十二 龍惑の鍵
「人が増えるとは聞いていない」
東里から西穏地の魔女殿へお会いする許しが出た日はもう日が暮れかけていた。翌日にあらためて、イスカは函北の町を訪れる。今回の来訪では、鹿嶋と眞夏を連れている。
「彼らは私の部下です。私の意に反する行いも発言もいたしません。それはつまり、西穏地の魔女殿の意にも反しないということです」
東里はまだなにか言いたそうな顔をしていたが、あきらめたのか歩き出す。
「もう師匠に連れていくと言ってしまったから。追い返されても俺のせいじゃないからな」
「もちろん承知している」
鹿嶋は先に立って歩く、魔女の弟子だという少年の後姿を見た。おそらく、世襲で名を継いでいるのでは? とイスカが言う魔法使いの弟子にしては、普通の少年だった。かるさん袴に羽織を着て、自分が特別な人間に、特別な教えを受けているとは、つゆほども思っていない気負わなさだ。
鹿嶋は西穏地の魔女の存在すら怪しいものと今でも思っているが、皇太子殿下は存在の確信をもって、魔女に会いに行けと命じた。
軍属にないだけで、詠唱魔法の使い手は国内に複数いる。鹿嶋も聞いたことがあったが、実際に会うのは、これが初めてである。
崖を切り開いて平らにした土地に、鉤型に配置された家が現れた。屋根は茅葺で、母屋は寄棟屋根。母屋から突き出た先は厩だが、今は何の動物もつながれていない。
「昔は馬がいた?」
「ああ、畑をやっていたらしい。そこで使ったんだと思う。今は二人しかいないから、食べ物は薬を売った金で買うほうが楽だ」
昔は弟子の数が多かったと想像させるものは、他にもあった。井戸も二つある。
「どうして今は、東里ひとりきりなんだろうね」
「知らないけど、兄弟子たちが出ていくとき聞いた話では、もう弟子は俺以降しばらくは取らないと言っていたらしい。このさき増えはしないと思う」
入り口側に回るより前に、厩の奥の軒下の落ち縁に、誰か座っているのが見えた。
「師匠」
東里がそういったのを聞き、鹿嶋は目の前の女をよく見た。
「連れてきたか、東里」
その魔女は、数百年生きていると説得力を持たせるには若すぎた。
無造作に伸ばし続けている直毛の髪と、着流しのゆるい着物に、血のように黒い赤銅色の羽織を肩にかけていた。黒い瞳は、虹彩も含めて炭を砕いたような漆黒だ。
「初めまして。あなたが西穏地の魔女殿か。わたしは仲月見イスカと申します」
イスカは名乗って、鹿嶋たちのことも部下であると告げたが、自身の階級についてはなにも言わなかった。魔女にとってそれは無意味と悟ったのかもしれない。
「師匠、中に」
東里が案内しようとするが、魔女は動こうとしない。
「客をなかに入れる習慣がないんでな。ここでいいか?」
「また……そんなこと言って。俺、ちゃんとそうじしましたよ」
「よけいなことを言うな」
東里はなんとか魔女をなかに入れたがったが、イスカがそれをとどめた。
けっきょく、三人は立ったままで魔女の話を聞くことになる。
「お名前をお聞きしても」
「ヒルカだ」
「姓は」
魔女はそれには「ない」と簡潔にこたえる。
ヒルカが煙管を構えると、少年が自らの指先の灯りで火をつけ、すぐにに下がる。
二、三度吹かして煙をくゆらせると、魔女は話し始めた。
「東里から話は聞いている。貴様、軍属だろう。この時期に軍の人間がやってくるなら、理由は知れている」
いぶした香のような匂いが辺りに立ち込める。
「お前はなぜ龍のことについて知りたい。龍の、何が知りたい」
すでにイスカたちがここに来た理由を、魔女は把握している。
鹿嶋たちは龍の鎮め方、もしくは倒し方を確かめに来た。あるいは、この龍の襲撃の理由を知るためか。なにを知りたくて来たか、と問われると、確かにそれはあいまいだった。鹿嶋はイスカがなんと答えるつもりなのか気になって、彼女の顔を見た。
「わたしは……龍がなんの秩序も持たずに人を襲う存在だとは思っておりません。人と龍は同じ次元にはいないが、もしも言葉が通じ、わたしたちが思ったより理性的であり、彼らが歩み寄ってくれるなら、友達にもなれるかもしれないと思っていた」
それは、耀鋸山で空を渡っていく龍を見ていたころからの願望か。
「今は、どうだ」
「今もそれは、変わっておりません」
鹿嶋には意外だったが、イスカは言い切った。
「わたしたちがつい先日討伐した三頭の龍のうち、少なくとも二頭は……理性があった。闇雲に山を焼き払うことをせず、的確に我々に一番必要なものを壊す知性がありました」
最初に現れた二頭は、確かに狙って人間たちの通信機を壊して回っていた。
