三 遅れてきた騎士
「お、いたな」
鹿嶋は皇修館学内の武道場の屋根によじ登っている。武道場の脇に生えている樫の木から、飛び移って来た。普段はこんな屋根の上に用などないが、今日はここに登る理由があった。
道を歩いていると、樫の木の上で、皇修館の学内に住み着いている猫がしきりに鳴いているのを見つけた。どうやら屋根のうえに、もう一匹取り残された猫がいるようだ。
学内にこっそり住み着いている猫は二匹いると鹿嶋は把握していたが、そのうちの一匹は、妙にどんくさかった。よく足を踏み外して雨どいに宙づりになっているところを見かける。
その猫たちが、二匹そろって樫の木から武道場の屋根に飛び移ったのはいいが、また同じ方法で地上に降りるのを、その一匹がためらっているらしい。落ちても猫ならばケガをする高さではないが、本人が飛ぼうとしないのではどうしようもない。それで、鹿嶋がわざわざ屋根に乗って、降ろしてやることにした。
武道場の鉄板瓦棒ふきの屋根は、思ったより足元がすべる。
「ほら、おいで。友だちのところに連れて行ってやろう」
逃げられたらやっかいだと思ったが、案外すんなり腕に抱かれてくれた。何回か、食い物をやったことがあったのがよかったらしい。
「それにしても、見えないところはけっこう杜撰だな、この学校」
目につくところは体面を重んじて、それなりに手入れをするが、武道場の屋根ともなると気がまわらないのか、たわんでいる個所がいくつかある。
「さっさと降りよう、こんなところ」
鹿嶋が急いでのぼってきた樫の木に戻ろうとすると、金属のすべりに一瞬足をとられかける。あわてて残った足で踏みとどまろうと、一歩力を入れて踏み出したとたん、地面が抜けた。
あるはずだった力をこめる場所を失って、鹿嶋は武道場にまっさかさまに落下した。背中を丸めて猫と頭を守ったが、けっこうな鈍い音がして床に打ち付けられる。
うめきながら、いま自分が落ちてきた屋根にあいた空洞を見あげる。
「最悪だ。くさってやがる」
屋根を固定する心木がくさっており、その下の野地板まで侵食して弱っていた。雨漏りがないから気づかなかったのか?
「手入れをしろ。手入れを。ほら、さっさといけ。人が来るとやっかいだぞ」
鹿嶋は抱いていた猫をはなす。
学内に猫が入り込んで住み着いていると知られれば、潔癖な教師の何人かは追い出そうとするかもしれない。塀でかこまれて屋根も多いこの場所は、猫にとっては悪くない住処のはずだ。
鹿嶋も息をついて起き上がるが、すぐに入り口の引き戸が、大きな音を立てて開かれる。武道場を管理する教師が立っていた。
「鹿嶋! また貴様か!」
「はやすぎるだろ」
「神聖な武道場に土足で! しかもなんだこの……この穴は!」
あの状況で下足を脱ぐひまがあったと思うのか。しかもこの穴は、自分のせいではない。いつかほかの学生の頭の上に屋根が落下する事態をまぬがれたと思えば、手柄と言ってもいいくらいだ。
鹿嶋は脱兎のごとく武道場を飛び出したが、当然教師は追ってくる。
「貴様! それほど嫌ならさっさと学校をやめて、軍でもどこでも行くがいい!」
教師の弁に、鹿嶋も走りながらこたえる。
「俺もそう思います! 先生! なかなか親父の許可が出ないもので! 申し訳ありませんね!」
佐治鹿嶋。
皇修館高等部二年生。佐治侯爵家次男。彼は皇修館入学当初から、その素行を問題視されていた。学校にまともに通う日もまばらで、喧嘩を売られれば、学生相手以外に街中でも手が出る。
鹿嶋に喧嘩を売る生徒も、教師の前では態度を取りつくろう小賢しさを見せるのに、鹿嶋はそれをしないから、余計に心証を悪くする。
試験は休むと延々と追試が追ってくるし、半端な点数をとるとどやされるので、もはや怒る気もなくすような点をとればよいと言って、白紙で出す。白紙で出して怒られたら、次回は解答欄をひとつずつずらして書く。
暇つぶしに投石で学舎の尖塔の屋根かざりを叩き折ったこともあり、また武道場の屋根の上で鍛錬と称して大暴れし、屋根をつきやぶって落下したりしている。鹿嶋が猫のことを口に出さなかったので、今日の騒動は、そういうこととして片づけられた。
