六
蒼海国の各地域へむかう汽車の主要乗換駅。その構内で、ユリアナはたったひとりの友人を探していた。
手紙は無事に届いているだろうか。彼女はひとりでここへ来るだろうか。
学校の行き帰りさえ自由にはならなかった大切な友人。ユリアナの父が蒼海にやってきて相庭と会えば、なにがおこるかわからない。友人花也子もその場にいれば無事ではすまない。
ユリアナは牧場に行きましょうと誘いだし、花也子を屋敷から連れ出す。そしてそのまま帰るつもりはない。
私たちの苦しみも存在も、まるでなかったかのように扱う者たちのもとへ、ついには帰らない。花也子にすべてを伝えずに来たことだけが後悔だが、たとえ恨まれても、年下の友人を守ることは自分の使命と決めていた。
ふっと影がさして、ユリアナはとなりを見上げる。背の高い細身の青年が、ユリアナを見ている。榛色が透ける翠の瞳。見覚えのある清廉さ。
「あなた……」
「はいこれ」
青年はユリアナの手に手紙を手渡す。それは、今日届くはずだった花也子からの手紙であったが、ユリアナはそのことを知らない。
「あなた、郵便屋さんでしょう」
ユリアナの家に手紙を届けに来ていたころとは、ずいぶん様子が違うが、彼はたしかにそうだった。坂を下って自転車に乗って、彼女の家に来ていた。
「そうだよ」
青年は、自分が誰かわかってもらったのがうれしいようで、きらきら笑っている。それからユリアナの手のなかにある手紙を指さす。
「君たちの手紙、まるでおとぎ話みたいだったね。この話の中に、ふたりを幸せにできる男はひとりもいなかったよ」
不穏な物言いに、ユリアナはすっと体が冷たくなる。
「私たち、牧場へ行くのよ……!」
「そこでどうするの。君はこれから、ふたりの父親のあいだで何が起こるか知っているんじゃないのか」
「……花也子さんには言っていないの。あの人は許してあげて」
もしもこの男が、どちらかの父親がよこした追手だとしたら。自分ひとりの命で、どうかすべてをおさめてほしいとユリアナは懇願した。
郵便配達員の男は、顎だけでむかいのプラットフォームをしめす。汽車が通り過ぎて、誰もいなくなったそこに、取り残されたようにおさげの少女が立っていた。
「花也子」
不安そうな顔をした彼女は、ユリアナを見つけると安心した顔になって、ゆるんだ空気で手を振っている。
「どうして」
「言っただろう。君たちを幸せにできる、男はいなかったって」
郵便配達員はしずかにユリアナに語りかける。
「あの子は本当に数日牧場に遊びに行くだけのつもりで来ている。荷物もそれきりだ。どうか君が助けてあげて」
「できるわ。私の方が年上だもの」
「でもこれから向かう牧場は、場所が割れているよね。君たちのお父さんのどちらが生き残っても、追って来るかもよ」
ぐうっとユリアナは息を詰まらせる。だが彼女にはほかに行く当てがない。配達員は小さな地図を取り出し、ユリアナのコートのポケットに差し込む。
「この場所に行って。乗る汽車は一緒だ。この農場は他国の皇家の持ち物だから、簡単に手出しはできない。農場の管理者に、事情は説明してある。ここでしばらく暮らして、ふたりで行き先を決めなさい」
それから郵便配達員だと思っていた青年は、ポケットから無造作に輝石をいくつも取り出すと、ユリアナの手にそれをたっぷり握らせる。
「どうしても立ち行かなくなったら、これを売って。それでもだめなら、日高見国の皇宮の前でわたしの名前を言うんだ」
「あなた……あなたの名前は」
「仲月見イスカ。さよならユリアナ」
話せてよかった。もう行くよ。そう言い残し、仲月見イスカはあっという間にひとごみに紛れて消えた。
イスカが駅を出てしばらく歩いていると、まるでどこを通るかわかっていたかのように、志水の車が待っていた。
「よう」
志水は目線だけで、助手席に乗るようにうながす。
「わたしはクビですか」
「そうだな。勝手をしすぎた。お前、ユリアナからの最後の返信を隠しただろう」
「すみませんでした」
「国へ帰る理由を、なくしてたんじゃないのか」
志水は車も出さずに、前だけを見て話していた。
「なんとなく……そんな気がしただけだが。どんな理由で国へ戻るつもりだ」
「人の頭のなかで何が起こっているかはわからない」
「あ?」
「死んでしまった人の心を想像することはむずかしい。いま手元にあるものに目を向けるしかない」
「イスカ?」
「むかし、私が友人に言った言葉です」
懐かしい日々を思い出すように、手の平を見つめている。その思い出の中の人はもうどこにもいない。彼女は今、隻影である。
「……お前の手元には、いま何が残っているんだ」
「残してきた妹に会いたい。ユリアナたちを見ていて、思い出してしまった。それと……この前の戦争で、わたしの従兵になると言ってくれた子がいます。友人の死を一緒にみとった少年です。彼のためにも戻ろうと思う。きっと今、軍人になろうとがんばっていると思うから」
