二十六 わたしにはない正義 2827年
雪が降りましたと言って、あなたが笑っている。誘われるまま、だれも踏んだことのない処女雪に足跡をつける。
せっかく会えたのに、泣いてばっかりだったね。別れる直前も、泣いてばかりだった。
あなたが涙のときほどそばにいたいけど、最後に笑顔を見たのはいつだろう。もう一度笑っているところを見たいと思うと、夢に雪が降る。
これが夢だとすぐにわかるように、そうしているんだと思う。俺は、冬のあなたを知らないから。
息を吸うたびに痛かった胸の痛みがとれている。
かたい石の床のうえで眠るしかなかったはずだが、ここは体が包まれるように心地いい。
目をあけて、音もなく起き上がると、どこかの病室のようだった。背中を向けてなにか作業をする人物の姿には、見覚えがある。
「辰野……先生」
今の階級がわからず、鹿嶋はなじみのない敬称でその人を呼ぶ。
「佐治中尉!」
振り返った男は、心からうれしそうにしている。七年前の戦場で、たびたび世話になった軍医、辰野だった。
鹿嶋は二日前の夜、留置場所からこの皇宮診療所へ移されたのだという。すこしも記憶にないのは、そうとう痛めつけられて弱っていたからだろう。
「憲兵隊の君への振るまいが、あまりにひどいと言うんで、仲月見少佐がそれは怒ってね」
「少佐が」
「古瀬くん経由で、西方司令部にいたわたしを指名でよびだして、君のめんどうを見させたわけだ」
思わず頭をさげる鹿嶋を辰野はあわてて止める。
「いや、いいんだ。なにも問題ないよ。もっとひどい後遺症やらが残るまえに、君をたすけてやれてよかった。なにもないとは思うが、体でどこかおかしいところはないか」
「……あの、それより、わたしは今どのような状態にいるのでしょうか」
とくに拘束もされていない。憲兵隊が監視しているようにも見えない。いまの自分が置かれている立場がわからず、鹿嶋は困惑と同時に不安になってくる。
「もはや処刑を待つような身だとばかり思っていました。もともとそれを覚悟で皇宮にもどってきたのです。このように治療を受けて、自由にさせてもらうような立場ではないはずですが」
「君が姿を消して五日、またここへ戻ってきて五日。仲月見少佐はずっと動き回っていたよ。もはや君を殺せなくなるくらい、世間を動かすために」
そう言って辰野は、ここ一週間ばかりの新聞の束をもってくる。
「背信罪まちがいなしの大悪党が、じつは姫君をおまもりする英雄だったという物語は、おおいに大衆をよろこばせた」
英雄と聞いて、鹿嶋にはなにひとつ思い当たることがない。いちばん上にあった新聞を一部とって、開いてみる。
「少佐は、万条日報……発行部数中堅の新聞一社に、さきがけで一報書かせた。ちゃんと裏どりはあったけど、あまりに突拍子もない内容だから、すぐには信じてもらえなかった。最初飛ばし記事だと思われていた。それでちょっとした騒動になったところに、皇都で新聞を発行している全社にむけて、情報を送りつけた。詳細な証拠と当事者しかしらない取材録まで添付してね。もうどこの新聞もその話題一色だ」
その新聞記事には、逃亡初日の夜に、清鷹が鹿嶋に言ったような事情がすべて書かれていた。
七年前、紗蓉子が最初にアルモリカから来たと思われる男たちに斉京の街で追われたときのこと。そしてその後、アルモリカが本格的に紗蓉子に接触しようとした時期に、紗蓉子が皇宮に戻るきっかけとなった事件のこと。すべて、鹿嶋が紗蓉子を守ったことになっていた。
しかしところどころ、脚色もある。
たとえば、七年前に紗蓉子がアルモリカに狙われた事情については、ネールランド紛争がらみに理由がすげ変えられていた。また、今回の皇女宮襲撃の直前に、鹿嶋が紗蓉子を皇女宮から連れ出したことについては、事前に襲撃を察知した鹿嶋が、秘密裡に紗蓉子を逃がしたことになっていた。
