九 その怒りの名を呼べば
戦局によっては、隊が別の班や分隊と合流・統合というのもよくある出来事だった。
ある日、鹿嶋を近くに呼んでイスカは、
「ある分隊が人員を大きく削られて、我が隊に合流することになった」
と言った。珍しい話ではないが、イスカは何か言いにくそうだ。
「その隊には、鹿嶋が戦場での初日に暴力沙汰を起こした連中が組み込まれていたが、ひとりを残して戦死している」
ぐらっと視界が揺らぐのを感じる。あんな悪童どももやはり死ぬのかという気持ちと、大して罰も受けずに死なせてしまったという気持ちがない交ぜになった。
「その生き残りを、引き取ることになった」
イスカの話が終わるころ、稲積がひょろりとした男を一人連れてきた。気弱そうな風貌で、見ようによっては鹿嶋より年下にも見える。
竹内、朝昭。おどおどと怯えたように周囲を見回し、背中を丸めて一回りは小さくなったように見えるその男の姿を目にして、鹿嶋は一瞬で激高した。
「お前!」
飛びかかろうと跳ねたところを空中で稲積に首根っこをつかまれ引き戻される。
「お前を五体満足で生かしたのが俺の間違いだった!」
「鹿嶋! 鹿嶋落ち着け!」
イスカの叫ぶ声が聞こえる。
「いやだ!」
「稲積!」
連れて行ってくれというイスカの声に従って、稲積は鹿嶋を肩に担ぎあげると、荷物のように外へ運び去ってしまった。
暴れても叫んでも、稲積には力で敵わない。戦場の夜の冷えた空気が、少しずつ鹿嶋を冷静にさせる。
「稲積」
かつぎあげる男は答えない。
「すみませんでした」
稲積はようやく鹿嶋を地面に降ろすと、様子をうかがうように少年の顔をまじまじと見る。
「話せそうか」
話せと言っているのだろうか。鹿嶋がなぜ、白瀬をはじめとした連中を深く憎むのかを。
「稲積は、笑うから言わない」
「笑わないよ?」
「笑うよ、絶対」
「信用がないな、俺は」
稲積はため息をついたが、少しも残念そうではない。
「弟にもこの調子で避けられてる。ついからかいたくなるのが、よくないんだろうな」
自覚があるなら改めればいいのにと思ったが、鹿嶋は何も言わなかった。それで稲積と弟の仲を取り持ってやるのすら今は悔しい。
「イスカになら、言うか」
鹿嶋は答えないが、寄せられた眉がゆるんで開きがちになり、迷っているのは見ればわかる。
「イスカの前でなら、俺も聞いていていいか」
鹿嶋は、自分の憎悪にまみれた呪わしい心の一切をイスカに明かすことになるのを恐れていた。あの珠のような心の持ち主は、悪辣なこの気持ちをどう評価するのだろうか。
宿営場所に戻ると、その一瞬だけかもしれないが朝明の姿は見えなかった。誰かが一時だけ遠くにやってくれたのかもしれない。
稲積がイスカに事情を話すと、イスカは鹿嶋の話を聞くと言ってくれた。鹿嶋は、すみでひざを抱えながら、促されて少しずつ話を始めた。
竹内と直接に長く話したことはありません。
あいつは俺より一学年上で、学友ですらなかった。竹内の同学の白瀬儀作と言う男が、ここ一年の間に学内でよく俺にからんでくるようになりました。
それに付き合って、竹内は俺と喧嘩をする羽目になったり、情けない嫌がらせに付き合わされていた。正直、学校に通っているときにあいつに対して取り立てて憎む気持ちがあったわけじゃない。
でも、あれは、八月の最初のころの話です。
白瀬と、その周りの連中は、とてもやってはいけないことをした。俺が懇意にしていたある女学生を、あいつらは傷めつけて……顔ばかり殴って……。
稲積の大きな手が、鹿嶋の背中を優しくなでた。
「それは、国に残してきた大切な女と言っていた子か」
「はい」
