十 やさしい水
ある日、行軍を終え宿営場所が決まって、荷解きをするころになっても、薄暗い戦場の片すみを、小銃ひとつと雑のうを担いで駆けていく少年兵がいた。
だいぶ離れたところにいる友軍を目指している。
たどり着いた先で、彼は空の水筒を持ちながら聞いて回る。
「どこかに井戸はありませんでしたか。きれいな水があれば、分けてもらえないでしょうか」
良い返事がもらえることは珍しかったが、少年は諦めず食い下がっている。
それを遠くから見ていたのは、軍医の辰野であった。
戦線は、縦に長く伸びていた。野戦病院や包帯所の設置場所を再考する必要がある。
充分に応急処置を施しても、後ろへ送られる前に命を落とす兵が増えている。間にひとつ、軍医が常駐し設備を少々備えた中継所を作ってもいいかもしれない。それが司令部の考えだった。
そのための視察として、辰野は宿営所をまわっていた。
水を求める少年は、邪険にされても苛つく様子も見せず、「なんとかなりませんか」と切実に訴えを繰り返している。
「君!」
辰野は年若い必死の兵士を呼び止めて、近くに寄らせる。
「水が欲しいのか」
「はい、水路から汲んだのでなくて、井戸水とかきれいなのが必要なんです」
おいで、と言って辰野は彼を宿営場所になっている扶桑国の集落の奥に連れていく。
「井戸にひとつ心当たりがある」
「本当ですか」
少年兵の声が弾むのを見て、辰野は声をかけてよかったと思った。
「すごく小さな井戸だよ。ふさがれた跡があってね。枯れ井戸かもしれないし、大して量が汲めないこともあるから隊には伝えていない」
住民の避難した後の小さな空き家の片隅に、井戸はあった。確かにふさがれ、口に板が打ち付けてある。
「つるべは朽ちていない。ふさがれたのは最近かもしれない」
水が残っている期待がある。
「外します」
少年は銃剣の先を板と井戸の間に差し込んで、器用に板を引き剥がしていく。半分ほど外れたところで、辰野は中をのぞき込んだ。
光の射さない井戸の底に、しかしわずかな反射と水の揺らぎを見た。
「あるよ」
その一言に、少年はわかりやすく喜びを浮かべて、一層早く井戸を開けようとする。
水は嫌なにおいがしないか、悪くなっていないか、念のため辰野が検める。やはり避難の直前に塞がれた井戸だったようで、中は清いものだった。
くみ上げた水で水筒を満たして、彼はやっと一息つく。
「がんばるね」
「隊で、特にお世話になっている人が水にあたって体を壊していて。ひどい脱水なんです。でも、さらに悪い水を飲むわけにはいかないから」
「そうか」
彼はそのたった一人のために水を探して駆けているわけか。辰野は雑のうから自分の水筒を取り出す。こちらもほぼ飲み干して空である。
「一本では心もとないだろう。私のも持っていくといい」
「ないと困るのでは」
少年は驚いて、差し出されてた水筒と辰野の顔を交互に見ている。
「私は軍医だから、こんなところでもわりと物の融通が利く。後方の兵站部か、どこかで新しいのをもらうさ」
さあ、と重ねて進められて、迷いながら少年はそれを受け取る。その迷いすら、辰野は好ましいと感じる。
「ありがとうございます」
「それと、診ていないので何とも言えないが、ご病気の人には井戸水でも一度沸かして、少しずつ与えてやりなさい」
少年は、はいと返事をし、重ねて礼を述べる。
「君の隊はどこだね」
「第一歩兵師団、帰山少佐の大隊です」
「それは……」
扶桑国の首都へ向かう方面は、火砲を始めとした敵の戦力が集中しているため、首都正面を請け負う部隊はとにかく防衛線を強固にして、アルモリカ軍を首都に近づけないよう注力している。
そのため明洗港奪還は、南海側と公海側の海沿いに下っていく方向に戦力を集中させ進めている。南海側最前線で戦闘を請け負う歩兵部隊は、複数の各歩兵師団が担っているが、第一師団は特に開戦時から一貫して果敢な進軍を繰り返していて、その分損耗も激しい。
なんとなく話のたねにと聞いたことだったが、最前線で進路を切り開く過酷な部隊の名が出て、辰野は何を言っていいか少し考えねばならなかった。
「今からすぐ戻ります」
それを少年はここからの距離を驚かれたと思いこみ、恥ずかしそうに笑って水筒を二本、大事そうに雑のうにしまっている。
「私は辰野と言う。名前を聞かせてくれ」
「佐治鹿嶋二等兵です。辰野少尉殿」
軍医であれば最低でも少尉であり、辰野の薄汚れた軍服が示す階級もまさにそれだった。
水筒の御恩忘れませんと言い残し、利発さを示す少年は、来た時よりよほど軽やかな足取りで、戦火のただ中へ帰っていった。
日付がまわったころになって、鹿嶋はようやく自分の隊の宿営地へたどり着く。戦闘には参加できない負傷者と病気のものが休む天蓋の下へすべり込み、持ってきた水をその人の枕元へ並べる。
「稲積」
何日か前から、稲積が体調を崩している。珍しいことだった。おそらく水が原因である。下痢が止まらず、ずいぶん衰弱している。戦場の汚れた水がもとでかかる病気は少なくないし、それがきっかけで命を落とすものもいるから、甘く見ることはできない。
「鹿嶋」
稲積はなんとか体を起こしたが、顔が青白くてよくない。
「水を持ってきた。井戸から汲んだいい水だよ」
いい水。悪い水。人に世話をしてもらう佐治の屋敷では口にしなかった言葉を、鹿嶋はよく使うようなった。
「いい水だけど、沸かしてから少しずつ飲んだ方がいいって。軍医殿がいらっしゃって、教えてくれた」
「そうか。ありがとうな。火ぐらいは自分で起こせるから、心配するな」
稲積は思い通りにならない重たい自分の体に焦る気持ちを表すように、髪をくしゃくしゃとこねる。
「俺はこんなことをしてる場合じゃないんだが」
深く大きいため息だった。稲積の心配が何から来るのか、鹿嶋もよくわかっている。
「イスカは」
「元気だよ。忙しくて、あまりこっちには来られなくて悪いと言っていた」
「無茶はしていないか。あの人は」
「たぶん」
「たぶんね」
青白い顔に、乾いた笑いが広がる。
「俺も、もうイスカさんを困らせるようなことはしないから」
鹿嶋は、稲積と自分に言い聞かせるようにそう伝え、天蓋を後にする。
やっと自分が眠るための宿営場所に到着した鹿嶋は、歩哨の交代要員以外は寝静まったそこで、夜中に起きてふらりと出かけていく竹内朝明とすれ違う。
まだ鹿嶋と朝明は一言も言葉を交わしていなかったが、お互いになんとなくそこに在ることは許していた。
朝明は隊の歴々とも馴染み始めていて、ここに来た時より話をするようなっている。半面、ひとりのときはひたすらに帳面になにかを書きつづっている。今日のように夜に出かけて、明け方近くまで戻らないこともある。
故郷と家族の話が増えてきた。行方知れずのままの姉に会いたいとこぼして、姉に向けて送り先のない手紙を書いた。
よくないなと、鹿嶋は感じていた。死んでいく者に特有の空気を彼は出し始めている。
悪事を働いたものは苦しんで死ぬことが義務と思っていたが、悪人でもないものが軽く死んでいくこの戦場で、それがいつでも正しいとは鹿嶋は言い切れなくなっていた。




