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「私に譲ってくださらない?」クレクレ令嬢に全部あげたら、自滅しました

作者: こはく
掲載日:2026/04/13

 私は伯爵令嬢で、特待生だった。


 そう言うと、聞こえだけは悪くない。

 由緒ある家の娘で、成績優秀。学院の模範生。将来有望。


 けれど、実際のところはもっと切実で、もっと地味だ。


 うちは伯爵家だが、懐事情はまったく華やかではない。

 古くから名の知られた家ではあるものの、祖父の代で傾いた領地経営は、父が立て直しに奔走している今も、まだ余裕があるとは言えなかった。


 母は夜会のたびに古いドレスの飾りを替えて使い回し、私はこの学院へ通うために成績で学費の大半を免除されている。


 しかも途中で辞めれば、その免除分の返還を求められる。

 そんな額、とても家では払えない。


 だから、途中で辞めるわけにはいかなかった。


 卒業して、できれば王都の書庫か図書館に勤めたい。

 本に囲まれて働きながら、自分の物語を書く。


 ひどく堅実で、ひどく地味な夢だと思う。

 けれど、私にはそれでよかった。


 そのために必要なのは、たったひとつ。


 卒業まで、何事もなく過ごすこと。


 目立たないこと。

 逆らわないこと。

 余計なことを言わないこと。

 問題を起こさないこと。


 無難に、静かに、穏便に。


 そうすれば、卒業後の推薦がもらえる。

 書庫に入れれば、仕事の合間や隙間時間にも、もっと多くの本に触れられる。

 もっと多くの物語が書ける。


 そうして何事もなく過ごしているうちに、気づけば三年生になっていた。

 残りはもう一年だった。

 

 だから私は、多少の理不尽くらい、笑ってやり過ごすつもりだった。


 ――フローラ・アルベールに目をつけられる、その日までは。


     ◇


 フローラは学院長の娘で、侯爵令嬢だった。


 花の名を持つのがいかにも似合う娘だった。

 蜂蜜色の髪、やわらかい睫毛、少し困ったように笑う唇。声まで上品で、誰にでもやさしい。教師にも下級生にも、身分の低い相手にも分け隔てなく接する。


 だから、入学したばかりの生徒や、学院の外から来た人間は、だいたい一度は騙される。


 なんて感じのいい人なのだろう、と。


 けれど、この学院に長くいる者は知っていた。


 フローラ・アルベールは、花みたいに可憐なだけの娘ではない。

 あれに目をつけられたら厄介だと、皆もう知っている。


 彼女が「素敵ね」と言えば、本当に褒めてくれているように聞こえる。

 「羨ましいわ」と目を輝かせれば、純粋に感心しているだけに見える。

 「少しだけ、いいかしら」と微笑めば、断る方が冷たい人間みたいになる。


 けれど、その少しだけは、ほとんど返ってこない。


 フローラが欲しがるのは、高価なものとは限らなかった。

 むしろ、その人が大事にしているものの方を、よく見つけた。


 祖母の形見のブローチ。

 誕生日にもらった髪飾り。

 刺繍のために取り寄せた糸や布。

 贈り物用に包んでいた焼き菓子。

 何日もかけて写した講義の控え帳。


 そういうものほど、彼女は目ざとい。


 そして、奪ったあとで決まってこう言うのだ。


 ――そんなに大事だったの?


 悪意のない顔で。

 本当に不思議そうに。

 でも、本当はきっとわかっている。

 わかった上で、その顔をしている。


 それがいちばん、たちが悪かった。


 そして、逆らえない理由なら、いくらでもあった。


 一年前、フローラに講義ノートを貸してほしいと言われ、それを断った女生徒がいた。   

 真面目で、成績も悪くなかった子だ。


 その翌週には、他人の私物を乱暴に扱っただの、教師に口答えしただの、妙な噂が流れ始めた。本人は泣いて否定していたのに、月の終わりには「本人の都合による退学」になっていた。


 別の子は、刺繍課題に使うために取り寄せた高価な糸を貸すのを断った。すると今度は提出作品の保管中に不備が見つかっただの、再提出の期限に遅れただのと言われ、成績評価を大きく落とされた。上位成績者向けの推薦候補からも外れ、結局そのまま学院を去った。


