十六 未明の来訪者
夜明けまえで、皇都はまだ暗い。
東の空の白みすら見えない。
だれも通らない夜の皇都を、ふたりは手をつないで歩いた。紗蓉子は頼るように鹿嶋に身をあずけながら歩いている。
肩と胸にかかる彼女の重さを、自分が負った責任のように思って鹿嶋は進んでいる。
「寒くはない?」
問いかけると、紗蓉子は小さくうなずいた。
でも、どこかで休ませてやりたいと思う。夜じゅう歩かせるつもりはない。鹿嶋にはやりたいことも、やらなければいけないことも山のようにあるが、どれも紗蓉子の健康を差し置いてまで進めようとは思わない。
「映画、見たくない?」
「え?」
うつむいていた紗蓉子の顔があがって、まるい瞳が鹿嶋を見ている。うれしくなった。
「活動写真だよ。いまは、映画って呼び方がいいらしい」
「わたし、見たことありません」
「じゃあ、ちょうどいいね」
こんな真夜中にやっている興行があるのかしらと紗蓉子の顔が言っている。
鹿嶋は入り組んだ路地を抜けて、廃墟のようなレンガ造りの建物が両側にならぶ通りに出た。
この通りは、西文化政策の先駆けとして、三十年以上前に洋風の建物がおおく建てられた。しかし、いまの流行の建築とはすこし違っているし、あれから洋風建築もめずらしくなくなったから、ここに入る店はすっかり減ってしまった。
そのなかでも、かろうじて手入れがされているビルのまえで、鹿嶋は立ち止まった。入り口をうかがうような仕草をする。
「よかった。やっているみたい」
鹿嶋は迷わず紗蓉子を連れて、入口のすぐ横につながる地下への階段をおりた。
目の前に急にあたたかみのあるオレンジの光があふれて、夜目になれた紗蓉子は目をほそめた。
「地下に、活動写真館があるのですか」
「そう。ここは有名なやつはあんまりかからないんだけどね」
鹿嶋は紗蓉子のそばをはなれると、ねむそうな顔でブースの奥に引っ込んでいる男から、チケットを二枚買う。男はもぎりも兼ねているようで、チケットはその場で半券になった。
「二本立てで、映画を一日じゅう流している。入れ替えもないし、ずっといたっていいんだよ」
鹿嶋はひとりの休日を、こんなふうに過ごしているのだろうか。
紗蓉子はなんだかほかほかした気持ちで、渡されたはじめてのチケットをながめる。最後の思い出のひとつに、ふさわしいと思った。こうやって思い出を積み重ねていけば、最後には迷わず死ねるのかもしれない。
「つかれたら、ねむって」
「でも、はじめての映画だから、もったいないです」
入り口のとびらを開けると、映写機の光が頭上に見えて、そのむこうに紗蓉子が見たこともない大画面と映像がひろがっている。鹿嶋にうながされて、後方のまんなかの席にすわった。
鹿嶋は最初から落ち着かなかった。
入り口にいたモギリの男は、鹿嶋と顔見知りのなじみだったから、「いま、なかにだれかいる?」との問いに、「男がひとり」と答えてくれた。
ひとりなら、なんとでもなるだろう。
鹿嶋は追手がかかることを心配していた。皇宮を取り巻くあの騒動も気がかりだ。紗蓉子がいないことが露見したとしても、あそこまで物々しい空気にはならない。
なるべく自分が道に明るく、得意な建物に逃げ込んだつもりでいたが、出入り口には常に気を配っている。劇場の照明のスイッチは映写室にしかない。上映中、技師のおやじは映写室に鍵をかけてしまう。職人なのだ。だれかに邪魔されるのをいやがる。
この会場の照明が、いきなりついてふたりの居場所があらわになることはない。だれか入ってきたら、こっそり逃げよう。こんな夜中に映画を見に来るなんて、ろくな連中じゃない。自分たちも含め、行く場所がない訳ありばかりだ。
映画はもう何度も見たもので、話も、大きな音の出る場面もすべてわかっている。聞きなれた俳優たちの会話を意識のかなたに追い出して、鹿嶋は外の音に耳をすませた。
カシャンと何かが割れるような音がして、鹿嶋はつめたい血が足元からあがってくるのを感じる。
とっさに紗蓉子の手をとった。びっくりしている彼女をよそに、鹿嶋は座席のあいだに隠れるように身を低くした。
「ごめんね。最後まで見られないかも」
劇場の外に出ると、販売用の映画のポスターが丸めてさしてある棚の裏側で、もぎりの男が身をかがめていた。鹿嶋たちが来た時とは反対方向の階段を指さしている。
鹿嶋は自分たちがここから離れるのことが、もぎりの彼にとっても最良だと思って、示された階段をふたりで駆け上がった。
「鹿嶋さま」
「だれか追って来たかもしれない」
紗蓉子の手に力がこもる。鹿嶋もつよく握りかえした。
「俺たちと入れ替わりで、入ってきたやつがいた」
一階にたどり着くと、正面からは出ず、鹿嶋はもう使われていない店舗をいくつか通り抜けて、外に出る。建物のすき間の、路地とも言えない細い空間を走り抜ける。