「でも、ここにいる鹿嶋が切り伏せた三頭目の龍や、これまでの討伐で見てきた龍のなかには、もうその光を感じないものもいた」
三頭のうち、二頭の龍の目は、まだ黄金色だった。あれは斉京で鹿島に首を差し出した龍の、死に際と同じ瞳だった。
「彼らはどこでそれを失ったのか、わたしはそれを知りたいのです」
「龍が人を襲うのをやめさせる方法ではなく、か?」
「けっきょく彼らが平常に戻ってくれれば、人を襲うこともなくなるでしょう。襲ってくる龍を延々と殺し続けるだけでは、根本の解決にはならない。なにか理由ときっかけがあって彼らが人を襲っているのなら、そうなる前の状態に戻すのが最善です」
そうすれば、人間も救われます。と、まるで物のついでのようにイスカは言った。
西穏地の魔女、ヒルカは、煙管の火皿で赤く燃える煙草を見つめている。
「龍が、これまでの動きとはちがうことをして、突如として人を襲うようになる。その現象は、なにもこれが初めてではない」
ヒルカによれば、皇宮の地下に眠る、古語で記された歴史書の数々に、龍が人を襲うことについての記述が必ずあるはずだと言う。別名、龍の惑乱。
日高見国の歴史書は数も種類も多い。どれも記した人物と、記された年代が異なるが、その歴史書にも、数百年に一度は龍が国土を襲ったという話が出てくるという。
「それが本当だとすれば、神話の一体系として見逃されていそうですね。結果のわかっている戦いを何度も続けるなど、まさに神話です」
「だが事実だ。そのたびに助けを求める者が私を訪ね、私はそのたびに同じ答えを授けてきた。私の授けるある方法については、これまで信じる者もいたし、頭から不信がるものもいた。だが結局、状況が差し迫って他に選択肢がなくなってから、私の言うとおりにするしかなくなった」
「あなたが提示する対処法を取らなかった場合、事態は最終的にどうなるのですか」
「龍の災禍は日高見国にとどまらない。やがて世界を覆いつくすことになるだろう」
「実際その状況まで進行したことは」
「私の知る限りでは、ない」
世界を覆いつくすほどの龍とは、想像もできない。イスカも同じだろう。だが、たった三頭の龍に翻弄された鹿嶋の経験から思えば、それは世界を滅ぼすのに十分な災禍だった。
目の前の魔女は、その災厄を逃れる方法があると言う。あるならば、聞いて試してみない手はない。それがどれほどの困難を伴うものでも、だ。イスカはその内容について踏み込んで知りたがった。
「あなたが授けてくださる方法とは、私のような矮小な人間が成し遂げられるような内容でしょうか」
魔女は、煙管に息を吹き込んで、その火皿を赤く光らせる。
「世界を救う、その答えとは?」
イスカは重ねてたずねた。国難に際し、西穏地の魔女が示す答えとはなんだ。
魔女は自然な動きで煙管をおろし、それを膝にあずけて遠く山を見ている。一本の煙が、柱のように空に向かって立っていく。煙が、風ともいえない空気の動きで霧散するころ、ようやく魔女は話し出した。
「この世界のどこかに人がいる」
「人」
「狂った龍共を鎮める力のある者だ。ただ一人だけの運命を持った、人。そいつが龍の住む銀黎界で自分の命を捧げれば、世界は救われる。いわば運命の子である。それを探せ」
「生贄、ということですか」
「そうとも言える。一人の人間の命で、他すべての生き物の命が贖える。安いものだろう。人のみならず、すべての生き物だ」
「それは……考え方にもよりますね。つまり私は、祖国を含め世界を救うことを望むなら、その運命の人物を探し当てたうえで、彼もしくは彼女に、世界のために死んでくれと言わねばならないわけですか」
「そういうことになる」
「クソみたいな仕事ですね」
そのとき初めて、ヒルカがイスカの目を見た。
「それこそ考え方による。仲月見イスカよ。なんて楽で簡単なことだと言う奴のほうが多かった」
「楽とは到底思えません。そして現実的でもない。どこにいるかもわからない一人の人間にすべてを託すなど、国家が採用する国策にはなりえません」
魔女は落ち縁から立ち上がり、歩き出す。その背中を追うように、イスカは疑問を投げかける。
「もしもその話が本当なら、この世界からたった一人を見つける方法を、あなたはご存知のはずだ」
「仲月見イスカ、翠峻へ、皇都へ戻るがいい。私とお前が会ったことで、新たに動き出すものがあるはずだ」
山の斜面を平らに開いた土地の端で、イスカは崖下に広がる山深い森を眺めていた。
後ろに東里が立ったことに気づいたイスカが、空を見上げる。