彼は貴族子息の通う学校のなかで、異質だった。自分の行動で落ちていく一族の評判、家格によった序列、貴族として期待される体面と、正しいとされる態度。いろいろなものを気にしていない。
しかし、代々優秀な軍人を生み出してきた佐治の家の血なのか、偉丈夫で、黙っていれば精悍な顔つきの学生に見えなくもない。血筋と毛並みは良いが素行は悪い。それが佐治鹿嶋と言う少年だった。
「今日は見事に重役出勤だったな」
中等部から続くの鹿嶋の友人、葛城一陽が、業間に椅子の上でだらしなく伸びている鹿嶋に声をかける。
「今日は間に合うように家を出た。喧嘩したがる連中にからまれて、不運の遅刻だ。ほかにもあったけど……」
「知っている。高等部の三年連中だろ。あいつらの一人が同学の令嬢に想いを告げたら、すでに想い人がいて、それが佐治鹿嶋様だったようだよ」
「それ俺と関係ある? 完全にとばっちりじゃないか」
「無関係とは言い切れないけど、まあ不運だよね」
学校には来たり、来なかったり。ふらりと途中で消えてしまうこともあれば、ふとした学校行事に全力で参加することもある。校内にいれば、昼時になればどこからか姿を現す。腹が減るから。
この気まぐれな猫のような三白眼の男、ある種の女に確実に刺さるらしく、どこに行っても女に騒がれるような派手な人気はないが、佐治鹿嶋さまが好きと公言する令嬢を、常に一定数持もっている。
「俺は、悪人じゃない」
「そうかもしれないが」
「この学校の連中が、お行儀が良すぎるだけなんだよ。ま、それでも今はあんまり妙なことをしたくない。兄貴が帰ってきている」
「佐治尚隆殿か」
「ほかに誰がいるんだよ。俺の素行があまりよくないと言うので親父が呼び戻した。扶桑国への出兵の準備も兼ねているようだが」
数カ月前に扶桑国で起こった武装蜂起は、西方諸国もふくめた複数国が参戦を表明しだして、なにやら規模が大きくなりつつあるという。
「兄上もお忙しいんじゃないか」
「まったくだ。不出来な弟のことなど忘れてくれ。とにかくしばらくはまともに学校にこなくちゃいけない」
その鹿嶋は先ほどから話しながらも、ずっと窓の外を眺めている。
「なにかあるのか?」
鹿嶋の眺めるその先は、中等部の学舎にさえぎられて、狭い空しか見えない。
「いや。登校初日ならそんなに怒られないだろうと思って」
「なんの話?」
「その方は、その……難しい方ですわ」
「難しい?」
「佐治鹿嶋さまのことですよ」
そのころ紗蓉子も、ようやく落ち着いた教室の中で、同じく友人から詰められていた。
紗蓉子の身分が教職員の間で周知されたわけではないと言うが、遅刻に関して特におとがめがなかったのは、その身分のおかげかもしれない。
皇修館生徒の中で、唯一紗蓉子の生まれを知る友人、豊忍鏡子は紗蓉子の母である皇后陛下の縁戚にあたるものである。
何年も前から友人として交流があった。皇女宮にも何度か来てくれたことがある。紗蓉子が皇修館への入学が許可された経緯には、鏡子が同学年に在学中であることも大きな加点となった。
紗蓉子は、さっそく今朝会った佐治鹿嶋という人物について、鏡子に尋ねたところであった。
「鏡子さま、ご存じなのですか」
「ご存じというか、とにかく悪いおうわさばかり聞くお方です」
「悪いうわさとは……?」
「うーんとにかく悪いのです」
悪いとは。紗蓉子が知っている悪いことと言えば、もぎたてのイチジクを冷やさずに温いまま食べるくらいのものである。
「喧嘩をよくなさっているとか」
鏡子はうわさとして聞いたままを伝える。
喧嘩なら、つい今朝方もしていた。
「喧嘩をすることになる理由が、よくわからないとおっしゃっていましたよ」
「紗蓉子様! 佐治さまとお話されたのですか」
「はい、私、道に迷ってしまって、途中でお会いした佐治さまにお連れいただいたのです」
喧嘩のことは黙っていた。鏡子はもっと大騒ぎしそうだし、それは鹿嶋にとっても良くない気がした。