二十二 紗蓉子暁闇 3 2822年
その方は、内藤侯爵とはまたちがう。
笑顔も見せず、最初から値踏みするように紗蓉子を見る視線を隠そうともしなかった。
厚生大臣政務官、青柳金平庶民院議員。
髪をていねいに撫でつけたその男は、つきあいでこの場に出てきたという空気を、あえて表に出している。
今度こそ招かれたのは厚生省庁舎内であったが、紗蓉子は前回以上にこの交渉が難航する予感を得ていた。
紗蓉子は、もう一度最初から用意した資料をもって、青柳議員に、国が困窮者をささえる法を整備する必要性を説く。そのあいだ、資料の隙間から青柳が額にぎゅっとしわを寄せて、必死にしゃべる紗蓉子を見あげる。
紗蓉子が手つだいに訪ねている母子院や救貧院以外でも、炊き出しに集まる人々や、保護をもとめる人々が大幅に増えている。彼らをこのままにしておくことは、犯罪の増大や社会の乱れにもつながる。
子どもは孤児保護院に収容されれば、就学の機会を得られるので、将来的には就業する職の範囲もひろがるし、それは未来の労働力の確保にもつながる。十年、二十年先の国のことを思うのであれば、いま動かなければいけない。
「殿下は」
青柳は、手元の資料をぱさりと卓のうえに放った。見るに値するものではなかっただろうか。紗蓉子は不安になる。
「殿下は空腹にたえきれず眠れなかった夜も、寒さに凍えた夜もお過ごしなったことがない」
青柳は、つまらなそうに自分の爪の長さを確認している。
「せまる命の危険にさらされたことも、目の前で家族が死ぬのを見るしかできない者の無念も知らない」
青柳は、家が貧しく小学校しか通えなかった身の上だが、都会に出てきてから得た人脈とおのれの才覚で、国を動かす中枢にたどりついたものである。その貧しさのなかで、実際に言うような目にあったことがあるのかもしれない。
「青柳さまのおっしゃるとおりです。わたしは、想像の中でしかそのつらさを知ることはできません。ですが、それを知らないものの義務と思って、国の支援を求めてまいります」
現実的じゃないなあ。
青柳は、紗蓉子の言葉をさえぎるように、背もたれに深く体をあずけて吐き出す。真剣にものごとに向き合う態度には見えなかった。
「兄殿下……皇太子殿下はなんとおっしゃっているのです」
「殿下は、わたしだけの力でのぞむのであれば、この件に関してはすべておまかせくださると……」
「ほら、それがこたえですよ」
紗蓉子はくちびるをかんだ。兄である皇太子殿下ですら、けっきょく紗蓉子がなにかを成しとげられるとは思っていないということか。
——ふたりで直面するどんな困難にも、紗蓉子さんひとりを矢面に立たせる気はないので——
鹿嶋さま。
もうあなたは、この世のどこにもいないのかもしれないけれど、わたしはあなたがとなりに立っているつもりで、戦います。
「わたしが、道楽で人助けをしようとしているから、お話をお聞き届けいただけないのですか。わたしがまだ、子どもだからですか」
青柳はだまっている。沈黙をそのこたえとするつもりだ。
「たしかにそのとおりと思います」
十七の娘は、たいていの大人にとって取るに足らない子どもだ。
「ですが、子は、大人になります。五年後、十年後には大人になって、この国の未来を負って立つ若者になります。そうなったとき、この国を愛して、この国でよく生きようとする民を生みたいとは思われませんか。いまここで、子どもや困窮して死のうとする人たちを見捨てて、この国に未来があるとは思えません」
青柳の顔は動かなかった。
紗蓉子は息を吸いこんだ。いま自分は、ここで見捨てられようとしているすべての人のために戦うのだ。
「わたしは……飢えたことも死にかけたこともないけれど、そこにあるはずの苦しみを、なかったことにされるものの悔しさは、痛いほどわかります」
見捨てないで無視しないで、わたしはここにいるのに。
そのわたしとは、子どもであり、女であり、皇女であった私である。