だが、もはや当事者の大半が戦死し、皇修館にも記録すら残っていないような、七年前の事情までくわしく載っているのはどういうことだ。イスカにすら詳細は話せていない。鹿嶋は記事をななめ読みして、事態を把握しようとした。
志水清鷹ではないだろう。あのころ彼や、彼の所属する警務連絡班が、紗蓉子に張り付いていたとは思えない。そうであれば、鹿嶋が暴力に及ばざるを得なかったあの事件は起こっていないはずだ。
鹿嶋のおこした暴力事件について、記事には紗蓉子の身におこったことは何一つ書かれていなかった。
ただ鹿嶋の暴力の理由については、アルモリカと通じてた国賊の学生たちに罰を下したことになっていた。
記事では、鹿嶋は皇修館時代から今に至るまで、皇女殿下に変わらぬ忠誠を誓い、影に日向に守り続けた勇士ということになっている。仕立て上げられたと言ってもいい。
さらにこの記事は、特に皇修館時代の鹿嶋と、鹿嶋のネールランド紛争での奮戦について、まるで見てきたように書いてある。
「これは、いちばん最初の万条日報の記事だよ。なんだかんだ言って、この記事がいちばん熱がこもっていた。だからずいぶん騒がれることになったんだがね。わたしはこの記事の文章から、なんとしても佐治鹿嶋を無実の罪で裁かせはしないという、強い意志を感じた。並々ならぬ決意だ。情念と言ってもいい。だから、たかが中堅紙の飛ばし記事と思われて終わらず、全紙がとりあげるような潮流になったのだと思うがね」
鹿嶋は万条日報の記事の最後の、文責者の名を見つけた。記事を書いたものの名だ。その人物の名を、指でなぞった。
——俺は、おまえを助けたことを後悔したことが、何度もあった。人の善意を信じて裏切られるなんて、ろくなもんじゃない。人を信じて自分が馬鹿を見るなんて、もうまっぴらだと、七年前からずっと思っている。
おまえも、とっくの昔に自分がしたことも、俺に助けられたこともみんな忘れて、どこかで何もなかったような顔をして、楽しく暮らしているんだと思っていた。
人にかけた恩は流して、かけられた恩は刻む。イスカさんがときどき言うけど、俺はそんなふうにはなれない。そんなに人間を好きになれないし、自分がやった善いことにも悪いことにも、報いが欲しい。善く生きる意味が欲しい。
そう思うたび、自分がずるくて浅ましいと思い知らされる。
だけど、俺は今日初めて、今まで自分がしてきたことに、無駄なことはひとつもなかったと思えている。生きてきた、かいがあったと思っている——
竹内、朝明。
朝明。万条日報の記者名には、確かにその名があった。
「この記者、もしや佐治中尉の、知り合いではないかと思ったが」
「はい。そうです」
鹿嶋は思わずそう言っていた。
「俺の、友人です」
七年前、紗蓉子を傷つけた者の一人で、猫を殺す片棒をかつぎ、それでも鹿嶋が戦場で命を助けた、友人。
こうして多くの人に証拠を示す形で正しく鹿嶋のおこないが知られたいま、背信罪に問うことは難しいと判断されたらしく、鹿嶋は解放されたのだと辰野は説明した。
「体が問題ないなら、そのまま起きているといい。もうすぐ仲月見少佐がこちらにいらっしゃるそうだ」
「イスカさんが」
「仲月見少佐は、軍務でしばらく国をはなれることになったそうだ。期間も年単位と聞いている。別れをしたいのではないか」
鹿嶋は強くうなずいた。
仲月見イスカは、皇宮から即座に蒼海国へ飛び立とうとしている。わずかの時間も惜しいからと、すぐに決めてしまった。いまはなぜか皇宮を囲む高い外塀のうえで、寝転がって新聞をひろげている。
