五 永久の訣れを告げず
「……鹿嶋……さま!?」
紗蓉子はすぐに鹿嶋のそばについた。顔が青い。
ごめんね、俺は今ひどい姿だろう。
「すぐに加療術をいたします」
「無理だ……」
珠のような涙を浮かべた彼女のひとみが、鹿嶋を見る。
「加療術でも、なくなった臓器は戻らない。中身がないんだ」
それでも術を施そうとする紗蓉子の手に、鹿嶋はそっと、血濡れた手を重ねた。ひどい事実は彼女を傷つけるが、伝えねばならない。
「もう……助からない」
「……そんな」
「紗蓉子……俺が死ぬまで、そばにいて」
重ねるのが精いっぱいだった手を、紗蓉子が強く握り返して来る。
抱きしめたいと思うのに、もうその力がなかった。血を失うのと同時に、体が動かなくなっていく。
鹿嶋は濡れた右手で紗蓉子の頬を撫でて、そこに自分の血を付けた。紗蓉子の顔は汚れた。これが最後の執着だから、どうか許してほしい。
「紗蓉子、俺が死んだら……逃げて」
紗蓉子は答えない。ふたりの手のつなぎ目に額を当てている。
「逃げて、どこか遠くで……ひとりで幸せになってくれ」
誰かと幸せになってくれと願うほどの心に広さを、今は持てない。
「いやです」
はっきりと拒絶される。君ならそう言うだろう。
「あなたが助からないことを予感したまま私が死ぬことは、哀れだと思いませんか。紗蓉子さま」
「私は」
もうろうと視界がかすむ中、紗蓉子の声がする。
「私は鹿嶋さまと出会うまで、ずっと、まだ生まれていなかったと思うのです」
まるでこの先も未来があるかのように明るい声の中に、涙の震えが混じっている。
「あなたと出会って、この世にやっと生まれてきて、あなたと過ごした数カ月だけが、私にとって本当に生きていた時間でした」
しゃくりあげる声が、完全に涙声に変わる。別れた時も、君は泣いていた。
「だから、鹿嶋さまが死ぬのなら、私もここで終わりたい」
紗蓉子は鹿嶋の胸に頬を寄せて泣いた。それをなぐめる力も、鹿嶋にはもうない。ただそばにいたい。名前を呼びたい。それは命を捨ててもまだ叶わないような、望外な願いだったのか。
この恋の終わりがこんなものになるなんて、一体誰が想像しただろう。
加療術でも治せない傷。人体の欠損。多量で急激な出血。どうしても失われる命がある。
血だまりに手を入れて、強く握ってもつかみ取れない。かき集めても元に戻らない。あふれ出ていくこの血は、鹿嶋の命だ。いま、鹿嶋が死んでいく。
——加療術が魔法である以上、それが詠唱魔法となったなら、そうした治療も可能ではないかと私は思っております。
紗蓉子は、ゆっくりと頭をもたげた。
——ねえ、紗蓉子さま。そうは思いませんか。
イスカ。仲月見イスカ。私の、やさしい姉上さまが、かつてお話されていた。
紗蓉子の母である皇后陛下が、皇宮でイスカに教育を与えるようになったのは、彼女が五つの頃だった。
紗蓉子がイスカと引き合わされて、姉妹として交流を持つようになってからは、イスカは勉強が終わるといつも皇宮の庭の片隅で、本を読んで待っていた。紗蓉子の姿を見つけると、駆け寄って抱きしめてくださる。
彼女は紗蓉子に、詠唱魔法のなんたるかを伝え続けた。イスカは魔法を自分のすべてとは思っていないが、魔法の起こす奇跡については、深く信頼していた。
いつか詠唱魔法が、紗蓉子を助けることを疑わず、その真髄を伝えんとしていた。
——そうはおっしゃっても、私にはとても詠唱魔法など使えません、イスカさま。
紗蓉子は、ついに詠唱魔法をつかみ取ることができなかった。それでもイスカは、「知っているということが、いつか紗蓉子さまを助けることになる」と言った。それは、どんなことだったか。
——魔法とは、自分の中にある魔力の源泉との対話です。魔法は、人の想像するあらゆる奇跡を引き寄せるが、どのような奇跡が可能であるのかは、対話の結果次第です。対話なしで使用する無詠唱魔法は、魔力の源泉から漏れ出る端を使って、弱い奇跡を引き起こしているにすぎません。
——私には、自分のなかに魔力の源泉があるとはとても信じられません。それを知覚できません。
