとんど一言でバッサリ片付けて、あとは真美が補足していた。客の六割は吉ノ園高校の生徒。時々、女子グループが来て、その一人がモジモジと道彦に告白していた。道彦はそれもバッサリと答えて、女生徒が泣き出すと真美がなだめる作業をした。受付をしながらそれを聞いていた桜は、半分呆れて、半分感心した。一般の客の中には父兄の、中年になる大人がいて、真剣に、賭博などで発生した借金について相談する人がいて、桜は色々と心配になった。しばらくして、受付と列整理を晶と交代。基本的に列の整理は暇だったが、途中で迷子が訪れて、一度真美に断り、放送室まで連れて行ったりした。上川と下城が戻ってきて再度交代し、桜たちは自由時間になった。携帯で樹里にメール。合流して三人で学校の展示を見て回った。晶はパソコン部が作った弾幕系シューティングゲームと美術部の作品が気に入ったみたいだった。文芸部とパソコン部とイラスト同好会が協力して作ったパソコン用ノベルゲームのCD‐Rを貰った。晶は校内の生徒の、特に女子に人気があるようで、廊下ですれ違ったときや、メイド喫茶をやっているクラスのメイドたちに写真をせがまれた。晶は戸惑っていたが、桜はそれを微笑ましく眺めていた。そのあと、少し嫉妬していることを自覚した。それでも三人はよく笑った。

「晶、楽しい?」

「はい、ちゃんと楽しんでいます」

晶の言葉と笑顔で、桜の心は満たされた。

自分たちのクラスに戻る。今は『ガンダム』特集の時間だった。桜は興味がないので知らない曲ばかりだった。中央のテーブルには代理の生徒が座っていて、身内同士の会話でケタケタと笑っていて、少し下品だと桜は思った。クラスを監視しているみこと目が合うと、みこの表情がぱっと明るくなって、桜は衣装のことを思い出し、テンションが一気に下がった。運動部の女子更衣室までは距離があるので、女子トイレの個室に入って着替える。一人用のトイレに着付けを手伝う生徒と二人で入るとさすがに狭い。ほぼ全裸にされ、用意された網タイツを履く。コルセットを着け、締め上げられる。ドレスを着て、胸とその周りの肉を整え、背中のファスナーを閉めてもらう。制服とブラジャーと靴下は用意されたスポーツバッグに入れた。個室から出て鏡の前へ。手伝いの生徒が桜の髪にワックスを付け、髪型を整える。教室から持ってきた椅子に座り、メイクを施してもらう。桜は身を任すだけ。最後に貸衣装屋で借りたヒールに履き替える。鏡で自分の状態の最終チェックをする。ドレス越しに乳首が浮き出ていないか心配になった。晶も着替えて個室から出てきた。男装も良かったが、こちらも桜の心にグサッと直撃して見惚れた。

「変では、ないでしょうか?」

晶が自分の状態をキョロキョロと確認する。

「全然。全然、オッケー!」

桜は鼻息を荒くする。晶もメイクをして鏡の前で最終チェック。ヒールに履き替える。

「おー、良いじゃん、良いじゃん。」

確認に来たみこが笑いを含みながら言う。

「じゃ、よろしくね」

教室に向かう。桜たちは高いヒールを履き慣れていないので、普通にしていると猫背になり、膝も曲がってよちよち歩きになってしまって、

「背筋のばして!優雅に!」

みこに指摘される。桜は腹が立ったが指摘はもっともなので歩幅を小さくし、背筋の綺麗さを意識した。晶と並んで静々と歩く。生徒や父兄の視線が集まって、桜は頭がクラクラした。

「晶、ごめん」

晶の腕に自分の腕を回して寄り添って歩く。教室までの道のりが長く感じる。教室に入るとクラスメイトから歓声が上がり、客の視線も桜たちに向いた。やっとのことでテーブルに着く。クラスメイトのウェイトレス役の女子が紅茶を用意する。クラスメイトも客も集まって、ちょっとした撮影会が始まる。みこと仲間の生徒が、近付きすぎたり、触ったりしないように仕切る。桜は笑顔を作ることすら困難だった。