「子どもや困窮する人々を、ないものとして切り捨てるのはおやめください。個人の救う心ではここが限界であると、とうにおわかりのはずです。死が迫るくらしをする人々は、怠惰や慢心もなく、懸命に生きようとして、なお生ききれなかった無辜の民です。彼らを救うことは……国益に……なります!」
絞り出すように言ったあと、紗蓉子の頬には、ひとすじ涙が流れた。
皇女殿下は、青柳がこの場ではなんの答えも出さないことを悟って、ご検討くださいと言い残して、庁舎を去った。
青柳は、記録上、一応小学校は卒業したことになっているが、実はそれすらまともには通っていなかった。
彼は生家のおもな働き手だったが、国策で子どもを小学校に通わせることが親の義務となったため、じっさい通った事実はないがとりあえず卒業させられた。地方の村の教師はそのあたりの事情をよくわかっているから、授業数の大半が欠席でも、それは可能だ。
そうまでして青柳が働いたのは、姉と妹の身売りを避けたかったからだが、時代のせいもあって、親は娘を手放すのに躊躇しなかった。いまの時代なら、もうすこし考えてやりそうなものだが。
そうして彼が十三になるまでに、姉も妹もいなくなった。一家の離散を見届けた青柳は、ひとり皇都にのぼり、今日まで生きてきた。
——あの子どもは。
青柳は、まだ頬にまるみの残る若き皇女の顔貌をおもいだす。
あの子どもは、なにも知らない。ほんとうの困窮、ほんとうの貧しさ。ほんとうのみじめさ。なにひとつしらない。
でも、それでいいのではないか。
まずしさのため家族とはなれることも、寒くても着るものがないつらさも、腹が減ってもなにも口に入らないむなしさも、何ひとつ知らない子ども。
そんな子どもで、国を満たすべきなのではないか。
自分がしたような苦労を、当然下の世代の子ども達もするべきと思い込むような老人には、決してなるまいと思って生きてきたはずなのだが。皇女が残していった手書きの資料をとってみる。読む人のことを考えた、ていねいに整った文字だった。
国の頂点におわす皇族が、あのように涙を流すとは思わなかった。生きる人のためながす、皇族の涙だ。
紗蓉子は厚生省庁舎の近くの公園で、ぼんやりと青い空をながめていた。
——泣いてしまった。
もうこれで省庁訪問のすべてが失敗に終わった。あれではただ駄々をこねて泣いた子どもではないか。暇をもてあました苦労を知らない子どもの道楽と言われても、なにも言い返せない。助けたい人が確かにたくさんいたはずなのに、なぜあそこで耐えられなかったのか。
くやしく思っても結果は出てしまった。紗蓉子は迎えの車が来るまでの間、たばこを売る少女の姿を見にいく。
彼女はまだそこにいた。そして今日は小さな荷車を引いてきていた。その車には、色とりどりの花が詰め込まれている。
「こんにちは」
思わず声をかけた紗蓉子に、少女は「ああ」と返事をした。
「あんた知ってる。よくこのあたり通ってるでしょ」
「ええ、わたし、たばこは吸わないから。いままでなにも買えなかったの。このお花はどこから?」
「皇都の花き市場だよ。妹たちが孤児の保護施設に入れてもらえることになったから、ちょっと遠いけど行けたんだ」
「そうだったの。きれいね」
「いまの時代、花なんて買う人いないかもしれないけど」
少女は扶桑国から流れてきたもので、亡くなった両親は、祖国で花農家をしていたという。いつかこの国でも農園をもちたいと語る少女に、紗蓉子は告げた。
「お花をください。赤いお花を、たくさん」
「紗蓉子さま、これは……」
訪ねてきた鏡子が見たのは、さまざまな種類の赤い花でいろどられた紗蓉子の部屋だった。
「きれいでしょう」
鏡子はそっと紗蓉子のとなりに座る。花瓶のなかの赤い花びらにふれている。
「わたし……鹿嶋さまの好きな色を知らないの」
紗蓉子はさみしそうに笑った。
「おかしいでしょう。でもずっといっしょにいるつもりだったから、ふたりで暮らしながら、少しずつ知るつもりだった」
