二十四 鹿嶋燦然 2 2825年
2825年
夏のあなたばかりを夢に見ている。それは当然だ。俺は、春と秋と、冬のあなたを知らないから。
なんだか下半身が寒い。
目をあけると、引佐大佐、つまり黄鉄鉱の旦那に連れていかれた花街の料亭の一室だった。
天井の様子でわかる。近衛師団の団員の出入りが多い料亭は、格としては低くない。木目の整った天井が、鹿嶋を見下ろしている。
疲れていたのか、今日は妙に酔いがまわった。
イスカがいれば、同じ神波町花街にある、イスカが寝るための定宿にしている紫鶴屋に彼女を送っていくという名目で、宴席を抜け出せる。だがあいにく今日は彼女は来ていなかった。
そのせいか黄鉄鉱の旦那の酒のすすみもいつもより早く、鹿嶋もめずらしく深く酔った。
天井のまぶしさに横を向こうとしたが、下半身に障りがある。なんとはなしに視線を下に向けると、鹿嶋の隊服の下を、女が脱がそうとしている。
鹿嶋ははねおきて、女を突き飛ばそうとしたが、その肩の薄さと思った以上の非力さにひるんで、自分が飛びのくだけで済ませてしまう。
「な、なにやってんだよ!」
「あーあ、もうちょっとだったのに」
「もうちょっと!?」
女はたしかに宴席で鹿島のとなりに座っていた人物だった。この店に来るときは、いつも隣に付いてくれる。知らない女が目まぐるしく変わるのもせわしないから、同じ人間がいつも付くのは好ましいと思っていた。それがこんな目に遭うなんて。
よくみるとシャツのボタンも全部外され、無惨な姿をさらしている。鹿嶋は大急ぎで乱れた服を整えるが、そもそも着ていたはずの近衛師団隊服の上着がない。
「ていうか俺の服どこ!? 俺の上着は!?」
「さあ」
女はとぼけている。
「官品だぞ!?」
隊服は、個人の持ち物ではなく支給品である。半長靴、隊服、外套あたりは、異動や除隊にともない、やがては国に返還する必要がある。任務による汚損以外の喪失は、罰則の対象になる。
制服の紛失に鹿嶋があせってうろうろしている間にも、女は目の前でつぎつぎ着物を脱ぎ始めて、鹿嶋は悲鳴をあげる。
「ここ、そういう店じゃないだろう!?」
鹿嶋はいかに黄鉄鉱の旦那にさそわれても、遊郭街には決して足を踏み入れなかった。
近衛師団は、軍のほかの部隊と比べると皇宮との関りが深い。近衛の将兵の評判や噂が、皇宮内に広まることも少なくない。
鹿嶋はそういう店に出入りしているという自分のうわさが、皇宮ひいては皇女宮にとどいて、あの人を無駄に不安がらせることになりはしないかと恐れていたから、遊郭街には近づくことも避けていた。
花街の有名な芸妓が、軍の将官や政治家の愛妾となった事例は数おおいが、商売として色を売っているわけではない。堅気の芸を商売道具にしている者が多いから安心していた。それなのに、このざまである。
いまも一枚ずつ着物を脱ぎ散らして行く女から、鹿嶋は必死に距離をとって逃げている。
さっさと部屋から出ればいいのだが、見つからない上着が気がかりだ。罰則を受けるのは避けたい。大尉への昇進が遅れるのは、それはそれでまずい。すでに彼女との約束の「五年後」まで、一年をきっている。隊服の紛失など情けない理由でもたもたすることは絶対にいやだ。
鹿嶋は、いちど上着をさがすことをあきらめて、脱ぎ捨てられた女の着物をひろいだした。彼がなにをしているのかわからず、女は立ちすくんでいる。鹿嶋はあつめたそれを彼女のまえにつきだす。
「はい」
女は受け取らなかった。鹿嶋はさらに着物のたかまりを差し出しながら、さとすように静かに言った。
「ほんとうにやめたほうがいい。こんなこと。ほかの客にもしているのか」
ほかの客にも、の部分に女はつよく反応したが、鹿嶋は気づかないのかまだつづける。
