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第1章 厄病神と裸足の幽霊-2



 新宿西口にある雑居ビルの三階に名倉探偵事務所はあった。

「んじゃ、あんたはそのバック放り投げて逃げだしてきたんだ」

 ソファーの上で腹を抱えて笑いこけるショートヘアの女性。大口を開けて笑いこけていな

ければ間違いなく美人の類に属するだろう。だぼだぼのロングTシャツを着ているが、その

大きな胸は隠しきれなかった。

 彼女の名は、名倉祥子(なくらしょうこ)

名倉探偵事務所の女所長であり、勝弥の中学時代での空手部のセンパイにあたる。外見に

似合わず、『空手部に名倉祥子あり』とまで言われた猛者である。だが、今の勝弥にとっては

『困った時の名倉祥子頼み』と名言するくらい、崇拝している人物だった。

「笑い事じゃなぁわ、センパイ」

 ずぶぬれのまま戸口に立ち尽くす勝弥は、笑いこけている祥子を睨んだ。

「アパートに戻れば家賃滞納で追い出されるし。たったの一ヵ月じゃんか。ちょっとぐらい

大目に見てくれたっていいじゃろうに。しかも、ここに来る途中に犬には追いかけられるし、

急に大雨は降りだすしで。踏んだり蹴ったりだ」

「で、どうしてここに来ようとしたわけ?」

 ピタっと笑うのをやめて、祥子は冷めた目をこちらに向けてくる。

「どうしてって。オレ、この東京で頼れる人ったら名倉センパイしかおらんのじゃけー」

「頼る人間違ってるんじゃない」

 窓の外がピカっと光った。

 そして、数秒後。

 ドーンという轟音が響いた。同時に室内の明かりが消えた。どうやら近くに雷が落ちたら

しい。

「東、お前は疫病神か?」

 薄闇の中で表情は見えないが、その声はかなり恨めしそうだった。

「そんな言い方なかろー。オレを東京に誘ったのはセンパイなのに」

「誘った覚えはない」

「中学の時に言ったじゃろ。『あたしは東京に行って探偵事務所開くけー、困ったことがあっ

たらいつでもおいで』って」

 返事が返ってこなかった。

 しかし、祥子がいるはずの方向から何やら殺意に満ちた気配だけがひしひしと伝わってく

る。

「そりゃあ、依頼主としてってことじゃろうがーっ!」

 祥子の怒声の直後、物凄い殺気とともに勝弥の右側で何かが空を切った。

 鈍い音が床に響く。

 同時に、室内の明かりが戻る。

 勝弥は恐る恐る視線を右に向けた。

 パンプスの踵を床にめり込ませ、殺意の目をこちらに向ける祥子がいた。

 祥子お得意のカカト落としが炸裂したのは言うまでもない。勝弥はそれを見て、ごくりと

唾を飲みこんだ。

「当たったらどーするんの!」

「当たるようにやったんじゃろうが!」

 祥子の殺意のこもった瞳に、勝弥は言い掛けた言葉を飲み込んだ。尾道弁をしゃっべてい

るということはマジギレ寸前の合図だ。

 昔、祥子にたてついて半殺しの目に合った空手部部員がいた。今の祥子の瞳はその時と同

じだった。


 これさえなければいい女なのにのー。こんなじゃけ、カレシもできんのんよ。


 勝弥は胸中で毒づく。

「あたしがこの事務所出すために、どんだけ苦労したかわかってんの? 人に頼らんと生き

ていけんのんだったらさっさと尾道に帰りんさいや!」

 そこまで言われては勝弥も黙ってはいられない。

「じゃあ、オレも言わせてもらうけど。オレがせっせせっせとバイトに励んどる時、手伝っ

てくれって無理矢理引っ張ってたのはどこのどちらさんじゃたっけ? おかげでバイトはク

ビにばっかなるし、当然貯金は底をついてくるし。センパイに責任がないとは言わせんけー

の」

「しょうがないでしょう。ここは家賃とかも高いから人を雇ってる余裕なんかないのよ」

 祥子はバツが悪そうに答えた。口調もいつのまにか標準語に戻っている。冷静さを取り戻

した証拠だった。

「だったらもっと安いとこに変わればええじゃろうが」

「あのね、安ければいいってもんじゃないの。家賃の安い場所なんかに事務所置いたって目

立たないから客も来やしないんだよ」

「そっか」

 思わず納得する。責任のなすり合いは忘れていた。

「だいたい東は何しに東京へ来たわけ? 高校を中退までして」

「アクションスターになるためじゃ!」

 勝弥はきっぱり言い切った。




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