鹿嶋のどんな小さなことも、少しずつ知りたかった。
「鹿嶋さまは、もう亡くなっているのかもしれない」
悲しみよりも、覚悟の決まった紗蓉子の顔だった。
「生きていらしても、わたしには知るすべがない。だからこのお花を飾るの。お墓も、ささげる先もわからないから、わたしの部屋に」
鹿嶋が、紗蓉子は赤が似合うと言ったから。色についての思い出は、それしかないから。
「たとえ鹿嶋さまがもうこの世にいなくても、わたしは、わたしだけは……あの方と会ったことを無駄にしたくない。皇女宮にずっとこもりきりでは気づかなかったことを、鹿嶋さまが教えてくれた。わたしがすべきことを、示してくれた」
佐治鹿嶋と出会ったことには、意味があった。この命が終わるとき、胸をはってそう言うために。
「わたしは、わたしの使命と思いさだめたこの活動だけは、なんとしてもやりとげます」
そのとき、女官があらたな来客をつげに居室のまえにやってきた。
「紗蓉子さま、どなたかと約束がおありですか?」
鏡子の問いかけに、紗蓉子は首をふる。
女官のうしろをすり抜けるように部屋のまえに立ったのは、小槻凛子だった。
「凛子さま!」
「まあなんていう驚きようですか。わたくしだって紗蓉子さまのお友だちでしょう? そうでしょう? ここに訪ねてきておかしいことがありますか?」
「え、ええ。そうです。おかしくありません」
紗蓉子は皇修館をはなれて以来、凛子とはいくらか手紙のやりとりをしたが、皇宮のなかまで会いにきたのはこれが初めてであった。
よく許可が下りたものだと思うが、凛子は皇修館在学中に、鹿嶋と紗蓉子がらみでふたりに便宜をはからなかった。なんの危険もない人物と判断されたのかもしれない。
凛子はいま紗蓉子が取り組んでいる活動や近況について、かいつまんだ話をきくと、
「いいことを思いつきましたわ。わたくしと鏡子さまがさっさと結婚して、嫁ぎ先の旦那さまを唆して、紗蓉子さまの活動に寄付をするのです」と元気よく宣言する。
「唆すとは……」
「た、多少語弊があるかもしれませんね……」
紗蓉子と鏡子はお互いに顔をみあわせながら、凛子のいきおいに押される。
「仮にその法案が通ったとしても、必要十分以上のなにか、たとえば子どもたちに芸術的活動をさせてあげるだとか。そういったことにはまだまだ寄付が必要でしょう、紗蓉子さま」
「それは、たしかにおっしゃる通りです」
「ねえ紗蓉子さま、くやしいお気持ちがあっても、法律で縛れない人の心はそうそう変わりませんわ」
凛子は、紗蓉子がどういう目にあったか、なんとなく気づいている。
「でもわたくしたちはこれから自分たちよりもっと下の世代と関わる未来があります。自分で子を産むかもしれないし、国の教育にたずさわる機会もあります」
下の世代につなぐというのは、困窮する人々、特に子どもを助けたいと願う紗蓉子の心にも通じる気がした。
「そうやって世代を経るごとに、いい未来に変えていける可能性がありますわ。そのころには上を圧迫しているお年寄りたちも、みんな死にます」
「い、言い方がいちいち……」
「なかなか忖度のない物言いをされますね……凛子さま」
「現在はだめでも、あとを生きるものたちのために、私たちは諦めるべきではないのです。だから、元気を出して。そういえば、こんど国軍の観閲式があるではありませんか。今年は周年行事で、いつもより規模が大きいのでしょう? たまには紗蓉子さまもご臨席されてはいかがですか」
凛子はこの機会に外に出ることが、かならず紗蓉子を元気づけると信じているようだった。
「わたしはどうせ国民の皆さまの前には姿を出せませんし……」
「それでも! ご覧になるだけなら大丈夫でしょう!?」
「え、ええ。それは確かに」
「なら! かならずご覧になるべきです!」
かならず! と力強く念押しする凛子に押されて、ついに紗蓉子は「はい」と返事をした。国軍観閲式まで、あと二週間と迫ったある日の午後だった。