「仲月見少佐が言っていたよ。この店には三味線がみごとな子がひとりいて、行くのがたのしみだって。君のことじゃないのかな」
女はしばらく無言で、かたまりとなった着物を見ていたが、やがて顔をあげた。
「ねえ、もうどうでもよくありませんか? 忘れちゃいなよ。どうせ鹿嶋さまが四年待たせてる女も、忘れちゃってるよ」
鹿嶋は女のその言葉に、すっと頭が冷えて、つめたい声を発した。
「だれに聞いた、その話」
急に硬度と湿度を増した鹿嶋の声におびえたのか、女はこたえない。
自分がだれに話したかを思い出したほうが早そうだ。鹿嶋は酔った頭を働かせる。
古瀬悠大には話していない。あの人なら断片的な情報だけで、ある程度話の輪郭をつかめそうだが、彼は秘密を暴露したときの彼自身が負う傷を正しく認識できる。少なくともイスカからは評価されない。彼ではない。
引佐か。引佐荒海大佐。黄鉄鉱の旦那だ。間違いない。どこかでたくさん酒を飲まされたとき、話してしまったのかもしれない。
彼女の名を出すことは、たとえ酩酊状態の自分だったとしてもありえないから、話をきいた連中は、そのへんの女のことだと思って広めたにちがいない。
——俺の不覚だ。俺の心の弱さだ。
彼女と会えなくなって四年以上。皇女はその消息も外にはもれてこない。いま彼女がどうしているのか、まったくわからない。
さみしかった。名は出さずに、いまも想っている女として、他人との会話の端にでものぼらせなければ、自分がもたないと思った。
「待ってるわけないよ」
情報源をこたえない女は、しかし無遠慮な解釈だけはぶつけてくる。
「女が四年もまえに別れたきりの男を、いまも想ってるなんて、ありえないよ。女はみんなそう」
だから彼女のことは忘れて、目のまえの自分とどうにかなれと言っているのか? この女は。
「おまえに何がわかる」
「だって、佐治さまその女の、好きな花、好きな色、好きな食べ物のひとつも知りはしないんでしょう」
鹿嶋は一瞬、目のまえがまっくらになり、その間に一矢まとわぬ女にあっという間に寄られた。
「そんなの、他人と一緒じゃない」
しかし、伸ばされたその手は、鹿嶋の体に届く前に叩き落される。さらに鹿嶋は脱ぎ捨てられた着物を女の頭からかぶせて、部屋の隅まで突きとばす。
「いいから服を着ろーー!!!」
相手が女だからと逃げまわるばかりしていないで、最初からこうすればよかった。あくまで女人に対しては常にやさしく振舞っていた鹿嶋の変貌に、相手は目を白黒させているが、鹿嶋は叫びつづける。
「女はみんなってなんだよ! 主語がでかいんだよ! おまえと紗蓉子を一緒にするな! うわああぁぁぁーーーーー!!!!」
鹿嶋は近衛の制服を探すことをあきらめて、部屋をとびだした。そのまま叫びながら、店の階段を駆け下りて、外に飛びだし走り続ける。
「なんだいまの。鹿嶋か? あいつ起きたのか?」
別部屋で飲んでいた引佐が、嵐のように通り過ぎていった騒音を目で追って聞いた。
「旦那が飲ませすぎたせでしょう。かなり本気で佐治中尉に粉かけてた女がいたんで、襲われたんじゃないですか」
同じ座敷で飲んでいる古瀬悠大はそれにめんどうくさそうに答えたが、自分がいま言ったことが実際おきたのだとしたら、佐治鹿嶋にとっては過酷な災難だったろうなと同情する。こうなったとき、彼が行く場所はひとつしかない。
——あなたのことたくさん、もっと知りたかった。うそじゃない。時間がたりなかった。これからずっと一緒にいるつもりだったから、聞きそびれていたんだよ。あんなふうに離れるつもりじゃなかった。
——もしも、もしも本当に、あなたが俺のことを、もうなんとも思っていなかったら、どうすればいい?
——あなたのなかで、一緒にすごしたあの日々が、思い出じゃなく、ただの記憶になっていたら、俺は。俺は! どうしたらいいんだ! 紗蓉子!