鹿嶋はこらえきれずにじんだ涙を、手の平の付け根で瞳のなかに押し戻すようにぬぐう。
「それで全部か?」
稲積の言葉に、鹿嶋はすぐにそれだけじゃないとつなぐ。
「猫を殺した!」
自分でも驚くほどの声が出た。泣きながら、鹿嶋は訴える。たかが畜生の死と笑われるかもしれないという恥ずかしさは消えて、叫んだ。
「あの子がかわいがっていた猫だ。そして彼女にも、ひどいことをした!」
紗蓉子を泣かせた。苦しめた。あの時出し切れなかった涙を、いま流している。
「そいつらを全員病院送りにして、俺は学校に残っていられなくなってここに来ました」
暴力に訴えた自分を許したことはないが、それを誘発した彼らの行いも、鹿嶋にとっては許されざることだった。
ほんとうは自分が戦場へ送られた理由は、べつのところにあることを鹿嶋もわかっていたが、それはかくした。
けっきょくあの事件がなければ、紗蓉子と鹿嶋が互いをかばい合って離れることがなかったのは事実だ。
「鹿嶋の左腕の傷は、その時のものか」
今度はイスカがたずねた。一度、稲積とイスカには、あえて治さずにいた腕の傷痕を見られている。
「この傷は、ちがいます。でも作るきっかけにはなったできごとだと思います」
ちゃんと処置をしなかったから、ひどい残り方をしている。
イスカは今からでも必要な治療をするべきだと説得したが、鹿嶋は応じなかった。いつまでも残り続けるなら、そのほうがいい傷である。
「誰のせいでもない。俺は俺自身の愚かな行為の代償として、ここに送られただけの男です」
イスカは、何も言わなかった。少年の魂のなかに、にごって粘度を増した澱が集う、暗がりの底を見てしまった。
イスカは少し考えたいとこの件を預かって、鹿嶋と朝明については、なるべく離れて行動できるよう留意すると告げた。
イスカは自分を軽蔑し、嫌ったかもしれない。今はその心配の方が鹿嶋を追いつめる。
朝明はほどなくして隊に合流した。鹿嶋はなるべく彼を視界に入れないようにして、声をかけねばならない用も発生させないため、物理的にも離れて過ごした。
表向き鹿嶋は怒りも憎しみも見せず、どちらかというと彼がそこにいないかのように扱うことで自分の心を保っている。少しずつ、朝明も隊のほかの人間に慣れてきているようだ。
外から見える態度とは裏腹に、鹿嶋の中には粘性のどろっとした暗い感情が、音を立てて湧き続けている。まとわりついて離れないその心を脱ぎ捨てられなくて、今はそれがつらい。
白瀬が生きていないのもよくなかった。本来白瀬に向くような恨みが、朝明に向かっている自覚が鹿嶋にもあった。自分の身には余るような、過剰な怒りだった。
稲積は、鹿嶋の中では何も解決していないのをよくわかっていて、時々声をかけてくれる。
「鹿嶋、昔のイスカだったら、お前に酷なことを言って決裂してただろうよ」
「酷なこと?」
「憎しみを飲み込め、許せってね」
確かに攻撃力が高く、人すら殺せそうな言葉だった。
「確かにそれは、ちょっと無理……だ」
鹿嶋はよくよく考えながらも、やはりそう答えるしかないと思った。
「でも今回、イスカはなにも言えなかったんだよ。お前の話、ちゃんと聞いたから」
どうしようもないほどの怒りに晒され、間違っていると気づきながらもそうせざるを得なかった少年の叫びだ。
「それは……」
「いいことだよ。いいことだ。だが、隊を指揮する者としては、個人の事情は呑み込んで、しばらくは一緒にいてもらうしかない。なるべく距離はとるように計らってくれると思うがね。そこは鹿嶋も多少はわかってもらわないといけない」
よろしくなと稲積は言う。