 みんな、表向きは別の理由で学院を去っていく。

 けれど、知らない者はいなかった。


 フローラに逆らえば、面倒になる。

 何かあっても、学院長である父が娘の望みを通してしまうのだから、なおさらだ。


 だから私は、できるだけ関わらないようにしていた。


 見かけたら道を変える。

 できるだけ視界に入らないように動く。

 必要以上に目を合わせない。

 話しかけられても、当たり障りなく受け流す。


 慎重に。

 穏便に。

 卒業までのあと一年、何事もなく過ぎればいいと、自分に言い聞かせて。


 その日の昼休みも、本来なら何事もなく過ぎるはずだった。


     ◇


 中庭の奥にある、小さな温室の脇のベンチは、昼休みでも人が少ない。

 私はそこで、家から持ってきた本を読んでいた。


 好きな作家の随筆集だ。

 もう絶版になっている少し古い版で、紙の手触りも、装丁の色も、開いた時の匂いも好きだった。


 気持ちが沈んだ日だけ、私はその本を持ってくる。

 数ページ読むだけで、息がしやすくなる。

 子どもの頃、眠れない夜に何度も開き、そのたびに救われてきた大切な本だからだ。

 書庫や図書館で働きたいと思ったのも、物語を書きたいと思ったのも、この本がきっかけだった。


 その本を、横から白い指がひょいと持ち上げた。


「まあ、素敵な本」


 聞き慣れた、やわらかな声。


 顔を上げると、フローラが立っていた。


 嫌な予感がした。


 彼女は私のしおりを抜き、ぞんざいにページをめくり、角を雑に折り曲げた。


 言ってはいけない、とわかっていた。


 何度も見てきた。

 あの人に逆らった人間が、どうなるのか。


 それでも――


「その本は、そんなふうに扱うものではありません」


 反射的に、言葉が出た。


 あ、と思った時にはもう遅い。


 フローラの手が止まる。

 ゆっくりと、私を見た。


「……そんなに大切な本なのね」


 やわらかな声。

 責める響きはない。むしろ、こちらがきついことを言ったみたいに聞こえる。


 しまった。


 普段の私なら、絶対に言わない。

 けれど、その本だけはだめだった。

 あの一冊だけは、どうしても。


「ごめんなさい。知らなくて」


 フローラはすぐに微笑んだ。


「でも、そんなに大切な本なら、なおさら気になってしまうわ」

「少しだけ、見せてくださらない?」


 嫌な流れだと思った時には、もう遅い。


 少し離れた通路で話していた令嬢たちがこちらを見る。


「まあ、どうなさったの?」

「フローラ様?」


 フローラは困ったように本を抱える。


「わたくし、ただ少し拝見したかっただけなの」

「でも、ヴィオラ様を困らせてしまったみたいで……」


 完璧だ。


「少しくらい、よろしいのではなくて?」

「そんなに大事な本でしたの?」

「フローラ様がご覧になりたいとおっしゃってるだけでしょう?」


 善意の圧力が、じわりとこちらへ寄ってくる。


 ここで拒めば、この後が面倒になる。

 最悪、何かしら尾を引く。


 卒業までの辛抱。

 残り、たった一年。


 私は息を整え、口角だけを持ち上げた。


「……少しだけでしたら」


「嬉しい」


「少しお借りしてもよろしくて?」

「あとできちんとお返しするわ」


 私は頷くしかなかった。


 フローラは本を抱えたまま微笑んだ。

 その笑顔を見た瞬間、はっきりわかった。


 ああ。

 目をつけられた。


 この前、学院を去っていったあの子たちと同じだ。

 今度は私なのだと、すぐにわかった。


 あれもちょうだい。

 これも欲しい。

 そう言いながら、少しずつ私の大切なものを剥いでいく女に。


     ◇


 次の「ちょうだい」は、翌日に来た。


「そのペン、書きやすそうね。少し貸してくださる?」


 中庭に面した談話室の端で、私は課題の清書をしていた。

 使っていたのは、長年使ってきた万年筆。父が古道具屋で見つけてくれた、古い黒軸の一本だ。派手さはないけれど、手に馴染んでいる。これで書くと、不思議と頭の中の文章がすっと流れてくる。


