四 猫とわらび餅、龍の社で
「皇修館の学生でも、護衛や迎え付きで通学する者がほとんどなのに、初日からお一人で登校するなど考えられません」
初日の下校時、鏡子にはそう言われるが、実際にひとりなのだから仕方がない。
鏡子は、下校時の馬車に誘ってくれたが、それを固辞して紗蓉子はひとりで帰る。
どうせ皇女の顔を知るものは、この街にはいない。なにも気にする必要はない。
紗蓉子は初めての街歩きを楽しんだ。
両側にいらかを連ねる大きな通りには、馬車が行き、人力車が行く。走りはじめてまだ数年という、乗り合いバスも通っている。あれには一度乗ってみたい。
おこづかいも持ってこなかったから、どこの店も見るだけだ。けれど、ひとりで気の向くままに好きな場所へ行くのは、とても楽しい。
大通りを一本入って、生活道も歩いてみる。もっと小さな商売をやっている店や、ただ人が住まうだけの家がある。人力車の車夫のたまり場があって、休憩なのか客付きが悪くて戻ってきたのか、数人の車夫が紙巻のたばこを吹かしていた。
袋小路で遊ぶ子どもたちは、駆け回り、歓声をあげる。
わらび餅売りと豆腐売りが、それぞれ鈴とラッパを鳴らしながら通り過ぎる。表通りにはちらほら見られた洋風の建築はほとんどなく、皇都とは趣の異なる街の様子だった。
ここがわたしの国。生まれてはじめて紗蓉子は思う。
すっと足元を通り過ぎていく、赤みの鈍い黄土色の生き物に、紗蓉子は一瞬目を奪われる。
「あ、猫」
やわらかそうなふわふわの毛の、美人な猫が一匹、走り去る。
「待って、猫、猫」
さわってみたいな、さわらせてくれるかな。
皇女宮で動物を飼うことは許されなかった。姉のイスカが、皇后が身まかられたあとに、せめてものお慰みにと贈ることを提案してくれたが、許しは下りなかった。
目の前の切妻屋根の家と家の隙間に、すっと猫は入ってしまう。
そんなと思って駆け寄ると、猫が消えた先にはちゃんと道があった。石畳の小路だ。余計な雑草がはびこっていないところを見ると、手入れがされている。参道かもしれない。
猫に会いたい一心で、薄暗い小路の先を目指す。少し先に切れ目が見えたが、明けた先は深い竹林だった。まだまだ路は続いている。いつのまにか小走りになっていた。
ふっと竹林が途切れた先に、古びた大きな社があった。なんとなく、鹿嶋と会った場所に似ている。
社の裏側に回ろうとする、細い尻尾が見えた。それを追って、紗蓉子はそっと裏へ回る。
すると社の裏の軒下で、座り込み、さっきの猫の背をなでつけている人物がいた。
「あ」
「佐治……さま!?」
「またお前か」
呆れたように鹿嶋が天をあおぐ。
「す、すみません。あの、お邪魔をするつもりは……」
明らかに顔が嫌そうだ。まだ登校初日だが、誰に聞いても鹿嶋のいい話がなかった。紗蓉子は必死で言葉を探す。
「猫に! 猫にさわりたくて!」
「ふーん……猫ね」
紗蓉子のことを見るでもなく、鹿嶋は猫をなで続けている。もっと何か話した方がいいのか。紗蓉子がさらに言葉を探していると、
「猫、好きか?」
と聞かれる。先ほどよりいくらか表情は和らいでいる。
「好きだけど、さわったことがなくて……」
「手、見せて」
「手?」
疑問に思ったが、紗蓉子はおとなしく鹿嶋の前に片手の平を出す。
「ちがう。両手。手の甲」
短く鹿嶋は指示する。紗蓉子は言われた通りにした。どうやら鹿嶋は爪を見ているようだ。紗蓉子は爪も伸ばすことは許されず、形の良い指先には短く整えられた爪が並んでいる。
少し間をおいてから、彼は今まさに自分がなでていた猫の横を紗蓉子にゆずる。許しが出た。
「こいつはおとなしいから、たぶんなでさせてくれる」
紗蓉子はそっと猫に横並びで、地面に座ると、手を伸ばす。制服であることは、忘れている。
「後ろからな。頭の上とか、やると喜ぶ」
「はい」
なめらかな毛並みにそって手を動かす。初めての猫の感触だった。手を通じても、細かい鼓動の余韻と、骨のあたるので、相手が生きているとわかる。
感動で頬を高揚させる紗蓉子の頭上から、鹿嶋の声がする。
「……この場所は、俺のとっておきの場所だ」
誰も来ないし、猫がいるのが心地よいのだろうか。
「秘密の場所だよ。この間の場所も好きだった。学校から近いし。でも、場所がバレたからもう行けない」
確かにあの手の連中に場所が割れては、不安でもう行けないだろう。
「大丈夫です。私、ここにはもう来ません」
紗蓉子は振り返る。
「……猫、さわれたので」
親指で髭の生えている辺りをもんでやると、猫は目を細めた。かわいい。
それからたっぷりの間があって、
「来てもいい。別に」
あっさりと、鹿嶋は告げた。
「猫、たくさん来るんだよ。ここ」
「そうなんですか!」
「その代わり、誰にも言うな」
「言いません。絶対に」
ひとしきり猫をなでた後、紗蓉子は社を後にした。暗くなる前には帰らなくてはならない。
