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二十一 紗蓉子暁闇 2 2822年

 文部省大臣政務官内藤莞爾(ないとうかんじ)伯爵。

 先代もご存命だが、はやくに家督をゆずって早々に隠居されている。そのため、まだ二十代前半という若さで、大臣政務官を務める優秀な人間だと聞く。


 その若さゆえ、国の根底を支える教育や福祉の改革に非常に意欲があるらしい。紗蓉子(さよこ)日高見国(ひたかみのくに)の福祉の現状をまずは知ってもらおうと、資料をたずさえて彼のもとを訪ねた。


 招かれた場所は、なぜか省庁舎ではなく、内藤侯爵家であった。政務官ともなれば、公わたしの別なく仕事にかかるから、こうして公的な面会者を侯爵邸へ招くこともあるのかもしれない。


 紗蓉子は侯爵邸の応接間と思われる部屋で、内藤侯爵の現れるのを待った。


 やがて現れた侯爵は、細身で背が高く、いかにも国を背負って立つにふさわしい青年議員といった姿だった。


「お待たせして申しわけありません」

 

 笑顔で紗蓉子の前に座った彼は、まだ若く女である紗蓉子を侮る風でもない。


 まともに話を聞いてもらえなかったらどうしようと不安を持っていた彼女は安心した。そして内藤侯爵にぜひとも知ってもらいたい事柄について、資料を取り出そうとした。その紙を繰る手を、侯爵の手が押しとどめる。


「え……? あの……」


 とまどって視線も定まらない紗蓉子に向けて、侯爵はやさしく笑いかける。


「大丈夫。すべてわかっておりますから」


「す、すべて? いいえ……! こ、これからご説明させていただくのですから……」


佐治鹿嶋(さじかしま)は残念でしたね」


 鹿嶋の名が出て、紗蓉子は見るからに動揺した。どこから知ったのであろうか。


「彼、死んでいますよ」


「……うそです。わたしはネールランド紛争で亡くなられた方の名簿をすべて拝見しました。鹿嶋さまの名は、どこにもなかった」


 佐治鹿嶋は生きている。明確に確証はなくても、戦死者名簿に名がなかった。それだけが紗蓉子の希望なのだ。


「あなたにその名簿を用意したのは、だれです」


「だれ……?」


朱華邸(はねずてい)の人間ではないのですか」


 そのとおりだった。紗蓉子が手に入れた名簿は、細工されていたというのか。


「は、朱華邸の者は、鹿嶋さまが亡くなられたほうが都合のいいものばかりです。わたしに妙な希望を持たせる意味がありません」


「鹿嶋の死を知って、あなたが自害でもしたら困ると考えたのでは?」


 動機がして、呼吸が浅くなってくる。うまく息が吸えなくて、紗蓉子はめまいを感じた。


 もしも佐治鹿嶋が、もうこの世にいないのなら。


——わたしが生きている意味はあるのでしょうか。


 倒れそうになる体に内藤侯爵の手が伸びてきて、紗蓉子は残った力をふりしぼって、なんとかそれをふり払おうとする。




「紗蓉子さま!」


 二頭立ての馬車から転がるように鏡子が出てくる。


 紗蓉子(さよこ)が内藤侯爵邸に入って間もなく、侯爵邸のちかくの交番の電話から、豊忍家(とよおしけ)の鏡子あてに連絡があった。


 どうか迎えに来てほしい。朱華邸に知られると、また事が大きくなり、自分はあらゆる活動を制限されそうだから。と、震えすらある声で訴える紗蓉子の様子に、鏡子はいそぎ馬車を走らせて駆け付けたのだ。


 紗蓉子(さよこ)は、交番のまえの小さな並木道の木陰で、心細そうな顔をして座り込み、待っていた。

 

「お顔色が……どうなさったのです」


 紗蓉子の顔は、青をとおり越して白く血の気をなくしている。


「お話し合いは良く運びませんでしたか?」


 答えない紗蓉子は、しずかに鏡子から視線を逸らした。


「……婚姻相手を探しにきたのでしょうと言われて……」


「は?」


降嫁先(こうかさき)が決まらずご不安で、こうした訴えを口実に、外に出てお相手を探しているのでしょうと……伯爵はおっしゃって」


 鏡子は全身が粟立(あわだ)つように怒りで震えた。


 真剣で、切実な紗蓉子の訴えを、そのように下卑た思考で眺めいることなど許されるはずもない。


 鏡子は会ったことがないが、紗蓉子のことをなによりも大切にしているという、異母姉仲月見イスカの耳に入れば、骨も残らず焼き尽くされることまちがいない蛮行である。


「何か妙なことをされたのですか!?」


「いいえ、なにも。手を握られ、肩を抱かれそうになったので、怖くて……逃げてまいりました」


 鏡子は言葉をなくし、ただ紗蓉子のそばに座って寄りそう。


「くやしい……」


 紗蓉子から聞きなれない言葉が漏れるが、当然湧き上がる感情である。


「鹿嶋さまに……会いたい」


 意識せずに、くちびるの反射で出てしまったかのような、細い声だった。


「紗蓉子さま?」


「わたし、鹿嶋さまに会いたい」


 今度はしっかりと意志を持った声だった。


「鹿嶋さまなら! 鹿嶋さまならそんなこと言わない!」


 こぼれ出る涙もぬぐわずに、紗蓉子は叫んだ。


「そ、それは……それはそうでしょうとも!」


 鏡子もつられて大きい声が出る。


 皇修館をはなれても、紗蓉子が鹿嶋を恋しがって泣くことは一度もなかった。二年耐えてしのんだ心を、無遠慮な男の劣情がふみにじっていった。


 くやしい、鹿嶋さまに会いたい、くやしい。そう繰り返し、子どものように声をあげて泣く紗蓉子の体を、鏡子も泣きながらしっかりと抱きしめた。


 なぜ懸命に生きようとすればするほど、幸福と誠実は遠ざかっていくのか。


 もうこの世にいないかもしれない愛する人を想って、紗蓉子の涙はとまらなかった。




——資料をまた作り直さなければならない……。


 あたらしい法律を作成するには、まずは法律案を提出しなければならない。それが提出できるのは、議員か内閣と定められている。


 確実な立法をめざすには、関係省庁への根回しも必須である。紗蓉子はまず、法律案を作成提出してくれる議員探しと、関係省庁との関係づくりを進めようとしている。


 紗蓉子は次回の厚生省大臣政務官との面会にむけて、ふたたび資料をそろえながら母子院等に通い続けていた。その道すがら、もう何週間も見るたびに気になっている少女がいる。


「とめてください」


 車窓から街の様子をよく見たいと思って、紗蓉子は車をとめた。


 歳は紗蓉子より少し下くらいだと思う。目鼻立ちのはっきりとした、気の強そうなきれいな少女である。彼女は皇都の大通りのわきの小路の入り口で、たばこを売っている。


 そのたばこが、見るたびに減っていることが紗蓉子は気になっている。補充される気配がない。このたばこがすべて売れてしまったら、彼女はどうするのだろう。


 いまの日高見国(ひたかみのくに)では、どこの孤児保護院も十三歳以下の子どもしか保護できない。資金に余裕がないためだ。


 大人の都合でまだ子どもだと軽んじられることもあるのに、一方ではもう十分働けると、子どもの範疇(はんちゅう)から切りすてられる。


 あの女の子も、どこかで幼い兄弟が待っているなら、自由に働くこともままならないだろう。売るものがなくなったあとの彼女のゆくすえが、女がたどる最悪のものになるまえに、なんとかしなければならない。あの子が間に合わなくても他の子が、そのような道筋をたどらないために。

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