 フローラはそれを覗き込み、うっとりしたように言った。


「素敵。長く使っていらっしゃるの?」


「……ええ」


「わかるわ。そういうものって、手にしっくりくるのよね」

「少しだけ貸してくださらない?」

「書き心地を試してみたくて。ほんの少しだけでいいの」


 ほんの少しで済んだものなんて、一度もない。


 けれど私は、笑って差し出した。


「……少しだけ、でしたら」


「ありがとう、ヴィオラ様」

「やっぱり、あなたの持っているものって素敵なものばかりね」


 花のような声だった。


 でも私は知っている。

 あの女が褒める時、それはたいてい、欲しい時だ。


 三日後、返ってきた万年筆のペン先は微妙に潰れていた。


「ごめんなさい。少し力を入れたら、変になってしまって」

「でも古かったのでしょう?」


 そうね。

 あなたに貸す前は、ちゃんと書けたけれど。


 もちろん、口には出さない。


 あと一年。

 あと一年だけ、何事もなくやり過ごせばいいのだと、自分に言い聞かせる。


 その次に狙われたのは、特別閲覧室の利用許可証だった。


 成績上位者だけに与えられる、朝の一時間の閲覧権。

 私にとっては、夢へ近づくための小さな鍵だ。一般書架にはない資料も読める。物語を書くための古い伝承集も、地誌も、そこでなら読める。


「一度だけ貸していただけない? どんなところか見てみたいの」



「でも、私の名前が入っていますし……」


 思わずそう言うと、フローラは小さく笑った。


「大丈夫よ」

「私が使うのだもの、誰も何も言わないわ」


「そうよ、 少しくらい、いいじゃない」

「フローラ様が見たいとおっしゃるのよ?」


 周囲はすぐにそう言った。


 私はまた笑った。


「……一度だけ、です」


 三日後。


「ごめんなさい、なくしてしまったの」


 軽い声だった。


「あなたは再発行してもらって?」

「私はやっぱり、お父様にお願いして別で入ることにするわ」


 結局そうなさるのなら、なおさら最初から私のものを使う必要はなかったでしょうに、と思う。


 けれど再発行には理由書が要る。担当教員への説明も、再審査もある。しばらくは入れない。


 つまり、なくなったのは紙切れではない。

 私の時間だ。


「そんなに困るの?」

「少し、手続きをするだけでしょう?」


 ええ、そうね。

 あなたにとっては、紙を一枚なくした程度のことなのでしょうね。


 図書室の窓辺の席も奪われた。


 昼休みにだけ使うその場所は、私にとって小さな避難所だった。

 窓から入る光がちょうどよく、次の授業まで本を読むにも、頭の中を静かにするにも向いていた。


 最初は、隣に座らせてほしいと言った。


「ここ、日当たりがいいのね。少しだけご一緒してもいいかしら?」


 断れるはずもなく、私は小さく頷いた。

――その時点で、もうこの席は終わりだったのだと思う。


次は、当然の顔で私の隣に自分のハンカチを置いた。


「今日はここがいいの。あなた、少し詰めてくださる?」


 そして三度目には、何も言わずに、私が来る前からそこに座っていた。


「そこ、私の席です」


「あら、決まっている席なの?」


 お気に入りの場所は、そうして少しずつ削られていった。


 フローラは毎日図書室に来るわけではない。

 それでも私は、窓辺を避けて、日の当たらない図書室の奥へ引っ込むようになった。


 最初に貸したあの随筆集は、なかなか返ってこなかった。

 思い切って尋ねると、フローラは平然と言った。


「紅茶をこぼしてしまったの」

「しみが広がって、とても人にお返しできる状態ではなくなってしまって」

「汚れた本を取っておいても仕方ないから、捨ててしまったわ」

「もし必要でしたら、代金をお渡ししてもよろしくてよ?」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。


