四 灯のまわりに座る夜
騒動を上級生たちにかぎつけられる前に、僕たちは巣をつつかれた蜘蛛の子のように四散した。
部屋に戻り消灯時間が過ぎ、就寝するまで、僕たち三人は誰も何も話さなかった。
「稲積」
暗闇の中で最初に声を出したのは、イスカだった。
「そろそろ教えてよ。どうして毎日変なことばっかりするんだ」
変なことか。物はいいようだった。稲積が答えないから、イスカはベッドから転がるように飛び出して、自分のロッカーから灯油ランプを引っ張り出す。
「何するつもりだよ」
稲積も起き上がって、ベッドから這い出てきた。
「ねえ、見つかったらまた僕たち処刑されるよ」
そう言いながら、僕もベッドを降りる。イスカはランプに火を入れる。指先一つで火をつけて、芯を絞って小さな光がやっとホヤから透けるくらいに調整する。
指先の火は魔法だ、と思って僕はイスカをじっと見た。
「イスカ、もしかしてさっき飛び降りた時も魔法を使った?」
「うん。少しずるいことをしたと思っている」
だから彼女は飛ぶ前に「友情のために」という口上をしたのだ。あれは自分と周囲への言い訳だったのかもしれない。
使う人のいない、入口から二番目のベッドの脇で、イスカの灯油ランプを囲んで男たちは小さくなって集まった。ひとり女も混じっているけど。
「だから稲積、今日私がしたことは気にしなくていい。私は自分があそこから飛び降りても傷つかないことを十分わかっていてやった」
稲積は、長く息を吐いてしばらく沈黙を作ったあとに、ようやく口を開く。
「本当に……わざわざ話すほどのことじゃあないんだ。よくある話なんだよ」
稲積は、ほんとうによくあることなんだ、ともう一度言った。
「世の中の人や創作物の中によくあることであっても、君の人生には重篤な出来事だったわけだろう。気にせず話せばいい」
それを聞いて稲積は、「母親が死んだ」と一言だけ言った。それ以上の言葉が続かなくて、僕たちもなにも言わなかった。
欠陥だ。欠陥だよと、僕は思った。親との死別など、あらゆる人間が人生でかならず遭遇しなければいけない出来事のはずなのに、それがこんなに悲しくて傷になるなんて、欠陥としか言いようがない。かくいう僕も、父はともかく「お母さん」が死んだと想像すれば、それだけで泣けそうだった。
「俺は別に、特別軍人になりたいわけじゃない。けど両親が、特に母親が……お前はいろいろできるから諦めないで上の学校に行けと言うから」
子に、なにかしらの能力があるのなら、それを伸ばしたいと思うのは親心だよ。それこそよくある話じゃないか。
「俺が勉強できるように母親はがんばってくれて、応援もしてくれたから、そういうものに応えたくてここに来た。その期待の先に軍人があるなら、それもいいかと思ったんだ」
そうだよなあ。国を守りたいという強い意志でここまで来たやつばっかりじゃないよ。
僕は自分もそうだから、稲積の話は納得できた。国軍大学校入校中は棒給も出るし、うまく軍功を上げれば、将来叙爵の道もある。庶民出身者には夢のある選択だ。稲積のご両親が彼に期待をかけたのも当然だった。
「けど、ここには優秀な奴がたくさんいるだろう。俺なんて凡人だよ。母さんも死ぬし、なんだか戻ってきても努力を続けていく意味をなくしたんだ」
「だからって僕たちを巻き込んで処刑三昧はひどかったよ」
「ごめん……」
稲積は謝ってくれた。反省したとして、糸が切れたようになってしまった彼の意志は、これからどこへ向かうのだろう。ここに残る意味をもう一度見つけなおさなければいけない。
「君がそうやって悲しみのあまり自分の人生を粗末にするのを見ているのは悲しい」
静かに話を聞いていたイスカが声を発した。
「母親が悲しむか?」
「それは……わからない。私は稲積のお母上にお会いしたことがないし、実際そうお思いになるのか、もはや確かめようがない。悲しいのは私が、だ」
