三 お前の死に場所ではない
真夜中に、空気の動く気配で目がさめる。志水清鷹はとびおきた。
バルコニーにつづく窓が開いている。イスカがいない。
親友をなくして自暴自棄になった女が、国外で逃亡をはかってもおかしくはない。
志水はバルコニーに飛びだす。
「すみません。起こしましたか」
「イスカ……!」
彼女はバルコニーの片すみに座り込んで、ただじっとしていた。
「なにしている」
「なにも。なんとなく、空をみていただけです」
志水は脱力してバルコニーに体をあずける。
あまりにも何もない日々が続いているので、イスカに対し監視対象であるという気が薄れていたのも確かだった。
イスカは寝汗をぬぐって顔色がよくない志水を見て、指先に青い炎を灯した。その指からひとつふたつと別れでる光の粒は、生き物のようにバルコニーを漂っている。星が地上の近くまで下りてきたような幻想だった。
「なんだよ」
「志水さんが来たから、きれいなものを見せようと思って」
「下を歩いている連中にバレるぞ」
「大丈夫ですよ。この国の人たちは上を向いて歩く習慣がないようだから。星の話もしない。今は夜中だし」
「お前、魔法は使用禁止じゃなかったか」
「そうですよ。でも国のえらい人たちは、魔法というと詠唱魔法のことしか思いつかないみたいだから、こういう魔法はきっと除外でしょう」
イスカが手を動かすと、星くずたちも合わせて大きく動く。
「魔法なんて、こういうわかりにくい奇跡をちょっと起こすくらいでいいはずなのに」
少しずつ星たちは空に昇っていって、シャボン玉が消えるようにまたひとつふたつと消えていった。
「きれいですか」
「……ああ、きれいだよ」
「よかった」
イスカが勝手に魔法を使うようなら報告しろと上から言いつかっていたが、志水はこれは言わなくていいと勝手に決めた。
「どうして」
急にイスカの声が震えを帯びて、空に見入っていた志水はあわてた。
「どうして、死んだ人を生き返らせる魔法はないのでしょうね。人を殺せる魔法なら、いくらでもあるんだけどな」
俺もそう思うよ。俺も魔法が使えたら、なんでもできると思っていた。
志水はそうは言わずに、イスカと反対側のバルコニーの端にすわって、泣いているのか眠っているのかわからない膝をかかえた彼女を見ていた。
「詠唱魔法を人に使うなんて、人が人をすり潰す地獄絵図にしかなりません」
私は間違った。そう、イスカは続けた。大量の人を殺しておいて、自分はたったひとりの友の死に拘泥している。矛盾にかきまぜられながら、彼女は人の姿をたもっている。
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ふたりしかいない部屋で、イスカはよく爪を磨いていた。
「爪の手入れが行き届いていると、女が喜ぶんです。そういうことに気を遣っているように見えるからですかね」
「……お前、手段を選ばなくなってきたな」
「仕事ですから。特に専門の訓練を受けていない私には、できることが限られている。だから志水さんは私をそうやって使うのでしょう」
榛色の透ける翠の瞳に見つめられるたびに、志水は数秒ともたず目を逸らしてしまう。
緒方から志水に連絡があったのは、ある日の真夜中の事だった。
彼は慌ててはいなかったが、上司の名を呼ぶその声の響きだけで、志水はよくないことが起こったと察した。
「仲月見イスカが」
「どうした」
目下、志水が持たされている爆弾について、緒方は口にする。
「死んだかもしれません」
志水はすぐに外路へ飛び出なくてはいけなくなった。
イスカは情報収集と称して、今もあるひとりの女に近づいているところだった。こうした接近は何度目かになるので、慣れたころと思って油断していた。危険も比較的少ない仕事である。
決定的な関係には進まないくせに、知りたい情報だけはかすめ取っていく。イスカは特に相手が女である場合は、こちらが利害があって近づいていることを隠さないところがあった。
逃げ道を用意してやっているつもりなのだろう。
それでも相手が逃げないし、とりたい情報は取ってくるので、見方によってはまさに悪魔の所業である。
今回はその納め時がついに来たようなものだ。女はイスカに薬をもり、自分も薬物をあおった。
イスカは幸い生きており、最初話もできていたらしいが、なにか言ったあと眠るように意識を失ったという。女は惚れた弱みで、自分が飲んだのとは違う薬をイスカには飲ませたのかもしれない。
とりあえず動けない彼女を拠点に運び出し、あとの始末をつけねばならない。
「そこまでさせるほどハマらせるんじゃねェよ。へたくそが」
先に緒方を行かせた志水は、ベッドに横たわるイスカに悪態をつく。
その口元から、舌をとりだして確かめてみる。脱力していて手ごたえがない。今ここで水など喉に流し込まれたら間違いなく死ぬ。危ないところだった。
舌をそっと唇のなかに収めて、何の気の迷いか、志水はイスカの唇に口づけた。唇をこじ開けて、さっきしまった舌も、自身の舌ですくいとる。