 捨てた。

 あの本を。

 気持ちが沈んだ日にだけ持ってきて、子どもの頃から何度も開いて、そのたびに救われてきた本を。

 今の夢のきっかけになった本を。


 代金の問題ではない。

 そう言いたかったのに、喉がきつく塞がって、声にならなかった。


 胸の奥で、何か大事なものが、音もなく、確かに折れた気がした。


 それでも私は、何も言えなかった。


 そうこうしているうちに、秋も深まり、日陰は少し肌寒くなってきた。


 日の当たらない図書室の奥は、静かなぶん冷えた。

 だから昼休みに本を読む時は、毛糸のひざ掛けを膝にかけるのが当たり前になっていた。


 ある寒い日、フローラがそれを見て言った。


「今日はなんだか冷えてしまって」

「少しだけ、お借りしてもいいかしら?」


 少しだけ。

 その言葉を、私はもう信じていない。

 それでも周囲の目があれば断れない。


 あと数ヶ月。

 あと数ヶ月で卒業なのだと、自分に言い聞かせて、私はまた頷いた。


 けれど、それも返ってこなかった。


 取り返すように聞くと、フローラは明るく言った。


「あの毛糸のひざ掛け、少し野暮ったかったでしょう?」

「だから、一度ほどいて、もっと役に立つものにしてもらったの」

「私のメイドが鍋敷きにしてくれたのよ」

「思ったよりたくさんできたの。よろしければ、あなたにもお裾分けするわ」


 寒さとは違う鳥肌が立った。


 随筆をやられて以来、私は大事なものは持ってこないようにしていた。

 だからそのひざ掛けだって、特別なものではなかった。

 ただ、寒さをしのぐための日用品に過ぎない。


 ――それなのに。


 ほどいて、編み直して、鍋敷きにする。


 そこまでして、人の持ち物を作り替えるのかと、そちらの方にぞっとした。


 けれど、一番ひどかったのは、ノートだった。


 それは授業用ではない。

 誰にも見せていない、物語のノートだ。


 普段は持ち歩かない。

 けれどその日は、どうしても続きを書きたくて、朝、迷った末に鞄へ入れてきてしまった。


 図書室の奥で、人目を避けて、ときどきこっそり書いていたものだった。

 誰にも見つからないようにしてきたのに。


 長年書きためているノートだ。

 今ちょうど書いている一編も、その中にあった


 あと少し、最後の数頁を書き終えれば完成するところまで来ていた。

夜ごと少しずつ進めてきた、誰にも言っていない夢が、そこに詰まっている。


 それにしても、こういう時に限って妙に鼻が利くのだ、あの女は。


「それ、なに?」


 声をかけられて、私は反射的にノートを閉じた

「課題の下書きです」


「見せて」


「嫌です」


 初めて、はっきり断った。


 一瞬、空気が止まる。


 けれどフローラは怒らなかった。

 ただ、目を細めて、私の手元を見ただけだった。


「そう」


 それだけ言って、にこりと笑う。


 その笑い方が、かえって嫌だった。


 私はノートを抱えるようにして立ち上がった。

 その時だった。


「あら、そんなに隠されると気になってしまうわ」


 するりと伸びてきた手が、私の手からノートを抜き取った。


「返して!」


 思わず大きな声が出た。


 フローラは私のノートをひょいと持ち上げ、口元だけで笑った。


「図書室ではお静かに、ヴィオラ様」


 くすくす笑う声が、取り巻きの令嬢たちから漏れる。

 いつの間にか、彼女たちがゆるく壁のようにこちらを囲んでいた。

 ここで無理に取り返そうとすればするほど、騒ぎを起こしたのは私という形になる。


「少し見るだけよ」


 そう言って、フローラはそのまま去っていった。


 返ってきたのは、二日後だった。


 昼休み、フローラがにこやかに私の前へやって来た。


「ヴィオラ様、お借りしていたものをお返しいたしますわ」


 丁寧に差し出されたノートを見た瞬間、嫌な予感がした。


 開く。

 あと少しで書き終わるはずだった最後の数頁には、細い赤字で見覚えのない言葉がびっしりと書き込まれていた。


「これ……」


 喉がひくりと鳴る。