社を出る直前、古びた堂を振り返った紗蓉子は、虹梁の上を縦横に駆け回るような、見事な龍の装飾を認める。色はあせ、年月のくすみの中に彩色は沈んでいたが、見開いた眼が立体にむき出してせまって来る、神を思わせるような荘厳さだった。
「もともと、龍をまつっている祠だ」
鹿嶋が同じく堂を見上げてつぶやいた。日高見国では、龍は一番に多くまつられる祭神である。建国神話に出てくるもっとも権威ある神が、龍の化身であるためだ。
紗蓉子は龍に見送られながら、その場所をあとにした。鹿嶋は細い参道の入り口までついてきて、道に出ると、紗蓉子に「ちょっと待ってろ」と言って走っていく。その先には、音色のいい鈴を鳴らすわらび餅売りがいた。
「はい」
戻ってきた鹿嶋は紗蓉子の目の前に、包みを差し出す。三角に丸めて円錐状になった紙の中に、わらび餅が盛られている。
「誰にも言うなの、賄賂」
「なくても誰にも言いません」
「いいから食いなよ。うまいよ」
鹿嶋は先に歩き出して、もう自分の分のわらび餅を食べている。歩きながらものを食べるのは、紗蓉子の中では悪いことに入るかもしれない。
どうやって食べるんだろうと横目で鹿嶋を見ていると、付いている小さな木の匙で、すくい取って口に運んでいる。真似をして、口に入れる。冷たくてひやっとして、蜜もかかっていないのに甘い。適当にかけた黄な粉が散っている。
「おいしい……おいしいです。初めていただきました」
「本当かよ? 崩すなよ。これ、紙を丸めて器にしてるだけだから。まだ量があるうちに崩すと、こぼれる」
言われた通りしっかりと持ち直し、紗蓉子は続きを口に運ぶ。
「夏は人気で、放課の時間にはもう売り切れているから、食うなら今くらいが一番いい」
それから鹿嶋はずっと、あの社にやってくる猫たちの話をしていた。
——みんなももっと佐治さまとお話すればいいのに。悪いというより、ただ猫が好きな人。
紗蓉子は冷たいわらび餅を喉の奥に滑り込ませる。
鹿嶋が帰る屋敷は、佐治家が皇修館に子女を通わせるために持っている、通学専用のものだった。父である佐治侯爵は、皇都の中心に近い本邸におり、こちらにはめったに来ない。
それで皇修館に通いだしてからは、わりと好きにしていた。しかしさすがに自由が過ぎたのか、最近は多少締めつけがきつくなっている。
正直、受けた覚えもない躾に則ったふるまいを強要されるのは苦痛だ。
平屋の広い和屋敷で、裏から入ればわからない。もっとも、確かに外は暗いが、十七歳の男子が出歩いて、目くじらを立てられる時間ではない。なのになぜ、鹿嶋がこのようにこそこそと帰宅しなければいけないのか。
裏木戸を開けて、中庭を走り抜ける。靴を脱いで、屋敷の奥につながる縁側に足をかけた時だ。
「鹿嶋」
凍るように鋭い声が、呼び止める。
「遅かったな」
「ええ……はい」
下を向いたまま振り返って顔をあげると、兄である佐治尚隆が立っている。
「なぜ表から戻らない。私に見つかってはやましいことでもあるのか」
「いいえ。正面から戻ると、いろいろと家のものを煩わせることになるので、こちらから」
取りつくろって笑顔を作って見せたが、不自然だったはずだ。あなたと会いたくありませんでしたと、本人を前にして言えるはずもない。
「学校は……」
「通っております。その……きちんと」
先回りして問題がないことをしめす。
「……本日、複数の子爵家並びに伯爵家から抗議を受けた」
「何についてです」
「ご令息がそろってお前に殴られ怪我をなさったそうだ。……謝罪はもう済んでいる」
鹿嶋は拳を握りしめた。親を巻き込んで抗議など、恥ずかしくないのか。だがそれよりも許せないことがある。
「なぜ俺がそんなことをしたのか、理由を聞かないのですか」
兄は答えなかった。
「向こうが先に殴ってきた。なぜ俺の言い分を聞かないで、すぐに謝るのです」
兄は、言葉を探している風でもない。なにも言う気がない。
「信用してないからだろ」
自分の日ごろの行いを棚にあげた発言だとわかっているが、散々放置してきて、数年ぶりに会ったと思ったらこの扱い。せめて一度くらい、何があったか聞いてほしかった。
「あなたは俺が生まれてよかったと思ったことなんて、一度もないのでしょうね」
鹿嶋はその場から走り去る。
兄・尚隆とは、十歳の年が開いている。
二人の母は、鹿嶋を産んだ後にすぐ亡くなったので、疎遠と言えば生まれた時からそうだった。鹿嶋が物心つく頃には、尚隆は立派な軍人であり、侯爵家の跡取りご令息だった。母の命と引き換えに生まれたことは、鹿嶋の疵である。
——俺ではなく、父と兄と、母で佐治家であるべきだった。
なぜこんな、父と兄の名誉を汚すことばかりなさるのかと、家付きの使用人に聞かれたことがある。
——俺だって知るか。
彼はただ、彼がこの世に在ることを喜んでくれる人にいてほしいだけだ。
俺を見て。鹿嶋の行動の原理がそこにあることを、みんなが気が付かないふりをする。