甘さはなかった。毒の気配はしない。一切の味も、においもしない。無味だった。それすら思った通りだった。志水清鷹が、仲月見イスカという人間に抱く印象そのままだった。
志水は小さいころ、生まれたばかりの猫を数匹拾ったことがある。こづかいで猫用のミルクを買って、けっこううまく育てたつもりでいたが、ある日親戚の家へ預けると親が言って連れっていったきり、だれも帰ってこなかった。あとから聞いたところ、あずけ先の先住のオス猫にかみ殺されて、みんな死んだらしい。
父親には激しく詰め寄ったが、殴り飛ばされて終わった覚えしかない。それ以来、動物は飼っていない。自分には、その資格がない。
仲月見イスカに対する関心は、拾った犬猫が、自分と会うその日までは、不遇に生きてきたことを哀れむような気持なのかもしれない。
喉元までこみ上げてくる暖かさで、イスカは目を覚ます。
湯船のなかに体が浮いていた。
「起きたか」
すぐそばで、志水がつまらなさそうに眺めていた。
湯船のなかで立ち上がろうとして、脚に力が入らなかったのか、イスカは頭の先まで湯のなかに沈み込む。
「なにやってんだ。ばかやろう」
脇の下に手を入れて、水面に顔を出してやる。
息をついて、湯船のふちにつかまる彼女に、
「お前、吐いたんだよ。吐しゃ物がのどに詰まったら死ぬだろうが。もう少し寝たままなら、医者に見せなきゃならねェところだった」
と、志水は不機嫌そうに告げた。イスカが飲まされたのはただの強めの睡眠薬だったとわかった。酒と一緒に飲んだのがまずかったらしい。
「彼女はどうなりましたか」
一緒にいた人間の行く末をまっさきに気にするのは、らしいといえばそうかもしれない。
「だめだった」と志水が告げると、イスカはまた勝手に湯のなかに沈んだ。志水は、それを引きずり出して洗い場の椅子に座らせる。
「ひどいことを……してしまった」
なにも言わず、志水は彼女の爪の色と、下まぶた裏の色を見ている。
志水はまったく気にしなかったが、彼の服の袖口と裾が濡れるのを、イスカがやけに嫌がるので、どちらも途中でまくった。
これでどうだと見せつけて無言で首をかしげる志水に、イスカも無言でうなずく。
それから志水はイスカの髪を洗い、体も洗って流したが、自分でも驚くほどそこにみじんの劣情も感じなかった。人が神をあがめて清めるのに、なんの背徳も抱かないのと似たようなものだった。
薬の影響で、まだ足元がおぼつかないイスカを、志水はなにも言わずにタオルにくるんで抱き上げて運ぶ。自力で着替えるくらいの力は戻ったようなので、風呂の始末をするのを言い訳にその場を離れて、着替えには手を貸さなかった。
戻るとイスカは背もたれのない椅子の上で、まだモヤのかかった頭と戦っているのか、静かに床をながめていた。
乾いたタオルを頭からかぶせて、濡れた髪の水滴をとってやる。
細すぎて尖った肩が初々しい。その肩から伸びる白い首は、まだ誰も触れたことがないと思われる、善意の象徴だった。
「お前、死にたいのか」
志水は、イスカが自分がなにを飲まされているのか自覚したまま、あえてそれをやめようとしなかったのではないかと疑っている。機会があって叶うなら、死にたかったのではないかと疑っている。
「……わかりません」
本当に自信がなさそうだった。自分でそれを飲み込んだときのことを、覚えていないのかもしれない。
「俺が、殺してやろうか」
不穏なもの言いなのに、こらえようもないほど優しい響きだった。
「そういう指示が、出ているのですか」
「さあな」
出ているはずもなかった。
志水の国がイスカを国内から一時的に遠ざけているのは、彼女の魔法をこれからも戦術のひとつとして利用したいからだ。詠唱魔法使用者を戦争にかり出したと、他国に悟られないためだ。詠唱魔法使用者の存在を、国内の広報媒体にすら嗅ぎつけられることを避けるためだ。
死ぬか、逃げるかしなければ、一生イスカは削られ続ける。
そして仮にここでイスカの命を奪えば、志水が生かされる道もなくなる。すぐに消されて、それでしまいだ。そうなったとき、志水に逃げる意思はない。
「あなたが私を殺すなら、きっとうまくやるでしょうね」
少し笑い声を含んだイスカの声がする。
「私は信頼しきった主人の膝の上で、眠りにつく直前の猫のように、いつ息が止まったのか気づかないほど、知らない間に死ねるでしょう」
あたかもその幸福を、今まさに味わっているかのように、彼女は歌うようにとなえる。
「そういうふうに、きっとあなたはする」
深い、信頼のようなものがその声にはあった。
「私はそのような死を許されたものではないので、あなたの手にかかることは遠慮します」
「今日ひとり増えてしまった」と暗い響きがそれに続いた。
「たくさん殺したので、苦しんで死ぬべきと思います」
鏡越しにイスカが泣いているのはわかっていたが、志水は彼女が泣き止む最後まで知らないふりをして、その髪の一筋ずつを丁寧に乾かすようなそぶりをして、撫でていた。




