吸血鬼は獲物への愛を夢見るか
導入部でござる。
吸血鬼と言われたら何を思い浮かべるか。そういわれたら、多くの人はドラキュラ公や串刺し公の名前で知られているワラキアの領主を思い浮かべるだろう。だが、当時を知る吸血鬼はそれを聞いて噴き出した。曰く、アレは我々とは正反対である、と。
そもそもワラキア公が吸血鬼として認識されるようになったのは、とある小説家が串刺し公の記述を基に創作した小説が原因である。その後、その小説が吸血鬼モノの定番となり、吸血鬼としてのドラキュラ公が出来上がったというわけだ。まあ、その以前から吸血鬼ものの小説は数多くあるのだが、誰にでも聞き覚えがあると言えばドラキュラであろう。
しかし最近、ドラキュラ公はルーマニア独立の英雄として再評価されているようである。これは忌々しき事態である。再評価されるということは吸血鬼に対する幻想がなくなるということである。それがどう問題であるかというと、吸血鬼の個体数に影響するのだ。
この世界は人間が支配している。そんなことは言うまでもないのだが、どうもここ最近――とはいうものの、吸血鬼にとっての最近は人にとってのそれと比類できないほど長期だが――世界は人間の言いなりだ。どのくらい最近かというと、吸血鬼が生まれるころからだろうか。正確な時間は分からない。なにせ、相手は世界だ。人間が大地を支配しきる前から人間の意思に合わせている。
詰まる所、世界が予想した未来がつい最近になって実現したというわけだ。それまでは酷かった。血を吸うのにすら世界の許可が要る。そんなことをするぐらいなら事が済んだあと生み出せばいいのに、取らぬ狸の皮算用もいいところである。
まあ、結果として大地は人間が支配することとなり、その時のために用意されていたものが世界の手から解き放たれたのである。その一つが我々吸血鬼というわけだ。
そう、何を隠そう僕は吸血鬼だ。それもかなり昔に生まれた。だから世界の頑固さも知っているし、吸血鬼のやっかいさや面倒くささも知っている。いつか世界に仕返しをしたいと思っているがなかなかできない。人間を皆殺しにしようとしたってそもそも僕たちを構成する要素は人間がいなければ成り立たない。しかも初期のメンバーだからか世界からの連絡手段も何故かつながっている。連絡手段とはいうものの、実際世界がその気になればそれを媒体として僕の体を拘束するのは容易だろう。
少々話がずれた、戻そう。
何故ワラキア公の再評価が個体数に影響するかというと、先述したように吸血鬼は世界が用意したものだ。そして世界は今のところ人間のいいなりだ。そこからも分かると思うが、吸血鬼が存在するのは単に人間がそう望むからである。
いや、望むというのは適切ではない。たとえば、考えたことはないか。自分が吸血鬼で、獲物の女の子に恋をする。別に吸血鬼でなくてもいい、スーパーマンだとか、のび太君であるとか、そういったものに憧れたことは?人間、誰しもそういう事を妄想するものだ。
つまり、我々を構成する者は人々の幻想である。特に後発組はそれが顕著だ。僕のような初期メンバーはそれほど有名でない頃に生まれたからかどうかは知らないが、人間の幻想によって構成されている部分が少ない。しかし、とある小説家によってドラキュラ公が描かれそれが近年の吸血鬼像に影響を及ぼすようになった後に生まれた吸血鬼はそういう訳にもいかない。というよりかは、現在居る吸血鬼の大半はそれ以降に生まれた者だ。であるからして、吸血鬼に対する幻想が少なくなるということは、大半の吸血鬼を構成する要素が少なくなることと同意なのである。さすがに即死するわけではないが、死んだとしても次の吸血鬼が生まれなくなり、個体数が減るのである。
さてさて、こんな無駄話を長々としてしまったが、済まないことにこの話はまだまだ続く。そもそもだ、こう長く生きていると記憶するのが面倒になってきてね、それの代替としてこうやって録音したりしているのだ。
では、永き人生の一幕を。
ここから先は、まだ年若い吸血鬼との出会いを記録してある。君がそれを見てどう思うかは知らないが、できれば退屈しないでほしいものだ。
短すぎぃ