10.カーミラの不要な配慮
その日のお昼レイに、朝の詫びにランチを奢るよと言われたため、またあの個室席でコース料理のランチを食したアンジェリカ。
まんまと彼に言いくるめられているような気がしなくもなかったが、またあのご馳走が食べられると思うと、二つ返事で頷いていた。
アンジェリカが教室に戻ると、午後はダンスの実技授業のため練習室に集まるよう指示が書いてあった。
(ダンスか…ザ貴族って感じする。小さい頃からやらされてたっけ。身体を動かすのは好きだから楽しかった記憶があるなぁ。家を出たらダンスをする機会なんてまずないから、授業でもちょっと嬉しいな。)
移動するための準備をしながらダンスの授業にワクワクしていると、カーミラが教室にやって来た。周囲を見渡してアンジェリカと目が合うと、にっこり微笑んで近づいてくる。
(え…この既視感はもしや…)
嫌な予感がして顔が引き攣る。
「アンジェリカさん、伝えてなくてごめんなさい。貴女は自習をなさっていてね。レッスンの間立たせておくわけにはいかないもの。」
「えっと、私別にダンスくらい…」
「教室には誰もいなくなるから、図書館で過ごしてちょうだい。困ったことがあったらすぐ司書の先生に伝えるのよ?」
「だから私…」
「大丈夫よ。ダンスの単位はちゃんとあげるから。ほら!他の子達は早く移動なさい。遅れたら減点よ。」
「え」
カーミラはアンジェリカの話を全く聞かずに、残っている生徒達を追い立てながら教室から出て行った。
(だから一言余計なんだって…!!)
カーミラの不用意な気遣いのせいで、他の生徒達から妬みの視線を向けられ憤慨するアンジェリカ。苛立った勢いのまま図書館へと向かった。
図書館は教室のある校舎一階と渡り廊下で繋がっており、独立した3階建の建物となっている。
エントランス階は小説や雑誌など娯楽となる読み物が中心で、二階は授業で学ぶ教科の関連書籍、三階には専門書やこの国の歴史や王政に関係するものなどりよ高度な内容の書籍が揃っていた。
各階に大きな窓に面したオープン型の自習スペースがあり、入り口手前のカウンターに司書も常駐している。
(へぇ…結構すごいじゃん。)
豊富な品揃えにアンジェリカが目を輝かせる。公爵家にも書庫は存在するが、貴重な書物が多く自由に出入り出来るものではない。
そのため、初めて目にする専門書に胸をときめかせていた。
(医学も薬学もある…それにこっちは近隣諸国の民俗学…あ、文官の試験問題なんてのもあるわ。この国では無理だけど、他の国に行った時に使えるかも。)
目に止まった本を次々腕の中に抱えていく。
腕力が限界を迎えるとようやく自習スペースに向かった。
(アンジェリカの頭なら、あっという間にものに出来そうだな。)
今は午後の授業中のため、他の人の姿はない。秘密裏に勉強するには、絶好の機会だった。
医学書、薬学書、外国語、民俗学…
腕組みをして並べた本を眺める。
(医者って憧れるけど、やっぱり逃亡先になるかもしれない近隣諸国のことから学ぶべきだよね。よしっ…)
目に付いた本に手を伸ばそうとしたその時、背後から人の気配がした。
「近隣諸国のことなら、自国の歴史と併せて学んだ方が理解しやすいよ。」
耳心地の良い穏やかな声で言いながら、しれっと彼女の隣に座ってきたのはレイだった。
「レイ?貴方ダンスの授業はどうしたの?サボると先生に怒られるわ。減点って言ってたわよ。」
「僕は全ての授業の単位を取得済みだからね。自由に過ごせるんだよ。」
アンジェリカの指摘に、レイは悪びれることなく堂々と答える。動揺しておらず、どうやら本当のことのようであった。
「やっぱり貴方の年齢って…」
「そんなことより、おすすめの本をいくつか持ってくるから少し待ってて。」
アンジェリカの心の底からの疑念を華麗に躱して書架へと向かう。しばらくして、数冊の本を手にして戻って来た。
「これがこの国の史実。それに対して、この世界の成り立ちと言われている古代神話。これを読んだ後でそこにある本を読むといいよ。」
レイが持って来たのは凶器になりそうなほど厚みのある本だった。パラパラと捲るが、一ページあたりの文字量が凄まじく、前世の彼女なら秒で諦めていたに違いない。
「レイはこれ全部読んだの?」
「うん。医学と薬学も概論から臨床の話まで一通り読んで頭に入っている。外国語も隣接する国は全て話せるから、気になる言語があれば、いつでも練習に付き合うよ。それ以外の分野でも力になれることは多いと思うから、気兼ねなく頼ってね。」
レイはなんてことのないようにツラツラと言うが、アンジェリカは目が点になっていた。あまりの偉業に、驚き過ぎて言葉が出ない。
「レイって凄いわ…相当努力したのね。」
「そうでもないよ。一国の王子なら、このくらい当たり前に教育されているんじゃないかな。僕も環境が良かったというだけだよ。」
「は?恵まれていても努力せずに身につくものなんてあるわけないじゃない。王子って肩書きだけで優秀になれるわけないでしょう?その王子だって、レイだって、物凄く努力をしたってことよ。」
「……そう、なのかな。」
いつも威風堂々としているレイの声が独り言かのように小さかった。戸惑った様子で視線が揺れる。
「だからそうだって言ってるじゃない。努力を認めないと、過去の自分に失礼だわ。」
アンジェリカがきっぱりと肯定すると、レイが目を見開いた。彼の心がじわじわと喜びの色に染まっていく。
(あぁだから僕は君のことが…)
青い瞳が宝石のようにきらりと輝き、心に溢れ出た喜びを瞼に溜めて水面のように潤む。
「嬉しい。」
長い金色の睫毛を下げたまま、吐息のように喜びの声を漏らしたレイ。
感情を露わにした横顔は屈託のない少年のようで、普段よりも幼く見えた。
(そんな顔もするんだ…)
いつも完璧なまでに美しい微笑みを浮かべているレイ。その彼が見せた自然な表情に、アンジェリカの胸の中に温かな感情が芽生えていた。




