2.アンジェリカの日常
14歳になったアンジェリカ・リーランドは、前世を思い出したあの日手にした、病弱令嬢という隠れ蓑の裏で、日々研鑽を積んでいた。
彼女の朝は早い。
日の出と共に起き、顔を洗って動きやすい格好に着替えると、目立つ赤髪をキャスケット帽の中に仕舞い込んで部屋から抜け出す。そして、使用人用の通用口から外に出て、裏庭で鍛錬を行うのがアンジェリカの日課だ。
「えいっ、えいっ、えいっ」
アンジェリカは両手で構えた木刀を頭の上から振り下ろして素振りを繰り返す。
元々運動神経の良い彼女は筋が良く、今では騎士見習いと模擬戦を行えるほどの剣技を身に付けていた。
「いやぁ、お嬢様の腕は大したものですね。」
「ありがとう。」
褒めながらタオルを差し出してきた中年の男は、リーランド公爵家に仕えている衛兵だ。
アンジェリカが10歳の時に、親に内緒で鍛えて欲しいと頼み込んだのだ。
病弱なのに何を言っているのかと最初は断られたが、彼女の熱意と『軟弱な身体を鍛えてお父様を喜ばせたいの』という親想いの言葉に絆されたらしい。今では秘密を共有する鍛錬仲間だ。
「そろそろ公爵様に披露されても問題ないんじゃありませんか?」
「私なんてまだまだよ。お父様をガッカリさせたくないもの。だからこれからも宜しくね?」
「もちろんですよ。」
すっかり大人っぽくなったアンジェリカに笑みを見せられれば、何でも言うことを聞いてしまうのがこの男だった。
「もうこんな時間!また明日ね。」
懐中時計で時間を確認したアンジェリカが踵を返す。
バレないようにするため、使用人達の仕事が始まる前に部屋に戻らないといけないのだ。彼女は人の多い洗い場を避けて邸の中に入り、早足で部屋まで戻った。
「お嬢様、遅いですぅ!今日は往診があるって言ったじゃないですかぁ!もう病人用の化粧をしてる時間ありませんよっ。」
泣きそうな顔で出迎えてくれたのは、専属侍女のミミだ。
アンジェリカよりも少し年下で、赤茶の髪をおさげにしている。可愛らしい町娘のような素朴な印象だが、その中身は金の亡者だ。
「ごめんごめん。今度美味しいお菓子を差し入れするから。ね?」
「さぁ早く湯浴みを済ませちゃいましょ〜!」
「相変わらずね。」
ミミが分かりやすく笑顔になり、アンジェリカが苦笑を漏らす。
彼女は平民上がりの使用人で、元は最も立場の低い洗濯を担当していた。それを口の固い協力者の欲しかったアンジェリカが賃金を上乗せして引き抜いた。平民出身の使用人の中から目ぼしい人物を探していたのだ。
貪欲なミミにとっても好条件であるため、妥当な報酬を得られる限り、彼女は主人のすることを咎めたり口外したりしないのだ。
ー コンッコンッコンッ
「失礼致します。」
往診日の今日、公爵家のお抱え医師がアンジェリカの元へやって来た。
1ヶ月に1度の頻度でやって来て、アンジェリカの健康状態を確認するのだ。少しでも改善が見られれば、彼女の父親は一旦白紙となった王子との婚約を再度申し込む気でいるらしい。
その噂をミミから聞いたアンジェリカは、病弱設定を徹底していた。
「顔色が良くありませんね。食欲は相変わらずですか?」
「ええ。スープならなんとか…」「ぶっ」
ベッドの上で問診を受けていたアンジェリカ。
役になり切っているというのに、脇に控えていたミミが横を向いて小さく吹き出している。医師に怪訝な目を向けられ、必死に咳払いをして誤魔化していた。
その後一通り診察を終え、医師は変化なしと結論づけて帰って行った。
「ミミ、あの場面で笑うなんて、何やってるのよ!」
医師がいなくなった瞬間、アンジェリカが枕元にあったクッションをミミに投げ付けた。それをひょいっとかわしてまた笑い出す。
「だってぇ、お嬢様…ふふふっ…足りないって私に串焼きやおやつを買いに行かせるじゃないですかぁ。なのに、スープだけって…ひひひ」
「そういう設定なの!それに、ここじゃ病人食しか与えられないんだから仕方ないでしょ。」
つい声を荒げるが、ツボに入ったミミは笑いっぱなしだ。
「じゃあ今度からあなたの分は無しね。お釣りも全部返してもらうわ。」
大人げなく腹を立てたアンジェリカがぷいっと横を向いた。すると、へらへら笑っていたミミの様子が一変する。
「そんなぁ〜!それは嫌ですぅ。もう笑いませんから!お嬢様が実は大喰らいだったなんて誰にも言いませんってぇ〜!」
態度を180度変え、今度は縋りついてくるミミ。
しかし余計な一言のせいで主人の機嫌を損ねまくっている。
気にせず話せるたった一人の相手だが、たまに気軽過ぎて扱いに困ってしまう。奔放な自分の使用人に頭を抱えるアンジェリカだった。