「このあたり、何度か鷲獅子で飛んだことがあるのに、住んでいる人がいるなんて知らなかったよ」
「人がいるって思い込みがなきゃ、眼に入ってこないもんだよ」
東里はそれを受けて答え、それから申し訳なさそうに声を沈めて続ける。
「ごめん。師匠はもう、話すことはないって」
「嫌われたかな」
「そうでもないと思う」
「そうか。ならよかった。言われたとおり、わたしは皇都に戻ろう。でも近いうちにまた来ることになるはずだ」
そう言ってイスカは東里に一枚の紙を渡す。
「そこにかければ誰かしら電話に出るし、わたしに繋がる」
「電話なんてないよ」
「友達の家にあったはずだ」
イスカの言う友達の家とは、尊の祖母の店のことだろう。
「目ざといね」
「この件に関することじゃなくても、困ったことがあったらかけていいから」
東里はありがとと言って、紙を懐に収めた。
魔女の弟子が師匠の下へ戻るのを見届けてから、イスカはずっと所在なさげな眞夏を見る。
「我々もそろそろ帰るか。眞夏」
「鹿嶋さんは先に帰っちゃうし、俺も帰りたかった」
鹿嶋はヒルカが姿を見せなくなってから、許しを得て早々に函北の町に戻って帰路についている。
「君も一緒に帰ると言い出したら、けっきょく鹿嶋が残ることになるじゃないか」
「なんで鹿嶋さん帰したんですか」
「もともと夜に用事があったんだよ」
「絶対、紗蓉子さまがらみでしょ!」
「詮索していないので、知らない」
「気にならないんですか」
「ならないよ。わたしは二人が最後に幸せな人生を送れていれば、それでいい」
「そうですか……」
「それよりも、わたしはよほど気になっていることがある」
イスカがスッと視線を暗くしたので、眞夏も黙った。
「皇太子殿下は我が国の古語で書かれた歴史書の数々を口語に訳し、広く国民に歴史を知ってもらいたいとのお考えをお持ちだ。それ自体は趣味だけど、数年前より皇都の研究者とともに活動をしている」
「はあ、歴史書ね」
気の抜けたような返事をする彼にイスカは苦笑する。
「眞夏、兄上は龍の惑乱が数百年の間隔をもって定期的に繰り返されるものだとご存じだったはずだ。西穏地の魔女殿にお会いするなら、当然知っていなければいけない事実だ」
ここまで言われれば、眞夏にもわかる。
「なのになぜ、その話をわたしに伏せていたのかわからない」
「……ただ言い忘れただけとか」
「だったらいいけど。ところで、西穏地の魔女殿は、まるで見てきたかのように、過去の龍の惑乱の話をしたな」
「まさか本当にそれだけの長生きをしているとか言い出すつもりじゃないですよね。非現実的です! って鹿嶋さんが怒りますよ」
「だが、数百年前といえば、世界中で魔法が全盛だった時代だ。何が魔法でできて、何ができなかったかも、現代の研究では定かではない。人の寿命を永らえさせる術が、なかったとは言えない」
イスカの意見に、眞夏はうなってしまう。
「いずれにしても、わたしは何かを隠されている。結局今できることは限られているから、魔女殿の言う通り、皇都に戻って動き出すものを確かめなければ」
※※※※※※※※
今夜の紗蓉子との待ち合わせ場所は、皇都を流れる澄々川の近くだった。川は皇都を縦断して、公海まで流れている。場所を間違っていないか、何度も確認した。時間も間違いはない。でも、彼女は来なかった。
それは問題ではない。またいくらでも会う機会はある。自分たちは大人で、未来についてみずからの責任で話す権利がある。そのはずなのだ。
——君だけを一人、孤独と不自由のなかに残すことは二度としない。
鹿嶋は、夜の皇都を走り出した。雨が降ってきたが構わない。
どうしてこんなに不安になるのか、かなしいのかわからない。ただ今すぐ、紗蓉子に会わなければいけない。
十七歳の佐治鹿嶋が、いかに弱くて考えなしだったか、今では誰よりもよくわかっている。
近衛師団、たくさんの部下、明日の予定、任されている仕事、他人からの信頼、約束、そして仲月見イスカ。
今の自分は、何も持たなかった十七歳の自分ではない。捨てられないもの、守るべきもの、責任を持つべきもの。山のように乗っている。
——でも今はただ、君のために走るよ。
自分の愛し方は間違っているのかもしれない。でも狂おしいほど人を好きになったとき、どうするべきかなんて誰も教えてくれなかった。
みんなどこで覚えてくるんだろう。大切な人を、間違いなく幸せにできる方法を。
雨は激しさを増す。どしゃぶりの雨の中を、鹿嶋はたった一人のためだけに、全力で走った。