鹿嶋は夜が更けつつある皇都を、叫びながら全力で走り抜ける。いまの彼に残された、たったひとつの安全地帯をめざしている。
「たすけてイスカさぁぁーーーん!!!!」
「鹿嶋! どうしたんだ。ひどい格好だな」
イスカの皇都の自宅にたどりついたとき、鹿嶋は乱れた近衛の隊服に上衣はなく、壮絶に酒臭かった。
イスカは寝部屋である定宿紫鶴屋に向かうため支度をしているところだったが、ただならぬ様子の鹿嶋におどろき、家にあがるように告げる。しかし鹿嶋はそれを固辞した。
「こんな格好の俺がさぁ? イスカさんちに入ったりしたら、またなんか言ってくる奴らが出るでしょーが。困るんですよぉ。そういうの」
「……完全におかしなことになっているな、鹿嶋。連れまわしたのは黄鉄鉱の旦那か? 入りたくないなら入らなくていい。お水を持ってくるから飲みなさい」
「……あのぅ、あのイスカさん」
奥に下がろうとするイスカを、鹿嶋が呼び止める。彼は玄関口の土間で、膝を抱えて小さくなっている。
「ん? どうした」
イスカはもどってきて、上がり框にすわった。
「イスカさんは、皇女殿下にときどきお会いしたりするんでしょ」
酒のせいか、真っ赤になった目で鹿嶋はイスカを見あげている。
「皇女殿下のぉ、好きな食べものってなんですかぁ……」
「なんだ、いきなりだな」
「いいから教えてください……はやく……はやく教えて!」
鹿嶋は土間を手の平でたたいて催促する。
「うーん、そうだなあ」
イスカは考えている。
——どうせ、全然俺の知らないものの名前が出てくるに決まっているんだ。俺はあの人のことを、なにも知らないから。
佐治鹿嶋という人間が、稚日宮紗蓉子のなかで、取るに足らない小石のような存在だとして、それをわざわざ確かめて、いったいどうしようというのだろう。
——俺はいったいどうしたいんだろう。忘れたいのかな。そんなはずはないんだけどな。
鹿嶋は自分の左腕を強くつかむ。傷に爪を鋭く立てれば、また血がにじんでこないだろうか。期待している。
「あ、そうだ。わらび餅だ」
イスカは思いついたように明るい声をはじき出す。
「わら……び……餅」
「そう」
その答えに、鹿嶋は思わずその場で正座した。
「わらび餅……ですか?」
「とてもお好きだとおっしゃったので、皇都の有名なお菓子屋さんのを買って、お持ちしたことがある。それもとてもお喜びいただけたけど、殿下のおっしゃるわらび餅は、鈴を鳴らし自転車で流して売りに来る、あの小さくてまるっこいわらび餅なんだって。どこで召し上がったんだろうね、そういうの」
「わらび餅……わらび餅が……」
鈴を鳴らして自転車で売りに来る、わらび餅。鹿嶋と紗蓉子が、一緒に食べたわらび餅。
「でも、あの方はそれが思い出の味だとおっしゃるんだ」
「……思い出の、味? そうか……わらび餅が……思い出……思い……で」
次の瞬間、鹿嶋の目から滝のような涙があふれ出し、イスカはかつてないほどあわてた。
「か、鹿嶋!」
鹿嶋はそのままくずれおち、わらび餅が、思い出が、と途切れ途切れに言いながら、声をあげて泣いた。
会いたい。会いたい。紗蓉子。名前を呼びたい。そばに行きたい。
俺はあなたがどこにいるか知っている。あなたが俺を待っているとわかっている。
なのに、なのにどうして。どうして俺たちは。
ただ会って話す。お互いの好きなものを教え合って、笑い合う。たったそれだけのことが、どうしてできない。
どうして。
「来てくれて助かったよ。古瀬くん」
「いや、困ったときに頼っていただけるのは光栄ですよ。相手がイスカさんならなおさらね」
古瀬悠大は、「鹿嶋が大変なことになっている」というイスカに呼び出され、彼女の自宅までやってきていた。
そもそもこんなことになるような気がしていたので、古瀬は鹿嶋が花街の店を飛び出したあと、すぐに自分も店を出た。それからやり残した仕事があるなどと適当言って、近衛庁舎にひとりでいた。
これなら、イスカにとって一番つかまりやすい人間が古瀬ということになる。階級が下の兵卒に、将官である鹿嶋の醜態を見せることをイスカは気にするだろうから、呼ぶのは自分になる。はたしてその通りことが運び、古瀬はいまここにいる。
「鹿嶋、急に家まで来たかと思ったら、玄関先でいきなり泣き出してね」