「いや、何度見てもいい記事だ」
イスカは鹿嶋を英雄に仕立て上げるきっかけとなった万条日報の記事をいたく気に入っていて、ここ数日、なにかにつけて眺めている。
外塀の下では、眞夏が心配そうにうろうろして、ときどきイスカに声をかける。
「イスカさーん。落ちないでくださいね」
「とても気分がよくて、落ちる気がしないよ」
同じようになぜか外堀のうえにすわっている西穏地の魔女ヒルカが、うさんくさそうな目でイスカを見ていた。
「その記事、貴様の仕込みだろう」
「仕込みというほど、なにもしていません。書いてくれるように頼みはしました。材料をそろえたのはこちらですが、物的証拠にひとつも嘘はない。論理的に不自然でない範囲で、予測と推測が含まれているだけです。そしてこの記事にこもった熱意は、本物だ」
イスカは、竹内朝明の動向をずっと気にかけていた。どこかで雑誌か新聞の記者をしているという話はつかんでいた。だから探し当てたのち、事情を知る人間として、まずは飛ばしで軽く記事を書いてもらえないかと頼む程度のつもりだった。
それが「ぜひ書かせてほしい」という朝明の熱意に押され、イスカはこの記事を書く意味を彼に伝えた。
戦場で拾われた命のすべてをかけて、鹿嶋を死なせはしないと朝明が請け負って、イスカは裏付けの取れる情報を残らず彼に明かし、できたのがこの記事だ。この結果をひきあてたのは、まぎれもなく鹿嶋自身である。
「いい記事だよ、ほんとうに」
イスカは塀のうえで起き上がると、心配そうにずっと見上げている眞夏のそばに飛びおりる。
「だが英雄でも悪漢でも、どのみち騒がれ過ぎたから、鹿嶋はこの国では居心地が悪かろう。わたしのあてのない旅には、鹿嶋も連れていく」
「ああ……やっぱりそうなるんですね」
さみしそうに眞夏はつぶやく。
「そういうことになってしまいますが、よろしいですか? 佐治家ご当主殿」
イスカが振りかえった先には、佐治家当主となった尚隆がいる。
「……なにも、わたしが言えるようなことはありません。わたしは兄として、弟になにもしてやれなかった男です。仲月見少佐。わたしは、鹿嶋がまだ十のころに家を出て、それから軍務ひとすじ、あの子が十七になるまで、一度も会いませんでした」
七年ぶりの再会に、尚隆は十歳のころの鹿嶋がよく食べていた菓子などをたくさん土産に買って行ったが、すっかり大きくなってしまった弟にはふさわしくない気がして、かくしてそれきり渡しそびれた。佐治尚隆とは、そんな男だ。
「それから鹿嶋は佐治の家を勘当され、また長く会う機会をうしないました。もうすっかり鹿嶋は大人になったのに、まだ生まれたてのころや、十七のころのあの子の姿が頭をよぎり、彼をうまく信じてやれなかった」
尚隆の声には、深い後悔と無念がある。
「あなたのようには、できなかった。わたしは鹿嶋を弟として、愛してはやれなかった」
「そんなことないと思いますが」
イスカは、心から信じられないという顔をしている。むしろ何を言っているのかわからぬと、呆れているようでもある。
「もうじゅうぶん大人になった人間のなかに、幼いころの面影を見てせつなくなるなら、それはもう愛です! あなたはたしかに、鹿嶋を愛しておられる。よき兄君です」
それから、「記念です。とっておいて」と持っていた万条日報を尚隆の肩に押しつける。
「鹿嶋には、手紙を書きなさいと言っておきます。あなたへの手紙を」
尚隆は深く頭を垂れた。そのふるえた声では、口に出して礼を言える気がしなかった。
そのうち、皇宮からほど近い近衛師団の鷲獅子騎兵大隊から、イスカ騎乗の鷲獅子と、眞夏と鹿嶋の騎乗獣が連れてこられた。
