七 約束のつづき
僕は学校を去って、花室の家に戻った。大学に入りなおして勉強をしたいと言う僕に、両親はやはりいい顔をしなかった。
弟二人の学費や行く末が心配だから、当然だろうと思う。今すぐに家がどうこうなることはないが、もう一人分の学費を工面する余裕も、なかった。
僕は大学校時代の棒給の大半を実家に送っていたが、賞与は自分のものとして確保していた。これを学費の足しにして、足りない分は学業の傍ら働きながら工面するつもりだったが、その不足分を出すと言う人が現れた。僕の産みの母、「お母さん」である。
彼女はひそかに貯めていた金を僕に託してくれた。僕と「お母さん」は二人で花室の家を離れ、初めてふたりで暮らした。
ここから僕は家庭内に存在する二人の母を区別する必要がなくなったため、産みの母のことを正しく母と呼ばせていただこうと思う。
イスカとの約束通り、僕は母と暮らしたが、それも一時だった。新しい大学に入学が決まったとたん、自立すべしと家を追い出されてしまったのだ。
だから僕は今はひとりで暮らしている。でも母の住む家とはさほど遠くないところに部屋を借りたから、よく会いには行く。
イスカはよく手紙をくれて、稲積も時々めちゃくちゃ短い手紙をくれた。どう返事をすればいいかわからないほど短いので、僕は仕方なくそれに自分の近況を書いて返信する。
イスカからの手紙は、彼らが国軍大学校を卒業する直前の初春に途切れる。その理由を、『イスカを追って戦場に行く』という稲積からの手紙で知ることになる。
それから二人からの便りは何カ月もなく、同じ年の十一月の終わりに、僕は大学で一本の電話を受ける。
学長室への呼び出しから始まる電話だった。身に覚えのある呼び出し方をされて、震える手で学長室の電話を取った。交換手の女の人が、電話口でかけてきた人物とつないでくれる。
「花室柏くんだね」
一度しかお会いしたことがないが、聞き覚えのある声だった。
「皇太子殿下であらせられますか」
「……よくわかったね」
「イスカになにかありましたか」
殿下の声にかぶせるように、逸って僕は声をあげた。
「イスカは……無事だ、が……金邑稲積は戦死した」
戦死か。耳の奥がつんとする。稲積、君は。戦場にまで追っていくほど、君は。
「イスカは、どうしているんです」
「今日、金邑氏の葬式がある」
皇都にある彼の実家のパン屋を思い出す。彼の父親や弟妹はどうしているだろう。妹は今、七つになったところだ。稲積はいつもひらがなばかりの手紙を妹に書いていた。
「イスカはそこに行けないのだ」
「どうして」
「生家の仲月見の母君に、男の葬式に行こうとしていることが伝わって、軟禁されている」
「……意味がわかりません」
「イスカは仲月見公爵家に、生涯婚姻もせず子も成さないという誓いを立てさせられている。その誓いに反する行為だと仲月見家は言ってきている」
馬鹿げた約束事だ。
「稲積はイスカの友達ですよ」
僕が別れたときは確かにそうだった。たとえ今そうでなくても、イスカの自由を誰が制限できるのか。
「イスカなら、自力で抜け出してこられるのでは」
「私もそう思うよ。でも、やらないだろう」
イスカはまだ、「母上」への思慕という呪縛にとらわれている。
「僕に連絡なさったのはなぜです。僕になにかできることがあるから、接触したのでしょう」
「自分の代わりに、君を行かせてほしいとイスカが……せめて稲積のために、そうしてほしいと言うのだ」
僕は電話を切ると、すぐに借りている部屋に戻り、一着しかない礼服を引っ張り出した。新しい大学の入学式用に、母が仕立ててくれたものだ。もうあなたの息子はだいぶ大人で、これ以上縦に伸びる余地はないのですと言い切れずに、母の望むまま少し大きめに仕立てられた礼服だった。
会場まで走っていった。歩きながらゆっくりと物を考える余裕は、このときはむしろ邪魔だった。僕はなにも考えず、大切な友達の死に顔を見るために走っていた。
会場の前で、皇修館の制服を着た学生が、よりどころがない不安げな表情でたたずんでいた。稲積は、皇修館とも、そこに通う学生とも縁がなさそうなのにと思って、不思議だったからよく覚えている。
稲積の顔は、きれいだった。
まったくどんなドジをして死んだんだろうね君は。僕は途中までは、イスカの代わりに来たから、イスカならどうするか? イスカなら泣くか? などと考えていた。だけどけっきょく稲積の顔を見たら、僕は僕のためだけに、泣かざるをえなかった。
それから一週間ほど経って、稲積の実家のパン屋へ行く。イスカはまだ自由にならない。彼女が解放されたとき、最初に来たがるのはここだろう。それまで、稲積の家族の姿を見ておきたかった。
大通りから一本道を入って、小規模な店が並ぶ一角にパン屋はあった。日々の買い物に行きかう人たちの波の中で、微動だにせず立ったまま、パン屋を見つめる少年がいた。
皇修館の制服だ。葬式の当日に、会場の外で立ちすくんでいた学生だった。
「君」
吸い寄せられるように、僕は少年に声をかけた。
「君のこと、少し前にも見かけたよ。稲積の葬式の時に……」
その名を出されて、彼は胸を突かれたように顔をゆがめて、「稲積さんのお知合いですか」と訊く。僕が友人だと答えると、彼は黄色くなった紙の束と、石を取り出す。石は、稲積の御守石の青虎目石だ。
「君は、戦場帰りかい」
少年はうなずく。
「これを、お渡ししなければいけなかったのに、葬式当日に、俺はひとりで稲積さんのご家族にお会いする勇気がありませんでした」
少年はにじみ出る涙で瞳を満たしている。僕は彼の横に立って肩に手を置いた。
「そんな勇気は、大人だってそう持てるもんじゃないよ」
真剣に考えて悩んで、彼はここに通い続けていたのか。戦場帰りで礼服も持たず、学校の制服でやってくるしかなかった少年が。
「イスカさんと約束したのに……」
「イスカのことも知っている?」
彼は顔をあげて、「はい」と言う。稲積は、こういう少年にも好かれる人になっていたのだと思うとう嬉しくて、そしてその分惜しかった。
「僕はイスカと稲積、二人と同部屋だった。国軍大学校でね」
僕は少年を伴ってパン屋に向かって歩き出す。
「一緒に行くよ。一緒に話をして、一緒に話を聞く。僕は花室柏という。君は?」
少年は湿った瞳をぬぐってから、はっきりと答えた。
「佐治、鹿嶋と申します」
イスカとはそれから、実際に会うことは少なく、手紙のやりとりばかりしている。僕の立場も少し変わったので。
イスカは、正規の軍にはきちんと女性として籍を置くことになった。彼女が自分について偽ることが一つ減って、僕は安心した。きっと性別を偽ってまで入校したことを、悪いと思う心がどこかにはあったはずだから。
イスカにとって稲積が、最後にはどんな存在だったのかはわからない。だけど僕は、今もまだ仲月見イスカの友達でいる。
ある時、イスカは新しい副官を持ったと知らせてきた。
僕は、いつかイスカが自分が部下を持ったときの不安を口にしていたことを思い出す。しかし手紙を読み、そこに記された名を見て、何の心配もないことを悟る。彼女のそばには、あの日あった少年、佐治鹿嶋がいる。