「泣きすぎて、けっきょく吐いたんですか。佐治殿」
「そうなんだよ。まあ片づけは慣れているからいいんだが」
「吐しゃ物の片づけを慣れていると言いきれるのは、並々ならぬ関係ですね」
「そういうふうに言われると、鹿嶋が困ると思ったから古瀬くんを呼んだんだよ。このまま寝かすわけにもいかないだろう? 風呂に入れてやってくれないか」
「そりゃ別にいいですが」
鹿嶋はいまはイスカの家の茶の間の隅で、猫のように丸くなって眠っている。丸まった背中が、規則ただしく動いている。
古瀬はその横にすわって、風呂に水を溜めに行ったイスカを待つ。やがて戻ってきた彼女が正面にすわると、切り出した。
「イスカさん。もうとっくにお気づきとは思いますが、この男、ずいぶんな隠し事をあなたにしていますよ」
「……うん」
その歯切れの悪い様子に、これはイスカも完全に感づいているなと、古瀬は自分のなかで了解する。
「黄鉄鉱の旦那がいつだったか、むりやり佐治殿をその手の店に引きずり込もうとしたことがあって、佐治殿がそれは頑強に抵抗したことがあった。あまりに非常な抵抗ぶりなんで、思わず俺も加勢したほどですよ」
「……そのへんの話は、わたしも知っている。あれは黄鉄鉱の旦那がわるい」
「そのとき佐治殿、なんて言ったと思います? 自分には、万にひとつもそうしたうわさや話題で不安にさせたくない人がいるから、絶対にやめてほしいと、はっきり言ったんです。その相手が、あなただと勘ちがいしている連中もけっこういたが、ちがいますよね?」
イスカは無言でうなずいた。
「この男は、なにか重要な秘密を、あなたにも言えずにひとりで抱えているんですよ」
イスカはやすらかな寝息を立てている鹿嶋の背中を見ている。
「ちゃんと、質したほうがいいと思うな。俺は」
「その必要は……ないと思うが」
問いただすことを迷っている。こんな迷い方は、鹿嶋相手でなければしないだろう。古瀬はもう少しだけ説得をこころみる。
「でも秘密を正しく知らないと、それが暴露されて佐治殿が窮地におちいったとき、助けられないですよ」
「……人があえて隠している秘密をほり下げても、なにもいいことがないよ。鹿嶋なりに、かくす必要があると思ってやっているんだ」
「イスカさんは、佐治殿がかくし立てする相手についても、おおよそ見当がついているようだ」
「そういう、古瀬くんもじゃないのか」
「……じゃ、なんとなく佐治鹿嶋の秘密に気づいている同志として、この男が何かやらかしたときは、俺も佐治殿についてやると約束しておきますよ」
「鹿嶋は、古瀬くんのこときらいじゃないよ」
「そりゃ光栄だ。俺はこういう好青年とは、本来相性が悪いんですがね」
「たぶん、嘘をつかないからじゃないかな」
「嘘をついて得する場面のほうが少ないから、そうしているだけだ。特にあなたの管理する職場では、正直でいたほうがいい目を見られることが多い。あなたは誰がそうなのかよく見ているし、そういう人間のほうを取り立てる。だから念のため聞きますが、佐治殿がいまのままで、あなたつらくはないんですか」
こんなにも信頼している相手に、かくし事を作られて、仲月見イスカという人は傷つきはしないのか。
「大丈夫だ。悪意があってやっているのではないと、信じているから」
その言葉は、けっして虚勢ではないようだった。古瀬は仕方ないなと笑って、この話を閉めた。
「とても大切なものなのです。本人も気にしているが、ここにはどうしても来たくないと言うので、わたしが代理で来ました」
鹿嶋が上着を奪われた芸妓がいる置屋ののれんの向こうで、イスカは失せ物を返すように交渉していた。
だが、肝心の芸妓本人が部屋から出てこないし、取ったものも返さないと言っている。鹿嶋本人が来れば、考えてやってもいいと言う。
「佐治鹿嶋は、もうここには来ません」
イスカはそれだけは譲らず、徹頭徹尾言いつづけた。
「イスカさま、もうやめましょう。時間の無駄ですよ。こちらが誠意をもって対応しているのに、むこうがこの態度じゃあ埒があきません。わたくしが行って、よく諭してまいりますから」
自分が所属する花街で起きた騒動ということもあり、交渉にはイスカの定宿紫鶴屋の芸妓、三津も同行していた。
三津は騒動のおさめ役をみずから買って出てくれた。
