二 名前を知らなかった日のこと
大公紀歴二千八百二十年 五月十日
日高見国の首都・皇都翠京。
翠京は皇宮がある朱音町区を中心として、十五の区に分かれている。そのうち東の端の斉京区には、爵位保持者の子弟を中心に教育を行う中等学校・高等学校がある。
その名を、皇修館という。
仲月見イスカが、皇族である大切な妹を通わせるなら、ここが一番であると考えた学び舎だった。
稚日宮紗蓉子皇女殿下。仲月見イスカの、四歳年下の異母妹である。
紗蓉子は、宮家のひとつがもっている屋敷を借り、春から入学した者たちより少し遅れて、皇修館へ通うこととなった。中等学校の最終学年である。
紗蓉子殿下を学校へ通わせること。これが、仲月見イスカが戦場へ身を投じる上で、皇太子殿下に示した条件だった。
日高見国の皇女は、隠されるものである。
歴史を振り返っても、皇女が他国へ嫁ぐはおろか、遊学や外遊のために出国した記録すらない。史書に名を残すこともまれで、降嫁したあとの記録もほとんど残らない。
通常、皇統の血を入れた降嫁先の一族はそれを誇るものだが、それも見られない。それどころか降嫁先が見つからず、難航したという記録が残る姫もいるほどだ。
紗蓉子は時々、皇女である自分の役割がわからなくなる。自分はなんのために生まれてきて、どうしてここにいるのか。
母である皇后陛下が亡くなってから、紗蓉子の住まいは皇宮内の皇女宮に移された。皇宮のなかでも、薄暗くて陰気な場所に建つそれは、さみしい宮だった。
イスカはその皇女宮を、たびたび訪ねてくれた。紗蓉子が何よりも頼りにし、慕う姉である。自分と同じ翠の瞳を持つ姉。
——殿下も学校へお通いになったらいい。きっと楽しいです。
戦場へ行く準備のため、最後の別れを告げに来たとき、イスカは紗蓉子の手をにぎりいった。
期待に応えるよう、勉学に励みますと紗蓉子が返すと、イスカは頭をふるのだ。
——お勉強はほどほどでもいいのです。わたしは紗蓉子さまにお友達をつくったり、遊んだり、たくさん思い出をお作りいただきたい。それだけがわたしの願いです。
生きて帰れる保障もない戦場へ行く。それと引き換えに学校へ通わせてくれた姉の、別れの言葉だった。
「よろしいですか。殿下のご身分は、ごく少数の教職員にのみ共有され、学生に至ってはそれを知る者はただおひとり。決して、もれるようなことがあってはなりません」
幼少の頃より紗蓉子のそばにいる女官が、厳しい顔で言い含める。
「心得ております」
なぜ皇女の身分がもれてはいけないのか。皇女宮からついてきた女官長は、お命を狙うようなものがいては危ないからと言うが、それはきっと嘘。
わたしのようななんの役にも立たない皇女を殺したり、かどわかしたりして、いったい何になるというの。
でも紗蓉子は、反論せず言われたことに従う。口答えなどして、せっかく姉が作ってくれた機会を無駄にしたくない。
身分を隠すのだから、なるべくほかの学生と同じように動かなければいけない。紗蓉子は初日からひとりで皇修館まで通学することとなる。
鉄紺のワンピースに白のカフスとカラー。それが皇修館女子の制服である。
皇修館がある街とはいっても、高級な街ではない。通勤・通学に足早に歩く人々、商売にはげむ店のかけ声、かけぬけていく子どもの集団。
雑多な喧騒にまぎれて、十数分後。紗蓉子は道に迷った。
「どうしましょう……」
人をよけて歩くのが精いっぱいで、一度練習のために歩いた道をすっかり忘れてしまった。
さらに動きまわってあらぬ方向に行くことを恐れて、紗蓉子は道すがら見つけた小さな社につづく階段を登っていく。
登りきったところには、忘れられたようにがらんとした社が建っていて、静かだった。少しここで休んで落ちついてから、一度街まで戻って道を思い出そう。
そう紗蓉子が思い、軒先に腰を下ろそうとしたときだ。相当に急だったはずの階段を駆けのぼって、社の敷地の中に飛びこんできたものがいる。
かなり着くずしてはいるが、鉄紺の詰襟。皇修館男子の制服である。
「誰?」
誰もいないと思った場所に紗蓉子がいて、彼は怪訝そうな顔で不躾に尋ねる。
「あ、あのすみません」
「その制服、皇修館か」
はい、と答えるよりはやく、盛大に舌打ちされる。
「なんでこんなところに……」
「み、道に迷って……」
「本気で言ってる?」
「は……い」
