一 隠された妹 2820年
大公紀歴二千八百二十年
「イスカはどこだ」
今日、何度目か、寝台の上で皇帝陛下がお尋ねになる。
日高見国の今上の陛下は、若いころの遊興がたたり、近ごろ臥せる時間が長くなっている。特定の病を得て療養しているというより、単に不摂生と不養生が何十年も続いた結果、肉体の寿命を早めたのだと、その息子の皇太子は思っている。
「ここにはおりません」
すぐそばに侍っていた皇太子が抑揚のない声で答える。
「呼べ」
有無を言わさぬ要求である。
「呼んでも参りません」
その返答に、何事か返そうとして身を起こした陛下は、激しくせき込み、周囲の者に促され、また寝台に沈む。
「イスカには、扶桑国へ行ってもらわねばなりません」
それだけ言うと、皇太子は踵を返し、皇帝陛下の寝所を後にする。
日高見国が属する東方諸国。
その南部の国、扶桑国へは、数十年前より群島諸国からの移民が渡ってきていた。移民街も各地で発達し、群島諸国からの交易で扶桑国は発達した。群島諸国からの民もよくなじんでいた。
それが数カ月前、移民解放軍と名乗る軍が突然蜂起した。
解放軍は扶桑国に国土の割譲を要求し、独立を宣言して、東方諸国大陸を北上する動きを見せ始めた。すでに扶桑国が単独でこの蜂起を食い止めることは不可能。そのため、東方諸国最大の国、日高見国に物資・資金面ともに支援の要請があった。
日高見国にとっても、このまま扶桑国が飲まれて、日高見国と扶桑国の間にある小国まで屠られたら、直接国土が戦場になりかねない状況である。助力は避けられない。
皇太子は、呼び出したきり待たせたままだった人物を探して、皇居公文書館へ向かう。
公文書館には、古い魔法の研究書や論文、そして日高見国の歴史書が収蔵されている。皇太子は国の歴史研究を専門としているから、もっぱら歴史書や古文書にしか触れることはない。
何百年も前に書かれた詠唱魔法の研究書など、現代においてはほとんどの人間にとって、歴史研究的価値しか残らない書物である。
書かれている内容は、起こりえないという点で、おとぎ話や絵空事と大差ない。それらに実用書としての意義を見出す人物はいない。ただ一人、皇太子の腹違いの妹、仲月見イスカを除いて。
「イスカ」
彼女は薄暗い公文書館の中で、天井に近い高さの本を取り、脚立の上でそのまま読んでいた。皇太子自身は触れたこともない、詠唱魔法の専門書だ。
「兄上」
この隠し子ならぬ、隠し妹ともいうべきものは、皇居の中で二人きりの時にしか、皇太子である自分をその言い方で呼ばない。そして今は、その条件に合致している。
呼びかけに答えて、脚立を一段ずつ降りず、一足で床に降り立つ。そのようなふるまいも、彼女の格好からは、さしておかしい印象ではない。のりを付けられてアイロンがあてられたシャツに、長めの短髪。長めとはいっても、女ではありえない長さである。
「わたしは詠唱魔法が使えます」
そう彼女が告白してきたのは、イスカ十二歳の時のことだった。
魔法が使える者のなかでも、詠唱魔法の使用可能者は年々減少してきている。
「兄上のお役に立てれば」とはにかむ彼女の言葉に嘘はなかったはずだ。ほかの誰にも伝えないでと頼まれたのに、自分は迷わず周囲に吹聴した。それ以来、腫物のような存在だった皇帝陛下の庶子は、使える駒に格上げされた。
もはや近代化と機械化がすすんだ世界では、軍事の主戦力は、個人の才覚に寄らない平準化を求めている。
特に能力に優れた魔法使いの働きが、大きく戦局を左右する時代は終わってしまった。
ある一定以上の威力のある他対象攻撃魔法は、使うのも習得するのも無駄という時代になってしまった。
しかしここにきて日高見国は、いまいちど詠唱魔法によって武力闘争を解決しようとしている。目の前の、仲月見イスカを利用して。
皇太子は妹の秘密を周囲に明かすことで、イスカではなく、自分自身が役に立つ人間だと思われたかった。そしてそれと引き換えに、イスカからの信頼を完全に失う。
今も彼女が「兄上」と呼ぶその硬質の声色には、怨気がこもっているような気がする。
「先日の話だが……」
「扶桑国へ行けという話ですね。行きます」