(晶ぁ、辛いよぅ)

(そうですね、厳しいです。動物園の動物たちか博物館の展示物にでもなったとイメージするしかないでしょう。がんばりましょう、あと一時間です)

(晶、手、離さないでね)

(わかりました)

撮影会の勢いが少し収まった頃合いを見計らって、桜の荷物を持っている生徒を呼んで携帯を取り出す。みこが呼んだらしく、写真部と新聞部が再び写真を撮りに来た。一言断り、桃と樹里に『お召し替え。見たければ早くね』と簡単なメールを送る。すぐに樹里が駆けつけて、三人セットの写真を写真部に撮ってもらう。しばらくして桃と槇が来た。柳と杏は先に帰ったと桃は言った。槇はまた桜の写真を撮りまくって、アップを撮ろうとして監視役の生徒に止められ、それを見て桃がゲラゲラと笑ってバカにした。それでも桃は、

「桜ちゃん、顔色悪いよ。平気?」

と優しく声を掛ける。

「桃ちゃんはこんなこと仕事にしてるんだね。すげぇなぁ」

と桃と晶にだけ聞こえるように言う。

「これはちょっと違うんじゃないかな。プロのカメラマンはもっと紳士だよ。女のカメラマンも良い人多いし。私でもこれはしんどいかな」

「あぁ、吐くかも」

「無理しない方が良いよ」

「桜さん、今からでも佐々門さんに言って断りましょうか?私一人でも大丈夫ですから」

晶も心配そうに声を掛ける。

「嘘、嘘。いつもの甘えん坊キャラだよ。平気」

桜はなんとか笑顔を作る。桃は直感でクラスの中からみこをリーダーだと判断し、交渉して、桃を中心に三人で立って、槇に記念写真を撮らせた。

早めに探偵を切り上げたのか、道彦と真美が桜たちに会いにきた。花澤も付いてきている。

「おぉ、二人ともこちらの衣装も似合ってるね」

道彦が大げさに拍手を送る。

「花澤、写真」

と真美は空いているテーブルから椅子を取り、桜と晶の間に入り、花澤に数枚、写真を撮らせた。撮られながら視線を変えず、

「二人とも見世物になるのは辛いでしょう?もうしばらくの辛抱よ。がんばりなさい。でも、今度は我が家で個人的に二人に衣装を着せて撮影会をやりたいわ」

「まぁ、見られるのが醍醐先輩だけなら全然オーケーですよ。あ、友達の樹理も立ち会っていいですか?あの子、結構寂しがり屋だから、除け者にされると後でうるさいんです」

桜も花澤のカメラに向きながら言う。

「その、樹理さん?私はまだ会ったことがなかったわね」

「花澤さんの右奥。そこに立ってるショートカットの。あれが樹理です」

「そう。元気そうな子ね」

「私のことをガチで好きなんですよ。告られたときはビックリしましたけど今は『それもアリかなぁ』なんて」

言って、少し笑う。

「そう。桜は晶が本命だと思っていたわ」

「どうでしょう?五分五分、みたいな。はっきりしないとダメですかね?」

「晶。晶はどう?」

真美は首と視線を少し晶に向けて問う。

「どう答えたら正解なのでしょう。二方とも大事な人です。ただ、樹理さんは『友達』と言える距離感です。桜さんはもっと深い感じです。不公平でしょうか?」

「問題無いのではなくて?人間関係は『量』の問題ではないわ。流動的に変化もするものよ。『大事』だと感じることが大事だと思うわ」

「勉強になります」

「晶は真面目ね」

みこが真美に近づき、『そろそろ自重してください』と耳打ちする。

「あら、長話が過ぎたわね。では、二人とも失礼するわ。あぁ、あと五分ね」

真美は立ち上がり、道彦と花澤を連れて教室を後にした。紅茶を啜って一息つく。クラスメイト達はすでに客に気付かれない範囲で片付けをしている。

「晶、なんだかんだで、今日は楽しかった。晶と一緒で良かった」