騎乗獣を引き渡されるイスカの様子を外堀の上から眺めながら、魔女ヒルカは、自らの弟子東里少年に警告する。
「いいか、東里。よく見ておけ。あの仲月見イスカという女は、他人の心の隙間にぬるっと入り込んで、そいつが一番欲しがっている言葉をくれてやる、ペテン師のような女だ」
あまりの言いように、東里はあきらかに困惑する。
「そんなふうには……思えませんが……」
「もうすでに絆されやがって」
「絆されたとか、そういうわけでは……」
そのとき、鷲獅子に乗って舞い上がったイスカが、外堀の上のヒルカたちに近づいた。
「まだなにか用か」
「ヒルカさまにはお伝えしておこうと思って」
イスカはこれから自分がなにをしに行くのか、長命の魔女にだけは誤解なく明かすつもりでいる。
「わたしは最初から、世界を救うために妹の命を捨てる道を選べませんでした。そして紗蓉子の身に起きて受け入れられないことを、他人の身に起こるならば良しとする正義はわたしにはない」
運命の子を、死に追いやるために旅に出るのではないという宣言だった。
「……この世界すべてより、命の重いひとりがいるとお前は言うのか」
「そうは言いきれません。でも、たったひとりを犠牲にして救われた世界では、わたしはそれ以降生きる意味をうしなう。平気な顔をしてその先も生きていける人間ばかりではないということです。進むならば、わたしは世界の大多数の人間から見れば悪になるが、それでも行きます」
「おまえは……もしも自分が運命の子であれば、迷わず死ぬと言うのではないか」
「言うでしょうね。わたしは死ぬことに最初からためらいがないので。無駄死にはごめんだが、使いどころのある死なら許容できる。他人にそれを強要しようとは思いませんが」
死を語るにしては平静すぎるイスカの表情は、そこでちょっと人懐こそうな顔に変わって、笑みが広がる。
「でもあなた、わたしにお前のような奴が運命の子でなくてよかったとおっしゃった。わたしが運命の子の死を回避する方法をあきらめない理由のひとつは、それです。わたしのような女があっさり死んだのでは、たどりつけない未来があるのでしょう! 探すものを見つけたら、まず最初にあなたのもとにお連れします。でもそれは、死なすためじゃない。そのときこそ、すべてをお話しください」
魔女の返事を聞くまえに、イスカは目のまえから飛び去った。同じ皇宮内の診療所にいる鹿嶋を迎えにいくために、鷲獅子は空を滑空していく。
皇宮内診療所の中庭には、もう鹿嶋が待っていた。
「イスカさん!」
「鹿嶋。体はどうだ?」
「なにも問題ありません」
「それはなにより。さっそくだが……」
「大変なご迷惑をおかして申し訳ありませんでした! 行くなら、俺も連れて行ってください!」
イスカの説明を待たず、鹿嶋は声を張った。
「まだ最後まで言っていないが、最初からそのつもりだよ」
鹿嶋の顔に、波紋のように笑顔が満ちる。
「ありがとうございます」
「国を出ることになる」
「知っています」
「その理由もまだ言っていないが」
「なんとなくわかってはいるので、道すがらお話いただければけっこうです」
「そうか。では、これからさき、目的に向かって全力をもって遂行する。すべてにおいて大急ぎだ。休んでいる暇はない」
「はい」
背筋を伸ばして敬礼で答える鹿嶋に、しかしイスカはすぐに気の抜けた声でかえす。
「でもそれは、空を飛びはじめてからの話だからね」
イスカは鹿嶋の背後の皇宮内診療所を指さす。
「診療所の一室に、紗蓉子殿下もお休みだよ」
鹿嶋の顔色がかわる。無事でいること以外に、いまの紗蓉子の状況は、なにひとつ鹿嶋には伝わっていない。
「つぎに戻れるのは、正直いつになるかわからない。お別れをしてきなさい」




