十三 誰のために 君は
稲積の体の調子は、全快までなかなか回復しなかった。
少しでも調子を戻すと、攻撃命令に従って隊と一緒に出撃しようとして、実際にしたときもあった。
寝付いたり、少し元気になったりを繰り返して、しかし確実に体は衰弱してきている。
鹿嶋は、稲積とイスカが長く話し合っているのを何度か見た。イスカは言葉を尽くして、どうか稲積に一度後方へ下がるか、本国に戻るなりしてくれと訴えるが、稲積はうなずかない。
鹿嶋はいくらイスカが心配だと言っても、彼はかたくなすぎると感じている。稲積がどうしてもここを離れたがらない理由が、もっと他にあるのではないかと思い始めていた。
でも、他人の頭の中をのぞき見ることはかなわない。鹿嶋がみずから訊かない限り、その疑問が解けることはないだろう。
思いがけず静かな夜だった。こういう日はめずらしい。
鹿嶋は近頃はいつも天蓋のそばで眠り、稲積の様子を見ている。イスカはここにあまり来ないから、さみしくないようにしてやろうと思って、している。
「イスカは、ぜんぜんここに来ないな」
稲積が仰向けに天蓋を見上げてひとりごちる。
「忙しいんだよ。それに、稲積といると最近すぐ喧嘩になるから」
「喧嘩しているわけじゃない。俺たちはどちらも相手に譲ることができないだけさ」
それが行き過ぎると喧嘩になるのだと鹿嶋は思ったが、何も言わなかった。顔を合わせればイスカときつめの言葉の応酬しかできないことを、一番いやだと思っているのは稲積だろう。
「鹿嶋、何を書いている」
「手紙」
「女への手紙か?」
「そう」
鹿嶋は、先日朝明を見送ったときに自分がしたことと、考えていたことを、忘れる前に紗蓉子に宛てて書きたかった。小さな帳面の片すみに、丸まった鉛筆の先をこまめに銃剣で削ってとがらせて、書きつけていた。
「好きな女か」
「そうだけど」
からかうつもりで言ったのに、なんの臆面もなく言いぬく少年の姿に稲積はかえって恥ずかしくなる。
「前から思っていたが、お前には照れとか恥とかいう概念はないのか」
「あるけど、でもしょうがないよ。好きなんだから」
そこで噓をついて、一体何になるというのだとでも言いたげな顔である。完全に負けたと思って、稲積は身を起こして降参する。
「じゃ、早く送ってやらないとな」
「送らない」
いる場所はわかっている。送り先も、宛名も。しかし佐治鹿嶋からの手紙が稚日宮紗蓉子に取り次がれるとは思えない。
「どうせ届かない手紙だ」
「さては鹿嶋、なにかやらかして、その子と会わせてもらえないんだろう」
「そうだよ」
鹿嶋の答えに、稲積は総身に冷水を浴びせられたような顔をしている。自分で訊いてきたくせに、と鹿嶋はおかしくなる。
「……なにをした」
「連れて……逃げようとした」
ぼんやりと、自分で書いた手紙のなかの『紗蓉子』の文字を見ている。
二人が一緒にいられなくなった原因自体は、その前にあったが、紗蓉子が皇女宮に戻り、鹿嶋と逃げようとしていたことが知られていれば、おそらくそれが一番重大で、取り返しのつかないことと認識されているはずだ。
いま鹿嶋がなんの罰も受けていないのは、いつ死ぬかわからない戦場にいるからだ。いっそ死ぬことを期待されている。
「今のままの俺ではとても一緒にいられる人ではなくて、そうするしかなかった」
「……後悔しているか」
「していない。やろうとした行為は間違っていたと思う。でもそれをしたこと自体は、後悔していない。ちゃんと大人になったら、迎えに行くって言ってあるし」
またも、鹿嶋は淀みなく答える。未来を選ぶ権利が必ず自分にあると信じる若い者の姿だった。
日高見国国軍は、南海側、公海側で順調に戦線を南へ押し込むことに成功しており、それぞれの戦線には点々とほころびができ始めている。
扶桑国首都を攻めることに注力しているアルモリカ軍部隊は、南海側、公海側双方の戦線が崩れ始めたことで、首都攻勢部隊が包囲されることを恐れて、厚くしていた首都前面の火力を分散させはじめた。
もともと拮抗していた扶桑国首都防衛側と攻撃側は、アルモリカが火力・兵力を後方へ引き抜いたため一気にアルモリカ軍が劣勢に傾いた。アルモリカは今、戦線全体で後退を迫られている。
またアルモリカ本国でも、群島諸国からの移民を東方諸国で独立させてやる意味があるのかと、国民から疑問の声が上がり始めている。
兵器はともかく、兵士の補充には滞りが見えだす。
アルモリカも、戦線のほころびをついて侵入してきた敵に、予備兵力を計画的に配置すれば、まだ対応可能である。だが、それが兵量的にしづらくなっている。
明洗の港まではあと十数キロまで迫っていた。もう少しでイスカが詠唱魔法を使用可能になる。
一方で、一度壊滅的な被害を受けたアルモリカの陸上戦艦部隊も再編成が進み、いつまた上陸するかわからないという状態である。両軍とも、雌雄を決する切り札を出すまでの、時間との勝負になってきている。
鹿嶋は詠唱魔法というものを知らない。この目で見たこともなければ、その威力についても想像ができない。
「それは当然だ」
詠唱魔法についての鹿嶋の疑問に、イスカは丁寧に答える。
「いまや詠唱魔法使用者が現れやすいと言われるわが国でも、両手に足りるほどの人数しかいないのだから。逆に言うと詠唱魔法なんて、なくても困らないということだよ」
「イスカさんひとりで、明洗港を奪取できるくらい威力のあるものなんですか」
「詠唱魔法にも数段階の威力がある。詠唱呪文……日高見国では長らく祝詞と呼んでいたが、それが長いものほど高火力だ。明洗で使うのなら、七行詩は必要かもしれない」
「呪文とは、詩のようなものなのですか」
「詠唱魔法使用者が、自分の中で見る概念的な呪文の長さを、何行かの詩に例えているだけだけどね。私は皇室公文書館で、古い詠唱魔法の書物にあたることで、やっと呪文が祝詞と呼ばれていた理由がわかった」
イスカには魔法の師はいない。古い書物を頼りに、自らのなかの魔力の源泉と向き合い、自分の力を見つめるしかなかった。
「魔法とは、自分のなかにある魔力の源泉との対話だ。詠唱なしの魔法とは、その源泉から湧き出る端を使って、魔法のようなものをひねり出しているに過ぎない。詠唱呪文とは、魔法を望む形で自分の中から引き出すためにささげる祈りの言葉だ。まさに昔の人々にとっては、祝詞だったのだ」
祈りとは、鹿嶋にとっては、聞き届けられるかわからない不確かで頼りにできないものだ。神を信じたことのない鹿嶋にとって、捧げる先がない。それでも祈らずにはいられない時、行き場をなくすのが、鹿嶋にとっての祈りだ。
みんな詠唱魔法を万能のように言うのに、それを使う人は祈るように毎回自分と向き合わねばならないのか。陸上戦艦などという硬く冷たい裏切りを知らない兵器と比べれば、なんてたどたどしいものに日高見国は頼ろうとしているのか。
イスカを戦争に出すと決めた人々は、なぜこの人の細い肩に、国の命運を乗せる気になったのだ。