「イスカは、今ものすごく考えていると思う。鹿嶋の力になってやりたいと思っているはずだ。昔のイスカが言うことは、確かに正しく反論しづらいが、正しいことがいつも人を救うとは限らない。正しささえあれば、なんでも解決に導けると信じるのは傲慢だ」
正しいことの影で、そうできなくて苦しむ人間がいることを、イスカはようやく知りつつある。
「俺も、できれば何も恨まず憎まず生きていきたい。でも勝手に湧いてくる怒りとか……そういうのを、どうしても抑えられなくて苦しいときは……あるよな」
稲積の言葉に、鹿嶋は深く同意した。どうにかこの心だけを切り離したいと思うことが、誰しもあるのかもしれない。
「歩哨、こうたーい」
その日、歩哨に一緒についていたものと掩体から這い出た鹿嶋は、自分の後続が来ていないと聞かされる。
「誰です。戻るついでに呼んできます」
「竹内だ。頼めるか」
最悪だなと思ったが、軍務に私情を持ち出して拒むような人間にはなりたくない。鹿嶋は宿営場所まで駆けもどって、眠る朝明を探す。
ガラスが外れて穴だけになった窓の向こうに、壁の方を向いて丸まった彼を見つけた。鹿嶋は窓からのぞき込んでそれを起こそうと思ったが、近寄ってその動きを止めた。
うなされている。そして泣いていた。死にたくないと掻き消えるような小さな声で絞り出していた。
情けない。
鹿嶋はそう思ったが、罵倒しようとか足蹴にしてやりたいとは思わなかった。誰しもみんな死にたくない。当たり前のことを言ってしくしく泣けるのは、戦場に慣れてしまった身としては、うらやましくもあった。
鹿嶋はその足でまた戻って、「朝明は体の調子がすぐれないから自分が代わる」と告げて、そのまま無蓋掩体に潜り込む。
かわいそうな奴だ。朝明についてはそう思う。自分に憎む心がくすぶっていなければ、なにかの言葉をかけてやれたかもしれない。
朝明が隊に合流して何日か経って、イスカが鹿嶋に声をかけてきた。久しぶりのことだ。
「鹿嶋、実は手持ちがなくなってしまって、いつか持っていると言っていたキャラメルをくれないか」
鹿嶋は背のうの底を探って、まだセロファンに包まれたままのそれを取り出す。
箱ごと渡そうとすると、一粒でいい、残りは鹿嶋が持っていなさいと言う。イスカは鹿嶋のとなりに座った。話しかける口実だったのかもなと思いながら、鹿嶋はキャラメルの箱のセロファンの解き始めを探す。
「鹿嶋の話を聞いて、いろいろ考えてみた」
鹿嶋は顔をあげてイスカを見る。ずっと考えていてくれたのだろうか。
「中には、恨んで恨んで憎みぬいた方が心が晴れるものもいるのだろうな、と思った。そういうものは、憎み続けたほうがいいのかもしれない。鹿嶋はどうだ」
「わかりません」
本当にわからなかった。わからなすぎて、涙こそ出なかったが、それについて考えるといつも泣きそうになる。憎むほうが正当だという気持ちもまだ消えない。
でも、ひとつだけずっと気になっていることがあって、それだけはイスカの意見を聞きたかった。
「もしも憎むのをやめたら、そいつがやったことを許すことになりますか。悲しむ気持ちも、一緒に消えてしまうと思いますか」
イスカは一瞬、声を詰まらせて、研ぎ澄まされた感情の切先に触れるように、おごそかに言った。
「思わない。私は思わないよ鹿嶋」
にくむ気持ちがなくなっても、許さなくていいし、悲しむことをやめなくてもいい。
それを聞いて、鹿嶋はキャラメルの箱のセロファンを解いた。一粒をイスカに渡して、特別好きではないけど、今日だけは食べたい気がして自分も一粒口に入れる。
もしも自分がその道を選ぶなら、いつか紗蓉子にも理由を説明しなければいけないと思いながら、舌の上で転がしていた。