 フローラは悪びれもせず言った。


「だって、そのお話、最後に恋人が死ぬのでしょう?」

「そんなの、あまりにもかわいそうだわ」

「こんな暗い物語、誰も読みたがらないもの」


 私は言葉を失った。


 フローラは、私の顔色を見ながら続けた。


「だから直しておいたの」

「誰も死なないのよ」

「王子様とお姫様は、最後に手を取り合って、キスをして、それから幸せに暮らすの」

「もう絶対、それがいいんだから」


 頭の奥が、ぐらりと熱くなった。


 そこは、私の領域だった。


 誰にも見せていない。

 誰にも触れさせたことのない。

 いびつでも、未熟でも、それでも私が私のために書いてきた場所だった。


 そこへ土足で入ってきて、勝手に形を変えた。


 三年間、何事もなく卒業すること。

奨学金も、卒業後の推薦も、将来も守るために、私はずっと食いしばってきたのに。


 それなのに、この女は。

 私の物語にまで手を入れた。


 奪うだけじゃない。

 人の大切なものを、自分の好きな形に作り替えないと気が済まない。


 たしかに、暴力はない。

 あからさまないじめも、暴言もない。


 だから何だというのだ。

 それとは別のやり方で、上品で可憐な顔のまま、人の大事なものだけを選んで奪うのも、十分たちが悪い。


 ああ、と私は思った。


 この女は、その人の大事なものだけを欲しがる女だ。

 そして、悲しむ顔を見るのが好きなだけだ。


 なら、その先に現れた男は。


     ◇


 婚約の話が持ち上がったのは、ちょうどその頃だった。


 相手は、ラクレシアン・ヴァレント。

 侯爵家の嫡男で、私よりいくつか年上だった。


 父の仕事のつながりで、最近ご縁のできた先から縁談が持ち込まれたのだと聞いた時は、正直、場違いではないかと思った。


 相手は侯爵家の嫡男で、こちらがまだ深く知らないからといって、無碍にできる話でもない。

 けれど先方は、まずは顔合わせだけでもと穏やかで、押しつけがましさもなかった。


 実際に会ってみると、ラクレシアンは驚くほど感じがよく見えた。


 見目はいい。

 笑顔はやわらかく、声も落ち着いている。

 仕事のついでだと言って、ときどき学園の門まで迎えに来て、そのまま街へ連れ出してくれる。

 自然に歩幅を合わせ、人混みではさりげなく人をよけてくれる。

 話題の振り方も上手く、こちらが黙っても気まずくならない。


 しかも、本の話をするとよく知っていた。

 流行の恋愛小説だけではなく、少し古い随筆や紀行文まで読んでいるらしく、私が好きな作家の名を出した時も、ちゃんと話が続いた。


 まだ正式な婚約ではない。

 ただ、家同士が話を進める前提で何度か顔合わせをしている、そういう段階だった。


 だからこそ、学院の令嬢たちがざわつくのもわかった。

 誰が見ても、願ってもない縁談に見えたのだろう。


 そして、そういうものをフローラが見逃すはずもなかった。


 最初は、たまたま門の前で出くわしたふりをした。


「まあ、ヴィオラ様」

「今からお出かけですの?」


 次は、途中まで一緒に歩くのが当然みたいな顔をした。


「偶然ですわね」

「私もそちらへ行くところでしたの」


 その次には、気づけば私よりフローラの方がよく話していた。


 私は横で微笑みながら相槌を打つ。

 フローラは楽しそうに笑う。

 ラクレシアンも嫌な顔ひとつしない。


 ただ、時おり彼の視線がフローラに長く留まるのがわかった。


 三人で歩いていたはずなのに、いつの間にか並ぶのは二人になっていた。

 私はその後ろを歩いた。


 読書の話をしていても、途中からフローラが受ける。

 彼はそれに応じて話を広げる。

 話題はそのまま二人の間で続いた。

 私は黙ってそれを聞いていた。


 店に入って席につくと、自然に二人が向かい合う形になった。

 私は少し外れた位置に座った。


 注文をしても、会話は途切れない。

 カップが置かれるのも、話しかけられるのも、先にフローラの方だった。


 帰り道も同じだった。

 三人で出てきたはずなのに、並んで歩くのはやはり二人だった。

  