——そんなに遠くにはいけない。
はやく、たくさん走らせて、紗蓉子が動けなくなってはまずい。
夜があけて人の往来が多くなるまでは、まだ時間がある。人ごみにまぎれて逃げることもできない。正面から立ち向かうしかないが、ひとりならともかく紗蓉子を守りながら、自分はどこまでいけるか。
——やるしかない。
ひとつの区画を走り抜けたとき、とつぜん目のまえに人が立った。視線のすみに金属の反射のきらめきを見て、とっさに鹿嶋はそいつをなぐった。引いて撃つ、最短の動きで、あごに当てる。ひるんだ男の手にあったものをはじいて、のどと水月を打った。
たおれた男の手から落ちたのは、軍用のナイフだった。もっと穏便な方法で来ると思っていた。万が一にも紗蓉子を傷つけるわけにはいかないはずだ。
鹿嶋は、すばやく倒れた男の頭を覆っている衣服をはぐ。
「ちがう」
その男の風貌をみて、つぶやく。
「この国の人間じゃない」
紗蓉子を追っているのは皇宮から差し向けられた連中ではない。
では、だれが自分たちを追っている。
鹿嶋は再び走り出した。
考えながら走っていて、紗蓉子が相当つかれていることを忘れかけた。
彼女は足をもつれさせ、ふたりの手がはなれる。
振りかえって駆けよる鹿嶋の目に、後方から路地に走りこんでくる人影が見える。
狭い路地なら一人ずつ片づけられる。相手が銃さえ持っていなければ。
「紗蓉子、走って!」
引き立たせた彼女をそのまま後ろに送り、鹿嶋は影にむかって走った。やってくる男は、懐に手を入れている。
銃だ。最悪だ。
鹿嶋は撃たれる前の一瞬にその銃に取りつく。射線をずらし、押しのけた手を下げて銃をもぎ取る。銃口を相手に向けたまま、冷静になれと自分に言い聞かせながら数歩さがる。
背後から、紗蓉子の悲鳴が聞こえた。彼女のうでをつかんで、路地から引きずり出そうとする者がいる。
「紗蓉子!」
振りかえって叫んだすきに、ふたたび銃の奪い合いになる。迷わず撃ち殺さなければいけなかった。
——紗蓉子が連れていかれる!
そのとき、路地のさらに奥から、壁をけって飛ぶような動きで頭上をこえ、紗蓉子と男のあいだに割り込むように影が横切った。
次の瞬間、獣のようなうめき声がして、彼女に伸ばされていた手の指が、小指と親指を残して落とされた。
指をなくした男はさらに残った手で銃をつかむが、即座に回転する動きでそれを奪われ、顔に銃把と膝をたたきこまれて動かなくなる。
「鹿嶋、ふせろ」
銃をうばった影にそう言われ、とっさに鹿嶋は奪い合っていた銃から手をはなして身をかがめる。影は迷わず引き金を引いて、腕を撃ち抜き、残った男の手から銃を落とす。
間髪いれず鹿嶋の背を蹴ってとび、抱きつくような形で正面から飛びついたと思ったが、そのまま身をひるがえして相手の背後をとると、首を締めあげ落としにかかる。ものの十秒ほどで、相手は沈黙し、だらしなく四肢をなげだした。
とつぜん現れたこの人物は、敵か味方かわからない。だが、鹿嶋の名を知っていた。
背は鹿嶋より小さい。しかし、せまい路地を壁をけって移動するような、常人ならざる動きをしていた。
男は無言でたおした男たちを見下ろすと、鹿嶋も、そして紗蓉子も通りすぎ、路地をぬけた先へむかう。ふたりはほかに寄る辺がなく、男のあとにつづいた。
建物同士が重なるように建った結果、死に地のようにできてしまった開けた場所で、ほかにも何人か男が倒れている。鹿嶋たちを襲った連中と同じような風貌だ。
これをすべて彼がやったのだろうか。彼は、見た目はそれほど年かさにも見えないが、熟練した戦士の動きをしていた。冷静と沈着のあいだに、無鉄砲と激情を隠しこんだような顔をしている。いまは倒れた男たちをひとりずつ足蹴にして、その反応をたしかめている。
「よしよし、ひとりも死んでねェな?」
その口ぶりから、それは鹿嶋たちではなく、襲ってきた男たちについて言っているとわかる。
「死ぬと死体が残るからなぁ。特に本国じゃあ大騒ぎになるからやりづれェよ」
暴力的な事件を起こしたとは思えない、爽快な言い方だった。
「佐治、鹿嶋中尉だな?」
「はい」
階級で呼ばれ、鹿嶋は自然、背筋をかたくする。
「で、おまえらこれからどうすんの?」
「え?」
まるで休日の予定を聞くかのような調子に、鹿嶋は裏返った声でこたえてしまう。
「なんだよ。なんも決まってねェのか。そこんとこ、よく詰めといてくれよ」
「あ、はい、すみません」
「ま、いいや。そうだ」
男は、思い出したように顔をあげる。
「俺は、国軍省警務連絡班所属、志水清鷹少佐相当官。おまえらを……そうだな。なんとか五日間は逃がすと請け負おうか」
人に名乗ることが少なくてなあ、いまの自分の名前もよく忘れるのよ。と、男は血濡れた手を、倒れた男どもの服でぬぐいながら言った。