紗蓉子のこたえを聞いても、イスカは手を握り、自分の魔力を流し込むことで、なにかを知らせようとした。
——耳を澄まして、眼を閉じて、よく聞いてください。あふれ出る魔力の泉が、誰にでもあります。
紗蓉子はゆっくりと目を閉じ、自らの中の魔力に語りかける。イスカの導きが、初めて実感となって迫りくる。
——泉は、祈りの言葉で満たされている。そのひとつひとつが、奇跡を引き寄せる祝詞です。
——そのたくさんの祈りの中から、たった一筋、あなたの望む奇跡を引き寄せる、黄金色の一本の糸を引き出すのです。
まるで、何年も前からこの瞬間を迎えるために、私の中で泉が満ちていた——たった一つしかない祈りを引き当てる。いま、佐治鹿嶋を救う奇跡を、私にお与えください。
——糸は祝詞をつむぎます。つむがれた祈りの言葉は、意識せず流れ込んできて、あなたの声を借りて現世に顕現する。その祈りが聞き届けられた結果が、詠唱魔法なのです。
紗蓉子は金色の泉の中から、ひときわ燦然と光を放つ一本の糸を引き出す。糸は空中で姿を変え、紗蓉子の中で、ある言葉に姿を変える。
紗蓉子の体は輝き始めていた。高まった魔力が、現世でも影響を示している。
これが祈り。これが詠唱魔法。正しく敷かれた道筋をたどるように、紗蓉子はゆっくりと、その祈りを口にする。
『風さえつまづく 波紋ひとつ返らぬ沼
ひとときに傾れ墜つ
天の水面に湧き続けたる清廉の表を撫でる
私は永久の訣れを告げず
光やってきて 命の際に触れるあなたと』
暖かい光だった。泉が紡ぎだした、佐治鹿嶋を助けるためだけの奇跡。魔法。それはついに顕現した。破れた皮膚をつなぎ、失われた体の部位を取り戻す。流れ出た血ももどり、白い鹿嶋の顔に生気が戻ってくる。
「鹿嶋さま」
目を開けると、まだ鹿嶋が何も持たない男だったころからの、変わらぬ笑顔が彼を迎える。
「紗蓉子」
鹿嶋は動くようになった体で、最初に紗蓉子を力いっぱい抱きしめた。
「か、鹿嶋さま。傷は」
「全然。大丈夫。痛くない」
鹿嶋は体を離してから大げさに手を広げる。
「紗蓉子がやったの? すごいよ」
「いえ、必死だったので……」
恥ずかしそうに顔を伏せる紗蓉子の頬を、鹿嶋が手の甲でぬぐう。自分で汚した彼女を、また自分の手で清めている。
その時、空の片隅から滑るように降りてきた鷲獅子が一頭。降り立って鹿嶋を見て、一声鳴いた。
「お前、もどっていたのか」
鹿嶋はすぐに駆け寄る。彼の騎獣である。イスカとともに国外に行ったこの子がここにいる。つまり、彼女は間に合ったのだ。
「仲月見少佐がもどってきている」
空は暗くなり、雲が呼ばれたように集まりだす。
「少佐が魔法を使おうとしている。まだ龍がいる」
残り、多く見積もって二頭の龍が日高見国に侵入した恐れがある。
「紗蓉子、俺は行かないといけない」
「はい」
「もしも少佐が魔法を使ったら、この辺りは危ないかもしれない。なるべく元の宿営地近くまで戻ってくれ。一緒に行けなくてすまない」
鹿嶋は投げ出された自分の刀を拾いに行った。幼いころから肌身になじんだ刀は、刀身が折れていた。
「鹿嶋さま、これを」
紗蓉子は自らが持ってきた刀を鹿嶋に差し出す。鞘まで立派なこしらえの打刀だった。鹿嶋の剣が龍に届く望みがあることを、この世で紗蓉子だけが知っている。鹿嶋は刀を受け取って、再会を死ぬほど夢見た女性を見つめる。
なぜ、こんなところにいるのですか。もう皇女宮から出られるようになったのですか。これからは、自由に二人は会うことができますか。鹿嶋にはききたいことがたくさんある。だけど今は、何も言葉にする時間がない。
「紗蓉子。あとで迎えに行くから、待っていて」
うなずく紗蓉子を地上に残し、鹿嶋は鷲獅子に乗って空高く舞い上がった。
すぐに鹿嶋は星弾を打ち上げる準備をする。星弾はイスカが魔法を使用する際に、その威力を周囲に知らせるための信号弾で、使うものによって色がちがう。いまは鹿嶋は自らの生存を伝えるためにそれを打ち上げる。
自分が生きてここにいることを、イスカに確かに伝える必要がある。
鹿嶋は空に向けて、佐治中尉の色と定められてている、赤の星弾を放った。




