二十 紗蓉子暁闇 1 2822年
2822年
葛城一陽はため息をつきながら、祖国日高見国から届いた国際電報を握りしめている。
「どうしたんですか、一陽さん」
テントの入り口を押し上げて入って来たのは、一陽の父、葛城子爵家当主通泰である。
通泰は、かつて周囲の圧力にあらがえず軍に身を置いたこともあるが、いまは人生を賭けた趣味である星の研究で生活を立てている。見た目より頑固な人である。
一陽はその父の海外での研究活動についてくるという名目で、今春に入ったばかりの大学に籍を置いたまま、海を越えた。
「友人から電報が届きまして」
一陽は紙をひらりと空中で振った。
「海外まで手紙をよこしてくれるなんて、いい友達じゃないですか。よくここがわかりましたね」
「父さんが世話になっている現地の大学に届けられていたのを、やっと受け取ったんです」
「手紙を受け取ったわりには、浮かない顔ですね」
星を待つテントのなかで、父は湯を沸かし始める。そろそろ食事の準備をしなければいけない時間だ。
「ただの……頼みごとだったので」
一陽はもう何度も見返した電報をふたたび開く。なつかしい名前がそこにはあった。
佐治鹿嶋。高等部二年の夏に、突如皇修館から去り、それきり会っていない友人である。
戦争から戻っているとは聞いていた。そして軍人になるために努力していることも。彼からはなんの音沙汰もなかったが、便りがないその理由を、一陽は承知している。
二八二〇年の夏、鹿嶋は皇修館で学生を負傷させる暴力事件を起こし、同時にお忍びで通っていた紗蓉子殿下との関係が発覚した。鹿嶋は全ての非を負わされ、愛する人を奪われた末に戦場へ送られる。
父の佐治侯爵は、事件後は鹿嶋を勘当同然のあつかいをした。戦場から帰還しても佐治家にはもどれず、さらに皇修館時代の友人との関係を絶つことを鹿嶋に強いた。彼はそれを受け入れた。
一陽と鹿嶋の友人関係も、そこで途切れた。そう思っていた。
「どんな頼み事なんです」
父は座り込む一陽に手伝いを頼むでもなく、夕飯を仕上げていく。
「大した頼み事ではないのですが、いまの俺にはかなえてあげるのが少し難しい……です」
その手紙には、一言「観閲式に出る」と書かれていた。
観閲式は、国軍創立記念行事として、毎年九月に皇都で行われる。
国軍の最高指揮官である皇帝陛下の観閲を受けることで、軍属の者たちの士気を高揚させる。さらに国軍の主力と軍の錬成を内外に知らしめ、国民からの信頼を得ることを目的とする行事だ。
今上の陛下は、長く臥せっているため毎年皇太子殿下が名代としてご臨席されている。とにかくそこに、なんらかの形で鹿嶋は出る。それを自分に知らせてきた理由に、一陽は気づいていた。
——紗蓉子さまに知らせる手立てがないんだろう、鹿嶋。
連絡をとることを禁止されている人間に、電報をよこす。鹿嶋がここまで必死なのを見て、一陽は、紗蓉子殿下は彼が生きて戦場から戻ったことを、まだご存じないのかもしれないと思い至る。
まったく残酷な事実だが、紗蓉子さまの近くにいるあらゆる人間が隠そうとすれば、可能なことである。なにしろ彼女は皇宮の中の皇女宮で、半ば虜囚のような生活をしている。鹿嶋の存在が明るみになってからは、その締め付けはさらに強まったのではないか。
——知らせたいのか、鹿嶋。自分が生きていることを。
これ以上、愛した人が絶望で悲しまないように、せめて自分は生きていると伝えたい。
皇族である紗蓉子さまは、望めば観閲式を観覧できる。逆に言えば、望まなければおそらく観閲式にはいらっしゃらない。一陽は電報を強く握りつぶした。
鹿嶋の事件のあと、一陽や豊忍鏡の家にも圧力がかかった。自分が鹿嶋といまでも関りを持っていると知られれば、かならず家族に迷惑がかかる。
でも、助けたい。他に頼る者がどこにもおらず、そのときに思い出したのが自分だとしたら。俺は友としてその気持ちに応えたい。かなえてやりたい。
どこが罪なのだ。愛する人の目にうつりたい。言葉を交わせなくても、生きていると知ってほしい。その願いのどこが、罪だというのだ。いったいだれを傷つけるというのだ。
「父上」
改まった呼びかけに、父・通泰は火を止めて一陽の前に座った。
「君は、皇修館高等部の後半、それはひどい顔をしていましたよ」
「ああ。そうですか?」
一陽は、唐突な父の言葉に、恥ずかしそうに頭をかいた。なにか気づいているのだろうか。
鹿嶋がネールランド紛争で命を落とすようなことになっていたら、自分はどうなっていたかわからない。せめて生きて戻って来たという事実があるから、まだ一陽も救われた。鹿嶋にも、そのあとがある。
「父上、わたしは……友だちを助けたいです」
友よ、もう二度と会うことはなくても、君は俺の友だちだから。
「方法はあるのですか。さっき難しいと言ったでしょう」
「あります。でも、父上に迷惑をかけるかもしれません」
いま、鹿嶋はどれだけ皇宮から警戒されているのか。鹿嶋がネールランド紛争から戻り、そのまま軍人になることを許された過程には、いったい何があったのか。一陽にはわからない。