「私も楽しかったです」

文化祭終了のアナウンスと『蛍の光』が流れる。まだ、飲み物を飲み終わるまでのんびりしている客がいたが、クラスメイト達は片付けを始める。結局、全部の父兄が帰るまで十五分ほどかかった。片付けを中断し、クラス全員で記念撮影。桜と晶は中央に立たされた。芳村が三脚付きのカメラで数枚撮った後、タイマーで自分も写真に入る。芳村は桜と晶の間に無理やり体をねじ込み、肩を組んだ。クラスメイトから『セクハラ、セクハラ教師』と糾弾されたが、

「うるせぇ」

と言ってゲラゲラ笑った。

桜たちは再びトイレの個室で制服に着替えた。個室から出て、

「やっと解放された」

と独り言を呟くと、

「ありがと。ホント、ありがと。予想してたより盛り上がったよ。あんたらのお陰。お疲れ様ね」

と、みこが優しく言った。

「まぁ、今日の文化祭は今日だけだから、楽しかったよ。こちらこそ、あんがと」

桜は言葉に疲れを含みそうになったが、なんとか明るく返す。

晶も個室から出てくる。

「清水さんもお疲れ。ごめんね、なんか色々失礼しちゃって」

「いえ、色々な体験ができたので、感謝はしますが、非難することは何もありません。楽しかったです。ありがとうございました」

「あとでさぁ、グラウンドでキャンプファイアやるから。私ら先に行ってるね。ウザいかもしれないけど、ホント感謝してるから」

みこは真剣な顔で言ってトイレを後にした。桜たちがクラスに戻って片付けの手伝いをしようとすると、クラスメイト達は口々に『いいから、いいから』と言った。晶と壁にもたれて片付けの様子を見守る。

「よっ、今日のMVP」

樹理も寄ってきた。

「樹理もお疲れ」

「私は大したことないよ。桜っちと晶っちの素敵な姿を堪能できたからね。一緒に回ったのも楽しかったし」

「うん」

「さぁ、キャンプファイア、行こ」

樹理が桜と晶の手を取る。

「オーケー」

グラウンドに出る。吉ノ園高校のキャンプファイアは火を使わない。『ダイオキシン』という言葉が流行してから自治体での規制が厳しくなり、学校の敷地内で物を燃やすことを禁止してある。文化祭のキャンプファイアも同様で、学校が規制してからは美術部と文化祭実行委員会が共同で制作した、炎をイメージした『ねぶた』のようなオブジェを内側からライトアップし、それを中心にダンスを踊るという新しい伝統を作っていた。一年生から三年生まで、片付けの終わった生徒たちが次々に集まる。放送委員はすでに音楽を流していて、踊り始めている生徒もいる。

「桜っち、ごめん。部活の方に呼ばれちった。そっちに行ってくる」

「いいよ。今度、晶と三人でデートしようよ。あ、醍醐先輩にも誘われてたから、そっちもよかったら来てよ」

「わかった。予定決まったらメールして。部活サボッてでも行くから。じゃ」

言って樹理は走っていった。

晶の腕に自分の腕を絡め、炎のオブジェをぼんやり眺める。ダンスを踊る生徒の波が広がっていき、桜と晶も巻き込まれた。晶と手を繋ぎ、音楽に身を任せる。正しいステップなんて気にしない。自然、笑いが込み上げてくる。晶の方を見ると晶も笑顔だった。しばらく踊っていると、晶が桜の手を強く引っ張って、桜たちはダンスの輪から抜けた。人込みから離れたところで、

「どうしたの、晶?」

「話したいことがあります。屋上へ行きましょう」

真剣な顔つきだった。桜は何も聞かず、晶の後について屋上へ向かう。晶の歩調は大きく、桜は小走りになった。屋上。風はほとんど無い。キャンプファイアの光が微かに届く。もう日は落ちていて、満月が出ている。キャンプファイアの光より、月の光の方が強いくらいだった。