 私は二人のあいだで、いてもいなくてもいい存在になった。


 そのうちフローラは、私の前でわざとらしいため息をつくようになった。


「あの方、本当に素敵な方でいらっしゃいますわね」


 冗談のような口調だった。

 けれど、冗談で済まない相手だ。


「もしよろしければ」

「私に譲ってくださらない?」


 一瞬だけ、フローラの目つきが変わった。

 笑ってはいたけれど、断らせない圧だけがそこにあった。


 侯爵令嬢で、学院長の娘。

 私は伯爵令嬢にすぎない。

 しかも特待生で、家計も苦しい。

 こちらは、まだ正式な婚約ではない。


 彼女が本気で欲しがり、親が動けば、こちらの話が白紙になる可能性は十分にあった。


 だから私は、微笑んだまま答えた。


「わたくしには、もったいないほど素敵な方ですもの」

「残念ながら、私のような者では到底つり合いませんわ」

「ですから、もしフローラ様がお望みでしたら、どうぞ」


 フローラは一瞬だけ目を見開いた。

 まさか、こんなにあっさり引くとは思わなかったのだろう。


 けれど次の瞬間には、唇が嬉しそうにほどけた。


「まあ、本当に?」


「ええ」


 私は微笑んだ。


「フローラ様にこそ、ぴったりのお方だと思いましたの」


 周囲が、ひそひそと囁く。

 ヴィオラが気の毒だ、と。

 こんなに素敵な相手を横から奪われて、かわいそうだと。

 哀れだ、みじめだとでも言いたげな目が、こちらへ向く。


 それでよかった。


     ◇


 フローラに目をつけられてから、やることがひとつ増えていた。

 帰宅後に机へ向かい、その日に見たことと聞いたことを、感情ではなく順番に書き留めることだ。


 それから、以前より外出することも増えた。

 もう学院にはいない子たちを訪ねるために。


 ほどなくして、こちらの縁談は白紙になり、代わりにフローラとの婚約があっという間に整った。

 娘のことになると、本当に動きが早いのだと、その時ばかりは妙に感心した。


     ◇


 卒業前、久しぶりユリウスに会った。


 彼は、父の取引先の息子で、昔から家の集まりなどでしばしば顔を合わせてきた、少し年上の顔なじみだ。

 妙に気楽で、気心も知れている。

 今は地方と王都を行き来しながら、貴族や学術機関の会計や資金の流れを洗う仕事に関わっていて、このところ顔を合わせるのは久しぶりだった。


「学院長の娘が好き放題してるって聞いたけど」


 ユリウスは茶器を置いて、眉をひそめた。


「大丈夫なのか」


「大丈夫ではありません」


「よく平気な顔で言えるな」


「平気ではありません」


 私は紅茶を一口飲んだ。


「でも、もうすぐ卒業ですし」

「フローラ様はフローラ様で、とても素敵なご縁にも恵まれましたし」


 ユリウスはしばらく黙ってから、小さく息を吐いた。


「……嫌な予感しかしない言い方だな」


 私は微笑んだだけだった。


 やがて私は、テーブルの下で彼にそっと薄い封筒を渡した。

 何も言わない。

 彼も何も聞かない。


 けれど、それで十分だった。


     ◇


 卒業の春、匿名で人事省監察局へ届けられた意見陳述書と添付資料をきっかけに、学院では人事と資金の不正に本格的な調査が入った。


 学院長は職を解かれ、関係していた幹部たちも次々に更迭された。

 国からの補助金も、学院の運営費も、必要な場所にはろくに回っていなかったことが、その後の調査で次々に明らかになったらしい。

 娘の我がままで人を追い出すだけでは飽き足らず、学院そのものを私物のように扱っていた父親には、ずいぶん似合いの末路だったと思う。


 やめさせられた子たちの扱いも、少しずつ見直されていくらしい。

 遅すぎる、と言われればその通りだ。

 それでも、何もなかったことにされるよりはずっといい。


 そして、不正が表に出る前に、フローラは卒業後すぐに結婚することになっていた。


 家は傾きかけていたのに、婚約だけは破棄されなかった。

 先方の両親は難色を示したらしいが、ラクレシアン本人がどうしても彼女でなければと押し切ったのだという。


 だから周囲はむしろ、フローラは運がいいのだと思ったのだろう。

 家が傾いてもなお選ばれたのだから、よほど愛されているのだと。


 結局、ああいう人は最後まで綺麗な顔をしたまま、うまくいくのだと。


 けれど、そうではなかった。


     ◇


 学院卒業後、フローラは候爵家の屋敷で新しい生活を始めていた。

 けれど、待っていたのは幸福な新婚生活などではなかった。


 住み始めてほどなく、フローラはその屋敷に漂う空気の異様さに気づいた。


 その家では、皆が人のものを欲しがった。

それは誰かひとりの意地汚さではなく、家そのものに染みついた卑しさだった。


 最初に来たのは義姉だった。


「その耳飾り、ちょうだい」

「あなたより私の方が似合うもの」


 お気に入りの耳飾りを、まるで冗談みたいな顔で指さした。


 次は義母だった。


「あなたの部屋の茶器、上質ですって?」

「ひと揃い、こちらへ回してちょうだい」


 嫁入りに持たされた茶器まで、当然のように欲しがった。


 使用人までが、遠慮がちに、けれど断られないと知っている顔で寄ってくる。


「奥様のお使いになった香油を、少し分けていただけませんか」

「皆が欲しがっておりまして」


 その中でも、義父はひときわ露骨だった。

「落ちぶれかけた家から来た娘にしては、ずいぶん良いものを持っているじゃないか」

「どうせ、お前ひとりでは持て余すだろう」


 そう言って、当然のように手を差し出してくる。


 最初は、断れなかった。

 家の空気も、立場も、すべてがそれを許さなかった。


 ひとつ差し出せば、それで終わると思っていた。


 だが、違った。


 一度でも渡せば、それは「与えていいもの」として扱われる。

 次は当たり前のように求められ、断れば不機嫌を買う。


 しかもフローラには、強く断れない事情があった。

 家はすでに傾き、学院も父も失脚し、婚約を解消されてもおかしくない立場だったのに、それでも結婚を進めてくれたのがこの家なのだと、両親に何度も言い聞かされていたからだ。