あきれたように聞き返されて、恐る恐る答えると、今度は思いっきりため息をつかれる。
「いい? 今からここに、皇修館のなかでもけんかっ早いのが来るから」
彼は登ってきた階段を指さす。
「今から降りてもあんた途中でそいつらに行きあう。ろくな目に遭わない。で、ここに残ってても同じだ。だから」
彼は社殿のなかに土足でずかずか入っていくと、板敷きの一枚をばりっと剥がしてしまった。
「ここ、入ってて」
「こ、ここですか!?」
「そう」
確かにすぐ下は地面になっていて、身を低くすれば隠れられそうだ。
「いい? 閉めるから」
何があっても開けるなよ。と言い残して、板はぴったりと閉じられた。
「鹿嶋ぁ!!」
そのすぐ後に、社の外から野太い怒鳴り声が聞こえて、紗蓉子は身を縮める。
「名前で呼ぶな」
たぶん、さっき一人でやってきた彼の声だと思う。
「その名前、嫌いなんだよ!」
さきほどとは全然声色が違う。それから怒号と何かと何かがぶつかる音と、そのあとにうめき声がいくつか聞こえて、やっと静かになる。
静かになってからも相当な時間待ったと思う。紗蓉子は頭上の板をぐっと押してみた。びくともしない。
あの人はいとも簡単に持ち上げていたのに。さらに頑張って上に押そうと力を入れた瞬間、パッと板が持ち上がって、紗蓉子は床の上に飛び出した。
「もういいよ」
立っていたのは、さっきの彼だ。
「ほかの方たちは……」
「完全にのしちゃうといつまでもここに転がってて迷惑だから、少し手加減した。全員動けるようにしたから、逃げたよ。あいつら」
「あの、血が」
紗蓉子は目の横の傷から流れる血を気にした。
「そりゃあ殴り合ったんだから血ぐらい出る」
「なにがあってこんなことに」
「……知らないよ」
そんなはずないだろうにという顔をしていたのだろう。彼は言い訳するように言葉を重ねる。
「本当に知らない。なんとなく目ざわりとか、そういう理由で絡まれる。迷惑だよ」
それだけ言うと、彼は転がっていたカバンを拾って行ってしまいそうになる。紗蓉子はその背中に慌てて声をかけた。
「あ、あの!」
ものすごく不機嫌そうな顔で振り返る。さっきまで理由もわからず殴り合いをしていたような人物である。もちろん怖いが、頼る人がほかにいない。
「実は学校へ行く道がわからなくなってしまって……」
「本当だったのかよ」
心底あきれたという顔をされた。
「はい、ほら行くよ」
でも、さっきより少しだけゆっくり歩いてくれている。
彼は社の階段の脇から横道に入る。ぐるっと回るように裏側にでると、見覚えのある皇修館の学舎があった。あの社の建っている丘の裏が、学校だったのだ。
「何年?」
「中等部の三年生です」
「そうか。じゃあ俺は高等部だからこっち。中等部はあっちね」
素早く奥と手前にある学舎を指さすと、じゃあと彼は行ってしまう。
「あ、もう遅刻だから、門は閉まってるぞ」
「え! じゃあどうすれば」
「こうする」
彼は軽く助走をつけると、あっというまに塀を駆け上って一番上まで届いてしまった。
「無理です……」
紗蓉子が絶句して答えると、
「そ、じゃあ自分でなんとかしな」
そう言って、彼は塀の向こうに消えた。
それきりなんの音沙汰もない。紗蓉子は泣きそうになりながらその場に立ち尽くす。
学舎の外に人の姿はない。きっとみな登校を終えて、もう席についている頃だろう。通い始める初日からこのようなことになって、イスカにはなんと申し開きすればいいだろう。申し訳なくて死にそうだ。
諦めた紗蓉子がとりあえず中等部の門があると思われる方へ向かおうとすると、
「おい」
振り返ると、もう行ってしまったと思っていた彼が、塀の上から顔を出し、手を差し出している。
「こっちから入ると高等部だぞ」
なんとか引っ張り上げてもらって皇修館敷地内に入ることができた紗蓉子に、彼が忠告する。
「い、いいです。中から歩いていきます」
そう、と言って彼は立ち去ろうとする。
「あの、私は日野紗蓉子と申します。今日からこちらに通うことになって」
「で?」
「助けていただいたので、お名前をお聞きできればと思って」
「必要ない。聞いても楽しい名前じゃない」
「そ……うですか」
取り付く島もない様子に紗蓉子が身を引きかけたが、彼は数歩行くと振り返った。
「鹿嶋だ」
「え?」
「佐治、鹿嶋」
佐治鹿嶋、十七歳。彼が初めて戦場に立つ、数カ月前の出来事だった。