「話ってなに?また『死』について?」

「最近、それと同じくらい沢山考えたことです。バカバカしいとか嫌だと思ったら、素直にそう言ってください」

晶の言葉が真剣なので、桜も心に構えを作る。

「大丈夫。マジで聞く」

「桜さん、愛しています」

続きの言葉は無い。晶の前置きを考慮し、桜は返す言葉を探した。真っ直ぐな言葉だった。だからこそ、桜は必死に言葉を探した。視線は外さない。無言の時間が流れる。それは耐えがたいことだったが、安易なセリフは出せない。

「好きだよ、晶」

桜は笑顔で言ったと思った。多分出来ていると。

「私、『愛』はわからない。でもね、晶が好き。樹理も……、あ、他の人のことは言わない。好きです」

「どんな言葉でも答えていただければ良かったのですが、そう答えていただいて……、はい、嬉しいです。凄く」

桜は晶に近寄り顔に手を添え、引き寄せる。晶は抵抗しない。唇を重ねる。長く。顔を離して、

「あぁ……、もう、なんか言いたいけど、言葉が出ない」

「構いません。ありがとうございます」

晶は桜から視線を外し、

「ナナさん!見ているのでしょう?お話があります!」

虚空に向かって叫ぶ。

「何?ナナちゃんに用って」

晶は答えない。

「じゃーん!ナナちゃん、登場。ばーん」

声は意外と近いところから聞こえた。屋上の出入り口の上に人物のシルエットが見える。

「とー!」

伸身ムーンサルトをして着地。

「十点、って背中向けてちゃ格好つかねーな」

振り向きつつ桜たちに近づく。ナナは吉ノ園高校のセーラー服を着ていて、髪はストレートで色は栗色だった。

「文化祭、おもしれーな。てめーらのクラスにもいたんだぜ?気付かなかっただろう?」

言ってこめかみに人差し指を当てる。髪の色がいつものブロンドに変化していく。

「で、話って何だ?愛の告白してチューして、ベタ甘で満足じゃねーのか?」

「ナナさんの言い方を借りれば、今日のミッションの一つが終わったところです。次の段階へ」

「ほー」

ナナは腕を組む。風が緩やかに強さを増した。

「私を破壊してください」

聞いて桜は血の気が引くのを感じた。

「は?晶、何言ってんの?」

「ふむ」

「私は死にたいのです」

淡々と言う。

「じゃー、勝手に死ねよ。この高さから落下すれば、コアも砕けるだろーよ。そこんところは人間と変わんねーよ」

ナナも軽く返す。

「はい。何度も思考でシミュレーションしました。ですが……、どうしてもとき様と桜さんのことが浮かんできて、実行には移せませんでした」

「ちょっとまってよ。『愛してる』って言ってくれたじゃん」

桜は晶の腕を掴んで揺すった。晶は反応しない。

「で、殺されるなら構わねーってか?」

「はい」

「ナナちゃん、やめて。こんなの無視してよ」

「ナナさんになら頼めると思いました」

桜の言葉を遮るように晶は言う。

「いーよ」

ナナは簡単に言った。

「ちょっと!ナナちゃんも晶もいい加減にしてよ!!」

「松竹桜、てめーは黙ってろ」

桜の全身に電流が走る。ナナが制服の袖口から棒状のスタンガンを抜き出し、躊躇無く桜の腹に打ち込んでいた。意識は飛ばないが身動きができなくなった。膝をつく。声も呻きしか出せない。

「うぅ……、うあぁぁっっ!!」

なんとか声を絞り出す。

「じゃー、終わらすのを始める。一発だ」

言うとナナは両腕をブレードに変形させる。

「お願いします」

「あぃあぁぁ……」

必死に呻く桜。

ナナが両腕を、晶のそれぞれの核に向けて突き出す。

バシャア

微動だにしない晶に、液体が降りかかる。

「何の冗談ですか?」

「説明はこれからする」

言ったナナの両腕は無くなっており、液状化したナノマシンが辺りに散らばっていた。

「これからわたくしは崩壊する。制服の胸ポケットに携帯端末が入ってる。わたくしがコアになったら、端末を近づけてくれ」

ナナは徐々に液状化していき、銀色の水たまりを作った。月の光を鈍く反射する。

「清水晶、コアと端末を」

制服越しにくぐもったナナの声が届く。晶は銀色の水たまりの中から二つの球体を取り出し、制服の上に置く。言われた通りに胸ポケットから携帯端末を取り出し、ナナの核の側に置く。

