十七 花をさがして
間に合ってよかった。
彼は安堵のため息とともに、笑う。今日という日に間に合うように戦場に戻ったことを、稲積は喜んでいる。
それは、いつか紗蓉子のために戦場に向かうことを一種の喜びと感じていた、鹿嶋の狂気に通じる。
振り返らずに去った稲積のあとを追っている。
鹿嶋は、地面の下に縦横に張り巡らされた壕のなかをかけていく。とちゅう交通壕がとぎれれば、艦砲射撃の恐れのある地上にも姿をあらわし駆けなければならない。
稲積は、イスカのいる場所を正確に把握しているらしかった。それも、戦局よっては彼女が移動しているかもしれず、この広い戦場で、たったひとりの魔法使いのもとへたどり着くのは容易ではない。
だが走っている。そうせざるを得ずに走っている。鹿嶋も稲積も、全力をもって戦場を駆け抜けた。
破壊兵器としてあつかわれる、ある魔法使いの、弱さと頼りなさを知っているのは、ふたりだけなのだから。
地中深くの退避壕にくらべ、地表付近の壕にいれば、それだけで砲にあたって死ぬ危険がある。直撃すれば、あとかたもなく影ものこさず地上から消え失せるしかない。
——そうなれば、俺はただの戦場行方不明者だ。
その死すら、彼女に伝わることはない。必ず迎えに行くと約束した少女に、すまないと強く心で念じる。
その時、遥かかなたから笛の音の様な音を曳いて、赤い光も曳いて、まっすぐに、いくつもの線が空を横切っていくのを見た。
美しい。その言葉はどう考えても妥当ではないが、あの空を飛ぶものの正体を知らない人間が、実際そう言っても責められはしない。
夜空の上を音を曳いて、一直線に飛んでくる。見上げる間もなくそれは、鹿嶋から視認できる近距離に着弾した。数百メートルは離れているはずなのに、ひびきわたる轟音、飛び散る砂と小石、爆風に吹き飛ばされて鹿嶋は飛んで転がる。爆風より、衝撃波というほうが正しい。
あの時と一緒だ。斉京の街を龍が焼き払ったときと同じ。生きている人間を小石のように踏みにじっていく横暴。鹿嶋は恐怖と怒りがない交ぜになって、無残に穴が開いていく戦場に向かって叫んだ。獣のような咆哮は、さく裂する火砲の音にかき消され、誰にも聞こえない。転がるように塹壕の奥の退避壕に逃げ込む。
地面そのものが揺れている。退避壕が埋まるのではないかと思うほどの振動と轟音。
あきるほど砲をあびせかけ、すでになにもない戦場をさらに焼しめて焦土にしていく。
なん十分か、何時間か。悪魔のような容赦のない砲撃が止んだ。
鹿嶋はすぐさま小銃を抱えて、白煙がくすぶる戦場に駆け出した。稲積は無事か。
あれは艦砲射撃だ。これから上陸する部隊を支援するための砲撃。軍艦は扶桑国沿岸まで来ている。これで決めるつもりだ。砲撃が止んだということは、つまり、陸上戦艦部隊が上陸してくる。
イスカがひとり残された地点まであと少しのはずだ。彼女は見つかるだろうか。
朝霞なのか、火砲の煙なのかわからない。白いもやの向こうが明るい。朝の白みが近いのか。いや、まだ夜は明けないはずだ。
あの光は?
青い炎が見える。あれは、魔法使いの炎だ。
「イスカさん!」
近づくにつれ、炎の様子がおかしいことがわかる。明滅し、くすぶって、燃え切らないうちに消えては、またどこかで生まれている。
不確かな彼女の心のように、なにを燃やすか決めかねている。
イスカの姿は見えないが、鹿嶋はその炎をめざして、あらたに火が生まれる壕に飛び込んだ。
「イスカさん!」
叫んで、目に飛び込んできた画を見て、鹿嶋は停止した。イスカがひざの上で、稲積の頭を抱えている。
「稲積……?」
鹿嶋がふたりに近づこうとしたとき、続けざまに塹壕に飛び込んできた影がある。アルモリカ兵だ。
鹿嶋は塹壕に飛び込んでくる敵を殴り倒しながら、叫ぶ。
「イスカさん! 立って!」
いま鹿嶋が戦っているのは、後続するランドシップ部隊に敵の位置を伝えるための偵察歩兵部隊。すぐに陸上戦艦がこちらの陣地を蹂躙し、そのあと敵主力歩兵部隊が来る!
