五 善き人のために
仲月見イスカは変わった人だ。
彼女の好物は、木の実や小麦のふすまを固めたもの、水分のない乾パンとか、カサカサぱさぱさしたものだった。パンも数日たって硬くなったものがいいと言う。
この発言には実家がパン屋をやっている稲積がお怒りだった。そうだ、彼女はおよそ生命の香りがない食べものが好き。鳥のエサみたいなものが好きだった。
「食べることは能動的に生きようとする行為だから苦手なんだよ。すごく疲れる」
「意味がわからないよイスカ。ちゃんとご飯を食べたほうがいいよ」
女なのに男として、こんな体力勝負のところで生きているのだから、食べて体を作らなければつらくなる。彼女は訓練や学校生活について行くために並々ならぬ努力をしていた。勉強とほんのちょっと余暇以外は、ほとんど走っていたのではないかと思う。ならなおさら食べねばならないと思うのに、「木の実には相当な量の熱量が……」などと言いながらまた煙に撒こうとする。
「いいから食えー!!」
そんな時は稲積がやってきて、むりやりイスカの口に食べ物を詰め込んで去っていく。僕が口で説得して、彼女が折れないなら稲積が物理で介入する。それが万事における僕たち三人の生活になっていった。
ある授業が始まってから、イスカは明らかに悩むことが増えてきた。
その授業は軍事指揮論だ。
実際に軍を指揮する方法を学ぶのではない。指揮官としての心構え、部下を指揮するということの意味、指揮官として身に着けるべき能力の条件等を学ぶのだ。
指揮には統一が要求される。目的の統一、行動の統一、指揮の統一。さらにそれには迅速性も必要である。だからこそ、軍はことに及ぶとき一人の指揮官に権限を託す。決心するのは指揮官である。それにより、指揮、行動、目的の統一が維持され、迅速性が確保されるのだ。
指揮の要訣は、部下を掌握し、適切な命令を通してその行動を律することにある。
命令を発した後に状況急変等があれば、部下がそれに合わせ適切な判断が下せるよう、自由裁量の余地も残すことが重要だ。
指揮官は、その権限の一部を、部下指揮官に委任することが許される。この場合においても、委任した権限に係る責任を免れることはできない。
行動する場面は、たいてい戦場だよ。
恐怖、混乱、定まらない状況、不完全な情報。どんな環境にあっても、指揮官には断固たる意思決定が要求される。見えているものがすべてではない状態で、その時の最善を選び取る決心が要求される。その決心には、隊の人員、部隊の行く末、戦局、果ては国の未来までが乗るかもしれない。
基本的人権の制限さえも避けられない。人命を軽視してよいというわけではなく、どのように入念な策を考え気を配っても、なお生命の危険を完全に回避することができない状況に置かれるということだ。
イスカには理想がある。こうあるべきとか、こうあってほしいという姿を、彼女はいつも具体性をもって頭の中に描きながら行動している。
彼女は怯えているのだ。最善を選び取れるかわからない追いつめられた状況で、理想とかけ離れた道を選び、その結果を見ることに。
「イスカは稲積と違うから、悩んでいたって生活が乱れることはないよ」
「なんだそれ。嫌味か」
「本当のことじゃないか」
稲積もイスカの様子に、一応の心配りを見せるようになっていた。彼はイスカの正体を知らないから、彼自身が放校を免れた理由を知らない。でも、見えていることだけでも恩義はあるだろう。
「イスカは、善き人になるんだよ」
あの夜にイスカが語った正義について、僕はいいと思った。でも稲積はそれを聞いて怒ったのだ。
「なんだよ善き人って。全方位に善き人であろうとして、あいつが戦場で呆けて突っ立って、死んでいくところを柏は見たいのか」
「そうじゃないけど」
「イスカはもう十分いい奴だし、がんばっているじゃないか」
稲積の言おうとしていることを、僕もなんとなく理解した。僕は彼女を信頼している。彼女なら正しいことを選べるはず、彼女なら寄せられた信頼を裏切らないはず。彼女なら。
信頼は人を勇気づけるけど、イスカに寄せれられるたくさんのそれが、いつか彼女を追いつめることになったら?
稲積と僕は、全然違うところからイスカを見ている。
あるとき、講義が終わった後の教室で、イスカは立ち上がることができずに座ったままでいた。彼女は軍人になるということの意味をきちんと理解してここにきたはずだが、もしかして今それを後悔しているだろうか。
声をかけるか迷う僕をさっさと追い抜かして、稲積が大きな手の平ふたつでイスカの頭をつかんで言った。
いつか軍隊で人員を指揮する立場になる。その未来の具体性を想像してこわばるイスカに言った。
「いいか、イスカ。人生はクソみたいな現実と理想とのすり合わせ作業だ。お前の理想がいつでもそのままの形で実現することは、この先二度とないかもしれない。だが最悪を回避して、少しでも理想に近い形を顕現させたいなら、すり合わせろ。お前が後悔せず、なるべく多くの人間を傷つけなくて済む、その落としどころを探せ」
それは非常に難しそうだったが、理想と現実の乖離に苦しんで立ち止まるよりは、希望があって建設的な方法だ。
イスカは「すり合わせる」とか「落としどころを探す」とかひとりで何度かつぶやいたあと、自分よりまだずいぶん背の高い稲積を見上げた。
「稲積。私はそれ以外にも、不安に思っていることがたくさんあるよ」
いつか人を苦しめる立場になるかもしれない。その予感が、彼女をしめつけるのだろうか。
「いつか部下を持ったとき、当然私ができることは彼らもできるものとして、みんなを追いつめたりしないかな」
「今からそんな心配するなよ。万が一やっちまったらごめんなさいで許してもらえ」
「軽いね」
「一回でも失敗したらそれでもう終いみたいな考え方はやめろ。そりゃあ戦場で大失敗したら目も当てられないが、そのために訓練ってものがあるんだろうが」
僕は近くにいて、なるべくイスカの話を聞いてやりたい。稲積はイスカの考えが袋小路に入りそうになると、力づくで丸め込んで引っ張り出そうとする。僕たちはやり方は全然違ったけど、たぶん二人とも彼女の力になりたかった。