正直すぎる物言いだったが、イスカらしくもあった。灯油ランプの光の中に浮かび上がる彼女は、夜更けの夜気の湿っぽさを浴びたからだろうか。光をはじくようにつやがある。
「亡くなった方の気持ちを想像するのは……難しいよ……」
イスカは一生懸命に考えながら話しているようだった。
「他人の頭の中で何が起こっているかはわからない。この世にいない人ならなおさらだ」
考えても答えの出ない問題が、生きている人間を苦しませるのは常態だ。
「だから、今わかっていることや、いま手元にあることに目を向けるしかない」
今、手元にあること。
「稲積、君はやはりこの学校をやめて誓った道をたがえることになるかもしれない。たとえそうなっても、私は一度は君と友達になれたと思っているよ」
「止めてくれないのかよ」
「私の言葉で踏みとどまっても、君はいつかまたその選択の価値を見失う。たぶんは稲積は、自分自身で決めたことにしか重きをおけない。そういう人だと思うよ」
稲積は手の平をじっと見つめていた。そこに何があるのか僕にはわからない。
稲積の中で、何かが変わったわけではないと思う。彼はただ、どれほどつらくて悲しいことがあっても、人間というのは、また翌日から何事もなかったかのように、ご飯を食べて息をしていくしかないと思い知っただけなのだ。
いいことも悪いことも、いつか薄れる。それの善し悪しは問題ではない。忘却は人が生きるための大切な機構だ。だけど、いつまでもどうしても、忘れたくないことだってある。
稲積は学校に残った。
それ以来、彼の自暴自棄とも思える行動はなりを潜めたし、同期との関係も悪しき時期がけっこう続いたが、時を経るごとに修復に向かっていった。でもそれもちょっとずつだよ。いきなり状況が全部いいほうに行くなんてことは、ないから。
それからしばらくして、イスカが僕たちの部屋で一人で髪を刈っていた。鋏とカミソリを使って、きれいにやる。必要であれば手伝うつもりで近づいたのに、手際の良さに思わず見とれる。
「うまいね」
「手慣れているよ。私は十歳のころから男の格好をしているんだ」
国軍大学校に入るために性別を偽っているわけではなかったのか。それは一体なんのためだったのか。
「この学校に来るためにしているんだと思っていた」
「国軍大学校のことも、兄上と二人で調べたんだ。そうしたら、女の入校を禁止していると言うよりは、最初から想定していなかったようなんだ」
それは、あり得そうな話だと思った。
「はじまりは私のわがままだけど、きっとこの国でここに来たいと思っている女性は私だけではないはずだから、彼女たちの助けになれたらいいな」
「イスカは……女であることが、つらかった?」
「それは……ないかな」
あまり迷わずにイスカは答えてくれた。
「生きるのが大変なのは常にあることだよ。でもそれは、私が仲月見イスカであり、人間であるからだ。選べなかった性別とか、生まれのせいではない」
これからも人である限り大変なことはあると思うけど、それはずっと変わらないよ。彼女はそう言った。そして髪の短くなった頭を振って、すっきりしたと笑う。春の太陽のような、美しい笑顔だった。
「君の新しい正義を聞いたよ」
稲積の問題に流されて、僕はそれについて詳しく聞く機会を失っていた。
「君は、善き人になるんだね」
僕の言葉を聞いて、イスカは何かに気づいたように目を開いて、それから満足そうにうなずく。
「善き人か。それはいいね」
後に彼女は「本当は私はこの正義が怖かった」と教えてくれた。道徳的に優れた人間が行えば、その行為は善きことと認められる。この正義を取るならば、自分の人格を向上させなければいけない。生まれが正しくない私には難しいと思った、と。
そんなことはない。僕にとって、君は最初から善き人だったよ。今もずっとね。