突き刺すときは、まっすぐに。そうしないと抜けなくなる。稲積の声を思い出しながら、鹿嶋は迷いなくまっすぐに、組み敷いた敵兵の喉元に銃剣の切っ先を突き入れる。
「イスカ!」
イスカには自分の声が届かない。第一陣としてやってきた兵をあらかた片付けて、鹿嶋は息を切らし二人に近づく。
「鹿嶋。稲積が、水が飲みたいって」
恐ろしく穏やかなイスカの声をきいた。化け物が目覚める前触れのようだった。
鹿嶋は黙って水筒を差し出した。あのみずみずしい、花の香りのする宝物のようなお茶が入っている。
イスカは中身を確認すると、それを口に含み稲積に口づけて飲ませた。琥珀色の美しい水分は、喉を滑り落ちることなく口からあふれて、黒い地面をたたいている。
どこから撃っているのかわからないが、迫撃砲は雷のように落ちている。銃弾も小雨のようにぱらぱらと降り続いているのに、塹壕の中、ここだけは夜の墓場のように静かだった。
イスカはなにも言わずに、抱えていた稲積の体をそっと土の上に横たえる。それから来た方とは逆から塹壕を出て、弾丸と砲火の下にその身をさらす。
「イスカさ……」
呼びかけの続きを鹿嶋は失う。
炎だ。湧いて来たのか。青い炎と赤い炎が、イスカの足元から波を打つように生まれ始めている。
躍動するたびに成長し大きくなっていく炎は、渦巻いてイスカの頭上高く円を描くように広がっていく。真昼よりなお明るい。目も開けていられないほどのまばゆさと、炎の熱さだ。
鹿嶋は横たわる稲積の体に駆けよって、覆いかぶさるように守った。熱い。今にも燃えて、皮膚がただれそうな熱を感じる。見上げて、炎の渦の真下で、イスカが呪文を詠唱するのを聞いた。
祈りの言葉だ。祈り。なにを祈って、あなたはその祝詞をあげるのか。
『さびしき日陰の蝶ひき連れて
青く燃えあがる 炎の透明
鍵盤に指下ろす一瞬
つぶさに語れ まぶたが隠す回禄のあかるさ
遠ざかる陽が連れてゆく失ったもの
薄暮のそらに群れてささやく蜩を聞いて私は待つ
砕けるその時は あなたの名を呼ぶ』
鹿嶋に母はいない。彼の誕生と同時に死んだので、親の死に目というのは見たことがない。でも、鹿嶋はそれを知っている気がする。イスカが自分の意志で戦場を焼き払った日、稲積が死んだ日、それは親を失ったように悲しかった日だ。
人の燃える音聞き、その匂いを一晩中嗅いでいた。
なにかを燃やしたあとの風に舞う灰が、再び炎をついで燃え上がり、魔法使いの火は消えない。
途中でイスカが、「雨を降らせなければいけない」と言う。雨を。
稲積は、鹿嶋のひざの上で死んでいる。
陸上戦艦部隊は全滅した。アルモリカの歩兵部隊も焼き尽くされ、銃火はその夜をさかいに完全に止んだ。
夜明け前、言葉通りイスカは雨を降らせ、つけた火を自分で消した。焼け野原となった戦場で、稲積の死体を前に、彼女は昼近くまで茫然と膝を抱えていた。
誰が、何をやったのか。わかるものも、わからぬものも、誰も恐れてそこには近づかない。
雨が降り始めたころ、鹿嶋は二人のそばからそっと姿を消して、やはり昼になってようやく戻ってきた。
現れた鹿嶋の手には、どこで見つけてきたのか、一輪の花が握られていた。花弁の端はすこし焦げていたが、たしかにちゃんと花だった。揺れる、小さな白い花。
取り残されたような顔をしたイスカの傍らで、もう動かない稲積の横にひざをつく。
鹿嶋は自分の戦闘服から箱のつぶれた煙草を出して、封を切って彼の手に握らせた。箱から一本煙草を出して、欠けた隙間に、代わりの花を挿してやる。
「稲積、遅くなってごめん。たくさん歩いたんだよ。大変だった」
こんな戦場で、花を探して。