「おー、ニック聞こえるか。状況はお察しの通りだ。あ?うんうん。いやいや。ジョークだよ、ジョーク。日本じゃ体を張ったコメディが流行ってるんだろー?で、わたくしはあとどのくらい持つ?ふむふむ。そんなに時間ね―な。復元はできるのか?まー、このまま処分されてもわたくしは構わねーんだが。ほーほー、もー回収担当が向かってるのかい。さすが、できる男は違うねー。じゃー、よろしくな。おい、清水晶」

「はい。聞いています」

「まず、何度も言っているが、わたくしは監視者だ。そして末端だ。てめーの死の権限なんて持っちゃいねー。そして、仮にわたくしたちアンドロイドの気が狂って人間に反旗を翻さないよーに安全装置が組み込まれている。遠隔捜査で一発あの世逝きシステムだ。でもって、清水晶、てめーはわたくしに比べてとてつもなく貴重な存在だ。だから、わたくしには、てめーは破壊できねー。わかったか?」

「理解しましたが、ナナさんにとってリスクが大きすぎます。なぜこんなことを?」

「だからジョークだよ。ちょっと待ってろ。ニック、度々すまねーな。現在の状況についてデータをくれ」

ナナの携帯端末に文字情報が流れていく。

「あ、晶。どうなってるの?」

やっと復帰した桜が、まだ痺れの残る体を引きずって晶に近づき問う。

「桜さん、大丈夫ですか?ご覧の通り、私は死ねなかったみたいです」

「清水晶に松竹桜。てめーらの話をする。あくまで研究者どもの仮説だがな。小寺ときの設計したアンドロイドと人間の適合者。この関係の一部だが、恋愛感情のようなものが発生するらしー。日本の言葉で言えば『赤い糸』っつーやつだ」

桜も晶も、その言葉を吟味する。晶が、

「では、この感情はとき様の設計した『作り物』ということですか?」

「知らんがな。人間同士だろうが感情は数値化できるか?心は数式で表現できるか?わたくしは知らねーし、興味ねーな。もしかしたら、この『適合』というシステムは小寺とき作であるオリジナルの清水晶、てめーのみのものかもしれねーそーだ。で、清水晶よー、松竹桜を愛して、そんでなんで死を望む?」

「そうだよ、晶。わたしにも教えて」

反応はなく、しばらく無言になる。

「悲しいんです」

晶はポツリと言った。

「ナナさんに回収されて、改良された後、とき様の死の事を反芻しました。思い返しても、ひどく悲しくなりました。改めて涙が出ました。そして、桜さんを愛していることを自覚して、例えば、私が生き続けて桜さんは年を重ね、亡くなることを想像しました。そして私が残される。それ以前にも私は様々な人々に出会い、別れてきました。もう別れは嫌なのです。特に桜さんとの別れは、考えただけでも耐え難いんです。そして、私には『忘却』が組み込まれています。様々な知識も経験も、憶えては忘れていきました。とき様のことも思い出せないことがいくつもあります。それも悲しいです。ずっと未来、とき様のことも桜さんのことも忘れてしまうのではないかと思うと、怖くて仕方ないのです」

晶は涙を流していた。

「辛い。その辛さからの逃避で死を考えました」

「じゃあ」

桜は怒りがこみ上げてきて、体を震わせた。

「じゃあ、残される私はどうなるの!悲しいじゃん!私が悲しいのはいいの?」

「良くありません!良いわけないじゃないですか。でも、どうしていいのかわからないんです。愛している人を失いたくない。でも、悲しませたくもない。死が救いだなんて思ってはいません。でも……、あぁ、とき様、教えてください」