「ありがとうございます。でも……置屋同士のいさかいは避けたいでしょう?」
「かまいませんよ。今回は大事なお客さまのお召し物をどうにかしたんですから、非がどちらにあるのかは明らかでしょう」
三津はイスカを階下において、しずしずと階段をあがっていった。しかし自分の姿がイスカから見えなくなったと確認すると、足早に二階の廊下をすすみ、灯りがうつる障子を勢いよく開け放つ。
「あんた、三津……」
芸妓の最高位、太夫の称号をもつ三津を前にして、女はなにか言おうとするが、もっと勢いのある啖呵に切りすてられる。
「ほら、さっさと出しな。持ってんだろ」
三津は遠慮なく部屋に押し入り、鹿嶋を陥れようとした女に迫る。
「はやく」
女は三津の鋭い目つきと剣幕に押され、行李のなかから風呂敷づつみを取りだす。
鹿嶋の上着はしわもなくきれいに畳まれ、宝物のようにたいせつに絹の風呂敷に包まれてた。
「……なにやってんのさ」
三津はそれだけで、この女がどれだけのものを鹿嶋に向けていたのかわかってしまう。
子どものような年齢から花街に身をおく女にとって、佐治鹿嶋が毒のような男であるのはたしかだった。
同席している同僚がよくない酔い方をしていれば、あいだに入ってさりげなく引き離してくれるし、本人は深く飲んで酔うほど、世話をしている鷲獅子の話と、むかし関わりがあった猫の話、それから好きだった女のことしか話さなくなる。
その女以外、どこにも特別がいないような顔をして、平気でやさしくしてくる。なんの見返りもなくやさしさを見せる男を、この街の女は知らないから、だからそれは毒なのだ。
「もっとうまくやんなよ。話聞いてやるふりしてさ、一緒にいる時間を長くすりゃよかったんだよ。聞いてる限り、鹿嶋さまはその想い人の話を、だれかとしたくてしょうがなかったんじゃないかい」
聞いてやりゃあよかったじゃないか、と三津は言う。
「だって、あたしは鹿嶋さまの好きな人の話なんか聞きたくなかった」
女は悲し気にまつ毛で影を作っている。まだ若い。悪くない顔をしているのに、自分の武器をわかっていない。
「だから下手くそだって言ってんだよ。そもそも客に本気で惚れるなんて、ずぶの素人じゃないんだから、わきまえな。鹿嶋さまはね、もうここには来ないよ」
女がまだ何か言おうとするのを、三津のさらに後ろから飛んでくる声が制する。
「鹿嶋は傷ついている。その傷をなかったことにして、君にやさしくしろとは、わたしは彼に言えない」
「い、イスカさま!」
三津があわてて横によける。
「すみません。やはり三津さまだけにお任せするのは気が引けたので」
イスカは目を伏せる女のまえにすわった。
「きっともう、鹿嶋はここには来ない。体を武器にすれば、男はだれでも喜ぶと思うのは短絡だよ。あなた自身の価値もおとしめることになる。ここではそうしなくていい芸事を、必死で身に着けたのではなかったのですか。あなたには、もっと素晴らしいところがたくさんあるのに」
イスカは心の底から残念そうに、「あなたの三味線、好きでした」と言い残して、外に出ていった。
「三津さま、ありがとう。助かりました」
イスカは三津から鹿嶋の上着を受けとると、晴れやかに礼を言う。
優しい人だけど、守るためなら容赦がないなと、その笑顔を見ながら三津は思う。あんな言われ方は、場合によっては一番堪えるだろう。
守る相手が鹿嶋だからだろうか。暗い考えが、三津の心をよぎる。この方は、わたしが傷つき貶められたときも、あのように怒ってくださるだろうか。
「今夜はいらっしゃいますか? わたくし今日、お座敷ひとつしかないんです」
三津の問いに、イスカは元気よく答える。
「行けると思います。久しぶりになにか遊びましょうか。子どもみたいな遊びで。かるたでも、花札でも」
「花札にしましょう」
かるたは読み役を呼ばねばならないから、ふたりきりになれない。
「わたしはこれから、黄鉄鉱の旦那にもひとこと言わなくちゃいけないんです」
「まあ、引佐大佐に?」
「ええ。だから、いまはここで。またあとでお会いしましょう!」
花街のいちばん賑やかな大通りの入り口で、イスカと別れた。振りかえると、朝の静まり返った花の街が自分を迎えてくれる。
——客に本気で惚れるなんて、ずぶの素人じゃないんだから、わきまえな。