イスカは持って降りてきた本を、すぐ横の卓の上に置き、迷わずに答えた。
「特に戦場にとどまることになる。世話をするものや、お前の事情を知るものをつけよう。もちろん女の……」
「必要ありません。男として参りますので、気遣いは無用。わたし、この格好けっこう気に入っています」
「……そうだろうな」
イスカの生家である仲月見公爵家で絶え間なく行われていた実母からの壮絶な虐待は、イスカ十歳のころ、彼女自身の意思で男装をはじめて以来、止んだと聞いている。
いまは完全に存在を黙殺する形に変わったらしい。
皇居の公文書館への出入りが許されているのは、仲月見家の子息であるからだが、素性を詳しく知らない下級女官あたりからは、イスカは麗しの年若い貴公子だと思われている。
「戦争にはどのみち行かねばなりません。避ける方法はない。考える猶予をくださったのは、あなたの情けだ。ちがいますか」
皇太子は答えない。そうだったような気もするが、断わられても行ってもらうしかないことは確かだった。
「行きます。その代わり、条件があります。ああ。そうだその前に。兄上、生きて戦場から戻ったら、私はそのまま軍に残ります」
「正気か?」
「もともとそのために国軍大学校へ入りました。いろいろやりたいことがあるので」
確かにイスカは高等学校を飛び級で免除され、今春に三年制の国軍大学校を卒業。今は半年間の士官候補生学校入校中だった。そこを引き上げさせ、呼び戻したのだ。
「兄上、あなた戦いなんてお嫌いでしょう。私を皇太子の名代にしてください。あなたの代わりに私が軍務について差し上げます」
皇太子は目の前の妹を見つめ、しばらく考える。並みの暮らしをしていれば、戦場に行くことも、軍人になることもなかったであろう令嬢の姿を。
この異母妹が、不祥の庶子と呼ばれる所以は、その生まれのおぞましさにある。
イスカの母は仲月見公爵家の一人娘であった。家格で言えば、皇帝の妃のひとりとなってもおかしくはなかったが、ひとり娘故、婿を取り家を守ることになった。家格は劣るが、幼少の頃より知己であった伯爵家の次男と結婚。幸せに暮らすはずだった。
ところが、何年も前からイスカの母を側室にと望んでいた皇帝陛下は、あろうことか公爵家の屋敷から彼女をかどわかし、皇居に一年のあいだ幽閉した。
一年後、解放された仲月見公爵夫人の腕に抱かれていたのが、イスカだった。夫人は愛せるはずのない子と家に帰され、仲月見公爵は自分の子ではないが、決して殺すことも捨てることもかなわぬ子を育てることになった。
皇太子の母である皇后陛下は、その生まれと、仲月見家でのイスカの扱いに心を痛め、大変同情的であった。学校にも行かされていなかったイスカを皇宮に通わせ、教育を施すよう手配した。
皇家にも皇帝陛下にも恨みがあり、皇太子である自分のこともよくは思っていないイスカが、日高見国の危機に協力的なのは、立場上イスカを嫌って排してもおかしくなった皇后陛下の、に報いるためであろうと思う。
イスカがある日、「仲月見の家に姫はひとりでよいのです」と言って、それきり女の格好をするのをやめてしまったことを、皇太子は今も覚えている。
そして、その選択は正しかったとも思っている。イスカは、彼女の母である仲月見公爵夫人の若かりしころに、あまりに似すぎている。皇帝陛下が狂おしいほど欲した美しさを受け継いでしまった。違うのはひとみの色くらいのものだった。榛色の透ける翠のひとみだった。
皇太子はこのまま父帝の命潰えるまで、イスカを御前に立たせず逃がすつもりでいる。信頼を取り戻すためではない。それが兄の役目と思うからである。
「鷲獅子にも、乗ってみたいと思っています」
軍務につくことについて、イスカはさらにそう言い添えた。
「鷲獅子か。近衛になるのが目的か。条件というのはそれだろうか?」
皇太子の問いかけに、イスカは「いいえ」と答える。
「妹君のことです」
「妹?」
「皇太子殿下にはもうひとり妹御がいたはずだが、お忘れか」
今日一番の怒気を含んだ翠の瞳が、皇太子をにらみつける。
イスカと鹿嶋が、北の海に龍を逃がした日から、さかのぼること七年。
仲月見イスカ、十九歳になる年の、春のことであった。