十一 血と赦しのあいだに
稲積のために水を取りに行った翌朝、鹿嶋は朝飯を用意している火のそばで、イスカに声をかけられる。
「昨日、稲積のためにずいぶん遠くまで行ってくれたと聞いた。つかれていないか?」
「はい。戻ってすぐ寝たので、問題ありません」
「……稲積には、一度後ろへ下がって療養してもらいたいと思っているのだが、本人が承知しなくて」
イスカは心底困っているように見えた。
「戦場で敵の攻撃で負傷したわけでもないのに戻るのは不名誉だと言うんだ。そんな考えは古いよ」
稲積は自分が戦場に残り続けたい理由を、イスカにはごまかしているのだ。
「家族からの手紙など届けば、少しは考え直してくれるのではないでしょうか。妹と弟がいると聞きました」
鹿嶋は自分は家族との関係が希薄なくせに、いや、だからこそ、ありがちな方法しか思いつかない。
「あと、父君もいる。稲積は四人家族だ」
イスカは遠く思い出すように火を見つめながら鹿嶋に教えてくれた。
「稲積の実家は、皇都でパン屋をやっているんだ。近くの小学校の給食で使う日は、彼の父君は早朝に何百個とコッペパンを焼くらしいよ」
貴族の出ではないと聞いていたが、稲積の家の商売の話は初めて聞いた。
「……稲積は優秀だった。だから父君や母君の期待を受けて、彼は国軍大学校に進学し、立派な将校となるはずだった」
国軍大学校経由で軍の将校となる道は、貴族の出ではない平民が上の階級へ成り上がるための数少ない手段と言っていい。
大学校でも家柄や生まれを気にする気風がなくはないが、それでも真に自分の才覚と努力があれば、いくらでも上を目指せる世界である。国軍大学校に入学するだけでも相当の苦労があるが、在学中の学費は全額免除となるばかりか、さらに棒給も出るから、稲積の父はさぞ息子に期待を寄せたことだろう。
「それを私のような者を追って、幹部候補生学校を休学して戦場に来て、父君は相当お怒りなんだそうだ。それで、手紙も来ない」
強い期待と愛情の裏返しなのだろうか。最初から鹿嶋を見なかった佐治侯爵より、稲積の父はよほど息子を大事に思っているだろうに。
「稲積は笑って話すが、私のせいだよ」
鹿嶋は得体のしれない苦さを黙って飲み込む。稲積は本当に気にしていない。彼は、イスカを支えることをまず第一に考えただけなのだ。それを鹿嶋からイスカに伝えてよいのか決めかねて、結局言わなかった。
ある時、いつ攻撃命令が降るかわからないというので、みなが相当に緊張している日だった。晴れ渡った青い空の下だった。
秋晴れの天気が恐ろしく良いので、今日はやめにするということがあればいいのにと鹿嶋が思っていると、さえぎるもののない原っぱの真ん中で、朝明が呆然と、地面でも目の前の空間でもない場所を見つめて立っていた。
鹿嶋はなぜか苛ついて、それを見なかったことにしようと臭い水路の水で乱暴に顔を洗う。あんな風に、すぐにも死にたいという空気を出しやがって。今はまだ生きているだろうに。
その日の攻撃で、美しかった空は弾幕弾と砲弾の土煙であっという間に見えなくなった。
鹿嶋は視界の片すみで誰かが撃たれたのを見て、そいつをまた誰かが近くの塹壕に引っ張り込むのを確認した。
そこへ近づこうとすると、弾幕が晴れかけた青空の向こうから、弾が飛んでくる。身を伏せ、数発煙の向こうへ撃ちこむ。そこへ後方から追加の弾幕が撃ち込まれ、再び視界不良となったのを確認すると、目の前の塹壕に飛び込む。
「鹿嶋」
イスカがいた。しまったという顔をしている。救護しようとしているのは、竹内。竹内朝明だった。
弾丸の威力と言うものは、速度が速いほど増す。
本国で警察官がぶら下げている拳銃より、戦場で兵士が使う軍用小銃は数倍の弾速を持ち、威力もそれに比例する。拳銃弾は、人体の急所に命中しない限り致命傷にはなりえないが、同じ銃弾のつもりで軍用小銃の弾を受けた場合、人体の損傷の度合いは比べ物にならない。
高速の銃弾の命中は、人体内部に衝撃波を発生させ、周囲の血管や神経組織を破壊しつくす。
大腿骨に命中すれば骨が裂ける。その傷は大量出血を生み、骨をよけた場合でも、大腿動脈・静脈に損傷があれば、同じく大量出血は免れない。
大腿部貫通銃創であれば、もって数分。五分はもたないと見ていい。瞬きをする間に死ぬ恐れがある。迷えばそれだけ死が近づく。
鹿嶋はすぐにイスカの横に付き、朝明の傷を見た。大腿部付け根に近い。止血帯は使えない。
「いいのか」
イスカは驚き、鹿嶋の顔を見る。ここで鹿嶋が拒んでも、イスカはひとりで朝明を助けようとするだろう。それをただ眺める道は選ばない。
「友軍を助けるのに、理由が要りますか」
「いや、いらないね」
イスカは少し笑って、すぐに傷病人に向き合う。
「加療術で一時だけ血を止める」
「加療術も使うのですか」
「私の妹がよく使う。見様見真似だ。正直ひどいもので、当てにされても困るから他人に見せたことはない。薄膜を張って血を止めるので精いっぱいだ」
「十分ですよ」
「鹿嶋、傷の中に手を入れて、直接止血を試みろ。私の魔法はその手助けをする程度しかできない」
鹿嶋はうなずくと、折りたたんだガーゼを朝明の銃創に直接押し当てる。傷口は小さいが、中がどれだけ損傷しているかわからない。
「出血箇所に直接当てるように押し込め」
鹿嶋は指先で傷口の面積を探るように、中に入っていく。朝明が痛みで叫び声を上げそうになるが、イスカがその口に容赦なくぼろ布を詰め込んで黙らせる。
目立たないような小さな光が、イスカの手の平に宿っている。暖かい。
涙でにじむ目を見開いている朝明は、恐ろしくて患部を見ることもできず、空を向いてあえいでいる。
ガーゼの白を侵食して駆け上ってくる血の勢いが鈍った。血が止まりつつある。鹿嶋はガーゼから手を離すと、包帯を取り出し、朝明の患部にきつく巻き付ける。
「もって三十分といったところだ。それまでに今回の攻撃は終わらせて、君を後方に送らなければならない」
ここで待て、と言い残しイスカは塹壕の中を駆けていく。鹿嶋は朝明を見て、なにも言わなかったが小さくうなずいて、イスカの後を追って走った。