晶は自分の体を抱きしめ、うな垂れた。桜も歯を噛み締めて、ボロボロと涙を流した。

「おい、ニックでもアンナでもいい。聞いての通りだ。この状況をどーにかしろ。あ?ほー、で?あー、そーかい、そーかい。……おい、てめーら。聞け」

桜たちは、ただ泣いている。

「あー、こっちの推測だそーだが、清水晶。てめーを調整して感情が大きくなったことで、人間で言う『思春期』の状態になったらしー。ナイーブでセンチメンタルっつー状態だ。言い方は悪いが、これに関してはウチの組織の失策かも知れねーらしー。タイプ7シリーズでもいくつか事例があるらしーな。だから、てめーが死にてーのは、ある意味で自然な流れだ。でだ、解決法も人間と変わらねー。死ぬ、耐える、逃げる、貫く、まーこんなところだろーよ。松竹桜と共に生き、どちらかが死ぬのを見届けるか、もう別れて全て無かったことにするか。わたくしの助言としてはこんなところだ」

桜は晶に寄り、肩に触れる。晶は体をビクリと震わせた。

「晶、一緒にいて欲しいよ。ずっと。永遠は無いけど、でも、淋しいのは嫌」

「私がいると桜さんは、桜さんの夢である『優れた母親』になれません。他の人に桜さんを取られたくありません。……我が儘なのはわかっています。でも、苦しいです」

屋上に足音が響く。桜が見ると、吉ノ園高校の女生徒だった。手には大きなアタッシュケースを持っている。その人物は桜たちの前で足を止め、アタッシュケースを開ける。

「回収しに来た」

と一言だけ言うと、ナナの核と携帯端末を掴んでアタッシュケースの中に入れた。

「ちょっと待て。一言だけいーたい。てめーら聞いとけ。ナナちゃんの有り難いお言葉だ。全力で苦悩しろ。そして、死ぬまで生きろ。それだけだ」

アタッシュケースが閉じられる。女生徒は無言で屋上から去って行った。桜たちはしばらく無言で過ごした。文化祭のダンスはまだ続いていて、軽快な音楽が微かに届く。

「晶、生きて。一緒にいて。でも、私、母親になる。晶がもし生き続けたら、その子を一緒に育てよう。晶も言ってたじゃん。それで私がおばあちゃんになって、孫ができて、それでも晶が生き続けてたら、その子の成長も見守って欲しい。あぁ、凄い我が儘。晶を苦しめるだけなのに。でも、……死ぬとか言わないで」

桜は弱々しく言った。

「考えます。ナナさんの言った通りに悩み続けます。でも、もし私の核の活動が、桜さんの命より先に終わっても、泣かないでください。なんて、無理な相談かもしれませんが」

桜は晶の前に回り込み、ゆっくり体を抱きしめる。数回、深呼吸。

「晶、家に帰ろう。改めて、私と家族、しよう」

「はい」


数日後、桜は充に告白した。『恋愛はわからない。とりあえず、付き合うだけ』という意思を伝え、その場に立ち会っていた晶とキスをした。

それを見た充は、ただ苦い顔をした。

桜たちの新しい日常がスタートした。

桜と晶は樹里に『お互いに好きあっている』と伝えた。樹里は笑って祝福して、それから一週間学校を休んだ。そのあとはいつもの樹里に戻っていた。

文化祭から二週間ほどして、ナナは桜たちの前に顔を見せた。監視任務は継続するらしいことを言って、すぐにどこかに消えた。


毎晩、桜と晶は抱き合って寝る。桜の不眠症治療は継続中で、いつも通り寝付くまで時間がかかる。晶が休眠状態に入ると、晶の夢が流れ込んでくる。最近は桜の様々なシーンが見え、時々『桜さん、愛しています』と響く。それが聞こえる度に桜は、

(起きたら一番に『愛してる』って言おう)

と心に決めて、眠りに落ちる。


                                  完

『アンドロイドの彼女は私の夢を見るの』をお読みいただき、ありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