三津はじぶんで言った言葉を思い出し、鼻で嗤う。
「……だれに向かって、言ってるんだか」
三津にとっては、仲月見イスカこそが毒だった。
*********
「うちの鹿嶋に変なこと教えないでください!」
イスカは近衛師団の第二連隊本部で引佐荒海に、掴みかからんばかりの勢いで迫っていた。
「いや、俺は、部下とのきずなを作り親睦を深めようとしてだな」
「鹿嶋を特に酔わせてくれと、あなたあの子に頼まれていたのでしょう。どういう結果になるか、薄々気づいていて止めなかった。あなたと部下とのきずなは、こんな相手が傷つくような方法でなければ結べないものなのですか。ちがうでしょう」
「おまえは鹿嶋だから、そんなにがんばるのか。そりゃあ良くない傾向と思うが」
「論点をすり替えないで。上官が部下の職務上の不都合を取り除くのは合理的判断に照らし合わせて有益です。それに、だれが同じような目にあっても、わたしはどちらかというと、人として放っておけません。もしあなたが似たような流れで傷つけられたら、その時はあなたのために、全力で相手に抗議しますよ」
引佐すら助けてやると宣言したところで、耐えきれず笑いながら古瀬が割り込んだ。
「ぐうの音もでないじゃないですか。旦那。ここはあきらめて、うんと言っておいたほうがいい。理は仲月見少佐にありますよ」
「わかった。わかったよ。もう鹿嶋を無理やり連れまわしたりしない」
「ありがとうございます! これで鹿嶋も安心して職務に注力できます。言質とりましたから! 証人はたくさんいますよ! よろしくお願いします!」
大きな声で言いながら、イスカは遠ざかっていく。
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皇都を流れる川を眺める土手で、鹿嶋は呆然と春の霞を目に映していた。対岸の桜が、薄桜色の雲のように視界に浮かんでいる。
桜だ。桜も見なくては。春のあなたと一緒に。あなたと桜は、きっと絵になると思う。いつかもう一度会えたとき、一緒にやりたいこと、見たいもの、聞きたいこと、そんなものばかりが増えていく。秋には紅葉を、秋のあなたと。冬には雪を、冬のあなたと。季節のいちばんそれらしいものと、あなたを並べている。それくらいしか、いまの俺にゆるされることはないから。
感傷にさらわれて、どこかに行きそうになる鹿嶋を現世にとどめるように、イスカが横にならんで土手にすわった。
「はい、これ」
鹿嶋はイスカから上着を受け取る。
「……ありがとうございます」
鹿嶋はこれすら自分ひとりで取り戻しに行けなかった。
「情けないです」
「なにが?」
イスカは心底わからんという顔をしている。
「鹿嶋。君は今回とても傷ついていて、わたしは君をたすける意思を持っていたし、実際それができた。ものごとは解決にむけて潤滑に機能し、君が情けなく思う必要はどこにもない」
イスカは首をかしげ、もう少しだけ考えようとしている。
「まあ煙に巻くようなことを言ったけど、弱みをさらしづらい人生でも、せめて君とわたしだけは、弱さを見せ合うような関係でいようか」
だからもう、大丈夫だ。
そう言うイスカの慈愛の笑顔に、なにもかも話してしまいそうになるが、それはいつか二人して、手をとり合って言いに行きたい。
またもう一度、あなたと会えたら。
人がたくさん歩いているとびっくりする。前にいる人の肩を見すぎて、横から来た人間にぶつかる。
本当は髪がまっすぐでないのを気にしている。なのに夢中になると、髪を指にまきつけて、もっと巻いてしまう。
猫が好き。仔猫が好き。仔猫がいると、人の話を聞かなくなる。
晴れている日が好きで、でも雨の日も不機嫌ではない。
俺がある夏に、夏だけですごく背が伸びたことを言ったら、「ヘチマみたいですね」と言った。
好きな食べものは、わらび餅。でももっとあるかもしれない。好きな色も、好きな本も知らない。もっとあなたを聞いておけばよかった。
そして俺は、春と秋と冬のあなたを知らない。でも寒いのは苦手そうだなと、ずっと思っている。
あなたについて覚えていることを、書き出してみた。
もっとたくさんあると思うが、これ以上は増えないような気もしている。さみしいけど、またあなたと会う日までは。