「……そうか」
問いかけの答えが見つからなくても、死んだ彼はイスカにとって大切だった。横顔がそれだけを語っていた。
もう手元からこぼれ落ちてしまったものでも、忘れることはできない。彼女の一生に深くきざみこまれたその友人の男は、命は失ったが、しかし幸福ではなかったか。
「わたし、ここにいれば自分はもっと冷たい人間になれると思っていました。もっと全部きり捨てられると。でも……無理だった」
正しさも理想も、彼女は捨てきれなかった。
「青臭い理想も、鼻に付くような正論も、いいじゃねぇか」
志水の唐突な言葉に、イスカはだまって顔をあげた。
「いけ好かねぇと人に言われる生き方でも、死ぬまで貫けば、それも信念よ」
「死ぬまで……貫けば……」
「そうするつもりなんだろう」
彼女は、少女のような素直さで、しずかにうなずく。
「で? お前は今度は国に戻ってなにをやらされるんだ?」
「龍を倒してほしいそうです」
「龍ぅ?」
裏返った志水の声に、イスカは声をあげて笑った。
「北のほうから飛んでくる奴か」
「ええ、最近街を襲うそうですよ。龍も頭がおかしくなっているんでしょうか。でも、悪くはありません。間違いなく人助けですよ」
言外に、戦場で魔法を使うよりましと言っているようだった。
「まあ……騎兵もちょっと前まで花形の決勝兵科だったが、あっという間に消えただろう。そのうち魔法も時代遅れになるさ」
志水の言うことは、気休めの嘘である。
詠唱魔法使用者は、自分の頭で考え、自力で戦場を移動し、ひとりいれば戦局を動かせる便利な兵器である。騎兵とは価値が違う。
仲月見イスカは、大量に人を殺し友を失っても、国も戦争もうらまず、ただ自分だけを責めている。
軍命はそれを命じたものが責を負うべきと定められているのに、イスカはその定石を自分に適用しない。
不幸にすすむ人間を見捨てられない善意もある。扱いやすい小娘だった。その命の擦り切れるまで、使い尽くされるだろう。人知れず、乾いた弾丸を奥歯で噛みしめるような、悲しみを耐える日々が続くはずだ。
車のエンジンをかけようとする志水を呼び止めるように、イスカは尋ねる。
「志水さんは、なぜこの仕事をしているのですか」
志水の手は止まった。
「便宜上階級はあるが、軍籍は剥奪され、記録にはあなたのことは残らない。この先もずっと。どこかの国で人知れず死ねば、その行く末を祖国に知らせる人はいません。それでもこの仕事を続けていける理由は、何ですか」
「イスカ、お前、たとえば目の前に今すぐ大国同士が戦争を起こしかねないでかい火種があるとするだろ。あるいは人死にを大量に起こす悪事の火種よ。こっちの国とあっちの国とで思惑は違うが、できれば戦争は起こしたくねェ、人死にもいやだと思っている数百人の士が、それぞれ国ごとにいるとする。そいつらが死ぬほどがんばったら、明日の戦争は回避できるんだよ。その数百人の中に、自分が入っていたとしたらどうだ? 死ぬ気でがんばろうって気になんねェか?
結局戦争をやりたがってるのなんて、国の上澄みの連中ばっかさ。
向こうの国もきっとそうだろ。利害も思惑も、目指すところも違うが、あっちの国にもきっと俺みたいなやつらがいる。
そういう平和を守る名もなき数百数千の士のおかげで、世界は今日もぎりぎり平和なのよ」
「世界を救う数百人の士、ですか。それは素敵な考えですね」
その話、もっとはやく聞きたかったなぁと天をあおいで笑う彼女は、毒気が抜けたように突き抜けて輝いて美しい。これが仲月見イスカの平時であると、志水清鷹は目に焼き付けるように眺めていた。
それからすぐにイスカは帰国し、女性として祖国の軍に入隊する。彼女が志水のもとで過ごしたのは、一年と少しの間である。
私がいなくなったら、きっとお茶が減らないでしょうねとイスカが言ったので、志水は彼女がいなくなった後もひとりでたまった茶葉を消費している。
でも缶が減るとさみしくなって、また自分で買い足してしまう。それをずっと繰り返している。
いれたての茶の匂いが鼻にこびて香るたびに、志水はイスカのことを思い出している。
軍属に入った人間の動向を探ることは志水にはたやすい。それでときどき、仲月見イスカがどうしているか調べている。あの魔法使いは、あいかわらず上からいいように使われている。だが彼女はもはや隻影ではなく、部下もいて元気にやっているらしい。
イスカが志水のことを調べるすべは、ない。
——あいつはもう、俺のことなど忘れてんだろうな。
それでもいい。彼女の孤独をなめるような人生に、刻みこむように痕を残すなら目の前で死ぬしかあるまい。それだけは、どうしてもしてやれない。
彼女が戦争で望まぬ魔法をふるうことがないように、志水は生涯、世界を救う数百人の士であり続ける。