 朝、目を覚ませば何かを欲しがられ、

 昼には勝手に持ち出され、

 夜には「あれはもうこちらにいただいてよかったのよね?」と念を押される。

 それだけではない。予定も時間も、部屋でひとりになるわずかな隙さえ、少しずつ奪われていった。


 くれくれ、くれくれ、くれくれ。


 どれだけ差し出しても、まだ足りない。

 何かを渡せば、次を欲しがる。

 ひとつを手放せば、ふたつめに手が伸びる。


 気づけば、そこは底なしの沼のようだった。


 そしてフローラは毎日、何かを失っていった。

 耳飾り、茶器、布、香油、手袋、髪飾り。

 自分の部屋にあったはずのものが、少しずつ、当たり前みたいに消えていく。

 ものだけではない。自分の時間も、落ち着く場所も、自分のままでいられる余白も削られていった。


「どうして……」


 とうとう耐えきれず、フローラは部屋の隅で膝を抱えた。

 みんな、自分から取っていく。

 欲しい、欲しいと手を伸ばしてくる。


 その時だった。


「どうしたの?」


 やわらかい声が降ってきた。


 見上げると、ラクレシアンがいた。

 いつもと変わらぬ穏やかな笑み。

 けれど、その眼差しだけはいつもより深かった。


 救いだ、とフローラは思ったのかもしれない。


「……みんな、ひどいんですの」


 フローラは、縋るように言った。


「みんな私から取っていくの……」

「お義父様も、お義母様も、義姉様も、使用人まで……」


 ラクレシアンは、気の毒そうに眉を寄せた。


「そうか」

「それはつらかったね」


 その声は、どこまでも優しかった。


 だからフローラは、少しだけ救われた気がした。


 ――次の言葉を聞くまでは。


「ところで」


 ラクレシアンはやわらかく首を傾げた。


「さっきまで飲んでいた紅茶はどうしたの?」


「……え?」


「君の飲みかけがあっただろう?」

「もう片づけたの?」

「だめだよ。ああいうものは、ちゃんと取っておいてくれなきゃ」


 フローラは固まった。


「今朝、食べかけのクッキーもあったね」

「あれも、僕にくれるんだろう?」


 彼は笑う。


「使いかけの便箋も」

「外した髪飾りも」

「履き古した靴も」


 ここで初めて、フローラの唇が細かく震え出した。


 一歩、近づく。


「ああ、そうだ」

「今朝、侍女に爪を切らせていたね」


 フローラの顔から血の気が引く。


「その爪はどこ?」


「……なにを、言って……」


「君の一部だろう?」

「僕にくれなきゃ」


 そして、どこまでもやさしい声のままで続けた。


「君の家が傾いて、どこにも行き場がなくなったのに」

「両親を押し切って、婚約を解消せずに最後まで君をもらってあげたのは僕だよ」

「だから君のものは、きちんと僕の手元に置いてもらわないと困る」


 その笑みは甘かった。

 恋人を慰める男の、理想みたいな顔だった。


「愛する妻の使ったものは、どれだって大事なものだろう?」

「残さず取っておくのは、当然じゃないか」


 じっとりとした目が、絡みつく。


「君の使ったものを、残さず全部ちょうだい」

「君のものを、全部ちょうだい」


 顔から血の気が引く。

 表情が抜け落ちる。

 そして次の瞬間。


「いやあああああ!!」


 悲鳴が、夜の部屋に弾けた。


     ◇


 因果応報、という言葉がある。


 フローラの話を風の噂で聞いた時、私は少しも驚かなかった。

 最初にあの家で顔合わせをした時から、もう嫌な予感はしていたのだ。


 ヴァレント家が欲しかったのは、由緒ある家の看板だったのだろう。

 しかも、こちらは弱っていて扱いやすい。

 あの家には、そういう薄暗い都合のよさが、最初から透けて見えていた。


 父がようやく軌道に乗せかけていた事業に手を伸ばすだけでは済まない。

 いずれはうちの家も、領地も、まとめて呑み込むつもりだったのではないかと、今なら思う。


 屋敷の空気も、妙だった。

 笑顔も言葉も丁寧なのに、どこか他人のものを値踏みしているような湿り気があった。


 ラクレシアンの目も、同じだった。

 人を見るというより、その人の持つものや、身のまわりにあるものまで数えているような目だった。


 初めて二人で出かけた時、彼は私の使っていた手帳に視線を落とし、穏やかに笑った。


「使い慣れたものっていいよね。持ち主が染み込んでいる感じがする」


 その瞬間、ぞくりとした。


 ああ、と思った。

この人は、フローラと同じ匂いがする。

 けれど、もっと甘く、もっと腐っている。

 関わってはいけない類のものだと、あの時すでにわかっていた。


 この男が私のものになると知れば、フローラはきっと欲しがる。

 そう思った。


 だから私は、二人きりの空気になる時は黙って身を引いた。

 三人でいても、話が二人のあいだで続くなら、そのままにした。

 私が少し傷ついたように見えるほど、彼女は安心して手を伸ばすと知っていたからだ。

 