確実なのは、鹿嶋に手を貸すことは、責められる事実となりうるということだ。それが誰も傷つけなかったとしても。
「もうね、返還してもいいと思っているんですよ」
「え?」
「爵位」
とんでもないことを言い出す父の顔を、一陽は驚きをもって見る。
「なくても困らないでしょう」
一陽はなんとも言えない。爵位を持っている特権も多いが、それに付随する責任も多い。一陽は、その特権と責任の重さを、まだすべては知らない。
「父上はそれでいいのですか」
「いいです。僕は星が見たいだけなので」
それだけは、絶対に真実だとわかっているから、一陽は笑った。
「一陽さん、思うように生きてください。それを邪魔するものが葛城の家と爵位なら、なくてもいいんですよそんなもの。僕は、あなたが皇修館を卒業するまで、ずっと心配でならなかった」
確かに、ここで鹿嶋を助けなければ、自分はあのふたりをもてあそんだ大人に片足突っ込むことになる。自分で自分の存在と心を汚す行為だ。父はそれを止めてくれている。
「ありがとう……ございます」
一陽はしずかに頭を下げる。
紗蓉子と確実にわたりのつく豊忍鏡との関りは完全に断たれている。
また豊忍家は家柄からみても、鹿嶋に好意的であるとは考えられない。そして朱華邸に男は入れない。皇修館時代の友人でも、男子生徒からの手紙であれば、紗蓉子殿下の手にわたる前に処分されるおそれがある。
一陽は、考えられる限りの人物を思い出し、皇女紗蓉子に鹿嶋の生存を伝えられる存在を探し続けた。
朱華邸を囲むように植えられた木々が、大きな影を作っている。どれも樹齢が長い立派な広葉樹だが、少々育ちすぎている。上からかぶさる枝のなかに、隠されるように建つ朱華邸は今日もしずかだ。
豊忍鏡子は数週間ぶりに皇女宮朱華邸を訪ねる。二年前に紗蓉子が皇修館から戻ってから、朱華邸に出入りを許される人間の数はさらに減った。鏡子は数少ない紗蓉子の友人として、それがかなっている。
「紗蓉子さま」
「ああ、鏡子さま」
振り返って、紗蓉子はふわりと笑った。そのやわらかな物腰と対照的に、紗蓉子の居室は大量の書物と紙で埋め尽くされている。もう一年以上、これが常態化している。
「ごめんなさい。かたづいていなくて」
「いいのです。だって今、大事な時期でしょう」
「はい」
「あれからどうなっているのですか」
紗蓉子と鏡子はふたりで一緒に、なんとか座れるくらいに室内を片付けながら、離れていた間のことを伝え合う。やっと下の畳が見えてきた。
「やはり大臣閣下に直接お会いすることは難しいみたいで」
「紗蓉子さまでも?」
「ええ、仕方がありません。わたしにはなんの実績も力もない。会われる方にも利益がありません」
紗蓉子はいつも自分の存在と能力を、冷酷すぎるほど確かに分析する。それはときに、鏡子がせつなくなるほどだ。
「でも、大臣政務官にそれぞれ目通りが叶う予定です」
「まあ、では文部省と厚生省の?」
「はい。明日、まずは文部省大臣政務官の内藤さまに」
「貴族院の議員をされている方ですね。まだお若いのでは」
「お父上のあとをついで、最年少で大臣政務官をつとめているかたです。お若くて国を変える意欲がおありだと聞きます。訴えをお聞き届けいただけるかもしれません」
紗蓉子の鳶色の透ける翠の瞳はきらきらと希望で輝いていた。
紗蓉子がひとり、皇修館からこの朱華邸に戻ってきたとき、この瞳は黒くにごって、生きる意欲は乏しかった。
——五年経ったら迎えに来る。
その不確かな佐治鹿嶋との約束だけで持ちこたえるには、朱華邸は暗く、さみしすぎた。
加えて鹿嶋のおかれている状況は過酷であった。ネールランド紛争に志願・徴兵され、生きて戻らない者の多さを知るたび、紗蓉子は鹿嶋と逃げる決断をしきれなかった自分を責め続けた。
紛争が終わっても、鹿嶋の安否はわからない。だれも紗蓉子にそれを伝えない。
紗蓉子は、せめて鹿嶋の生死だけでも知りたいと願い、数万に及ぶネールランド紛争の戦死者の名簿の名を、ひとつずつ自らの手で確かめていった。その中に鹿嶋の名があれば、それは愛する人の死を意味する。名を探しながら、その名がないことを願う。矛盾する行動と心に、紗蓉子の神経は衰弱していったが、やがて彼女はその名簿に別の意味を見出す。
「なくなった兵のご家族は、十分に満たされてお暮しでしょうか」
ある日そう言った紗蓉子の使命に満ちた目を、鏡子は今も思い出せる。
軍に取られた夫や父を喪い、生活が困窮を極めている人々は、紗蓉子たちの思うよりずっと多かった。戦場となった扶桑国からの難民のなかには、両親を亡くし孤児となった子どもも多い。
紗蓉子はそのものたちの行く末を追ううち、貧しい子や親子を救う施設や活動が、個人の善意と熱意、そしてわずかな寄付でまかなわれていることを知る。
もはや個人が救うには限度があるほど、この国には救いを求める人があふれている。
「これがわたしの使命と思い定め、明日はそれを果たしに参ります」
力強く宣言する紗蓉子に、鏡子もうなずき返す。皇女紗蓉子は、彼女なりの戦場へ向かおうとしている。