 私は、大切なものを奪われたように目を伏せ、言葉を飲み込みながら、少しずつ影に回った。


 そして、フローラが欲しがった時、ラクレシアンを差し出した。

 ただ、それだけのことだった。


 あの男を欲しがってくれたことに関しては、フローラに感謝すべきなのかもしれない。


     ◇


 フローラ。

 花のような名前で、花のような見た目をしている女だった。


 けれど実際のところ、あれは可憐に咲く花ではなかった。

 いい香りでも振りまくのかと思えば、実際には腐ったような匂いを放ち、そばにあるものから養分を吸って、ぶくぶくと肥えていく巨大な寄生花のようだった。

 私はずっと、あれこそがラフレシアなのだと思っていた。


 だが、違った


 あれは奪うだけで終わる。

 本当にたちが悪いのは、手に入れたものを囲い込み、逃がさない方だった。


 本当のラフレシアは――ラクレシアンの方だった。


 ……あら。

 名は体を表すとは、よく言ったものですね。

 こうして見ると、名前までずいぶんよく似ている。


 それはさておき、たぶん彼女はこの先も、あの家で、自分が奪ってきた以上のものを少しずつ搾り取られていくのだろう。


 それにしても、よくできた筋書きだった。


 欲しがる女は、欲しがる男のもとへ。

 奪うことしか知らない女は、奪われる側へ。


 そんな都合のいい話が現実にあるのかと問われれば、少し困るけれど。


 物語としては――実に、収まりがいい。


     ◇


 春の終わり、王都の図書館で働き始めた頃、ユリウスがやって来た。


「就職、おめでとう」

「夢に向かっての第一歩だな」


 開口一番そう言われて、私は少しだけ笑った。


「ありがとうございます」


「それで」


 ユリウスはいつもの調子で言った。


「今度は俺が、君に求婚する」


 あまりにも自然で、私はおかしな確認をしてしまった。


「……それは、婚姻を求めるという意味での、あの求婚ですか?」


 ユリウスは、やわらかく笑った。


「他に何があるんだ」


 急にそんなことを言われても、と思った。

 けれど、その顔にはいつもの冗談めいた空気を少しもまとっていなかった。


 私は少しだけ黙って、それから答えた。


「そのご提案については、少し考えさせてください」


「却下じゃないなら十分だ。急がせる気はない。君の心の準備ができるまで、求婚は待つよ」


 その軽さが、今の私にはありがたかった。


 王子様とお姫様が手を取り合って、口づけをして、何もかもめでたしめでたし。

 フローラなら、きっとそう直すのだろう。


 けれど私は、そこまで綺麗に整いすぎた、ご都合主義の終わり方は好きではない。

 たとえ相手に相応の報いが返ったとしても、こちらに残った不快さや痛みまで消えてなくなるわけではない。

 すべてが気持ちよく片づくわけではないのだ。


 その代わり、登場人物たちのその後を少し考えてしまうような、

 余韻の残る物語は嫌いではない。


 その上で、最後にほんの少しだけ先が見えるのなら。

 たとえば、昔からの顔なじみが、ある日あたりまえみたいな顔で求婚してくることとか。

 心の準備ができるまで待つと言いながら、次の日にはもう何事もなかったように顔を出して、さっそく口説いてきそうなこととか。

 そういうふうに、その先を少しだけ思わせる終わり方なら、私も嫌いではない。


     ◇


 ……これなら、書ける。

 皆さま、最後までお読みいただきありがとうございました。

 作者のヴィオラです。


 ひとまず、収まるところには収まったようでございますが、いかがでしたでしょうか。

 

 この話が本当のことかどうかは、ご想像にお任せいたします。

 あまりはっきりさせないほうが、楽しいこともございますので。


 現在は王都の図書館に勤めております。

 静かな場所ですので、執筆にはなかなか向いております。

 ありがたいことに、今の席は日当たりもよく、探していた絶版本も無事に見つかりました。


 また新しい物語がまとまりましたら、お読みいただければ嬉しく思います。

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― 新着の感想 ―
これでもフローラは自分が今まで嬉々としてやってきた事を自分がされる側になっただけ、とは気付けないんだろうな。 何でわたしばっかりこんな目に……酷いわ、としか思ってない気がする。 ラクレシアンに搾取され…
最初の絶版本は目をつけられる前だから警戒足りないのもまだ納得できますけど、その後は主人公もう少し用心しましょうよ。大事なもの持ってこないようにしてるって、自己評価してますけど、いや持ってきてますやん。…
とりあえず、主人公が危機管理能力の全くないあほだと言う事はわかった きちんと対応していれば大事な本や小説は回避できたはず
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