三 空を導くもの
なにもかもが、仲月見イスカ少佐の言葉どおりになった。
夜間飛行訓練を停止せよ。助言を受けたにもかかわらず、副長は飛行船司令を説得しきれなかった。
飛行船の夜間訓練は止められず、飛行船は嵐の渦中にある。
鹿嶋は同じく嵐のただ中を、今朝と同じような状況で飛んでいたが、すぐ前方に仲月見イスカ少佐の背が見えている。
ふたりが追っている龍の姿は鹿嶋からは見えない。だが、イスカはその居場所をとらえているはずだ。
不意に、彼女がふりかえった。表情は飛行用ゴーグルの向こうがわで、定かではないが、とっさに何かを叫ぼうとした。嵐の中で互いの声が聞こえるはずはない。焦っている。
いったい何がイスカをそれほど追い詰めるのか。
彼女は鷲獅子のうえで手早く手旗信号を送る。近衛騎兵大隊専用のその信号で、鹿嶋はいま何が起きているか知る。
すぐさま鹿嶋は鷲獅子を空中で駆けさせ、前に出ると、立ちはだかる雲をかき分けるようにさらに進む。
——このままでは龍が、夜間訓練中の飛行船に衝突する
イスカの信号はそう伝えていた。飛行船の大まかな場所も同じく彼女は伝えてきた。ここまでくれば、鹿嶋がやることはひとつだ。
軍用飛行船は、ジェラルミンで作られた金属の骨格構造をもち、外皮はアルミニウム膜製である。強風にもすぐに破れて落ちることはない。
だがそうした強い船体を持っていても、空気よりも軽い浮揚ガスを頼りに浮かんでいることに変わりはない。だから、強風と悪天候にめっぽう弱い。
そのうえ龍の巨体と衝突すれば、空中で瓦解することは確実だった。だれも助からない。
数時間前、夕闇がせまるドッグで真剣に訴えるイスカに、飛行船副長の彼は「難しいと思います」としか答えなかった。
「近ごろ各地の飛行船部隊は、夜間訓練を増やしています。ちかい未来に飛行船を航空爆撃機として運用する計画があるからです」
これまで、飛行船は哨戒や偵察任務をおもな役目としていた。駆逐艦より高速で航行できる飛行船は、海上で敵艦に補足されても、相手にはそれを追う手段がない。
一方で、もしも敵国の上空に侵入し、街中で爆撃をおこなうなら、夜間に行動することが求められる。
「天候悪化の予報が出ていないなら、司令は夜間訓練の回数を確保したがるでしょう」
「ずいぶん嫌そうですね」
イスカから顔色をうかがうようにのぞきこまれて、彼はたじろいでいた。
「夜間訓練ではなく、爆撃のほう」
嫌そうだ。とイスカはもう一度言った。彼はあわてたように言葉を重ねる。
「わ、わたしは軍人ですから、有事となれば、迷いなく自分の命をかける覚悟はできています。しかし……」
初対面の人間に伝える必要はないことだ。だが試されるようにイスカに問われると、もののついでのように心のうちを話してしまう者は多い。あの、深い不思議な色のひとみのせいだと、鹿嶋は思っている。
「夜陰にまぎれ、わたしが爆撃をするその下には、だれがいるのかわからない。自分はだれを殺したのだろうか。それを知らぬまま、実感もなく生き続けることになると思うと、それは少し……こわく思います」
こわいと、彼は鹿嶋とイスカの前で、はっきりと言った。
「おかしいですね。とんでもない弱音です」
言い訳のように付けくわえる副長を、イスカは笑わなかった。
「いえ、そうは思いません。当然の迷いですよ」
もう少しなにか言おうとしたのを取りやめたような雰囲気で、最後にイスカはもう一度、念押しした。
「とりあえず、差し当たって今夜の嵐をさけることを、ぜひ司令にご提案ください」
彼が説得がうまくいかなかったことを告げに来たとき、イスカと鹿嶋はもう出立の準備を終えていた。
飛行船が今夜も飛ぶことを伝えられたイスカは、副長を責めもあわれみもしなかった。軍人が、軍命にはあらがえないことを彼女も知っている。互いに武運を祈り、手をにぎり合って別れた。
その彼に、いま命の危機が迫っている。
飛行船のなかでは、この嵐を生き残るべく、乗員は思いつく限りの努力をしているはずだ。
飛行船は空中の船だが、たとえ嵐のなかにあっても、船内は揺れも衝撃も大きく伝わらない。海で船を翻弄する波が、ここにはないからだ。飛行船乗りは、地面に激突炎上するその瞬間まで、正気を失うことを許されない。戦い続けなければならない。
雲のひらけた前方に、突如飛行船が現れる。鹿嶋はすんでのところで船体後方のプロペラを避けると、飛行船の左側に飛び出る。
誰でもいい。自分がここにいることに気づいてもらわねばならない。鹿嶋は左腕をまわし、取り舵を取れと必死でしめした。飛行船に遅れないよう、鷲獅子も懸命に羽ばたいている。少佐は鹿嶋に龍の位置も伝えていた。それはすぐ、彼らの後ろに迫っている。
叩きつけるような雨のなか、飛行船の小さな窓の向こう側は見えない。だれも自分を見ていなければ、飛行船は落ち、運が悪ければこちらも巻き込まれる。
鹿嶋は届くはずもないのに、大声を出して叫んでいた。龍が来る! と。
そのとき、飛行船が大きくこちら側に傾いだ。鹿嶋は素早く手綱を引くと、速度を落とし船体の動きに合わせて左に流れた。大きくふくらむ動きでプロペラを避けた鹿嶋の頭上を、巨大な物体が通り過ぎていく。
アルミニウム膜の外皮をけずるような、不気味な振動と耳障りな音を曳きながら、巨体は飛行船の右側に寄って遠ざかっていく。
怖気をおぼえるような気配だった。
飛行船は龍を回避した。緊張が途切れたのか、鹿嶋は直後に吹いたひときわ強い風に流されて、鷲獅子ごと体制を崩す。頭を上下にかき回され、目を閉じそうになる。だめだ。ここで目を閉じ、視界を失えば獅子は制御を失い地に落ちる。
この獅子はこわがりだ。
鹿嶋は騎乗する鷲獅子を思って手綱を握りしめる。鹿嶋がいなければ、嵐の中も龍のそばも飛びたがらない、こわがりな子だ。
大きく息を吸って目を開いた瞬間、暖かな青い光が後ろから迫ってくるのを感じた。
——青い、炎だ。
今夜、飛行船と鷲獅子が飛び立つ直前、先に行くイスカを見送り、鹿嶋はひとり副長に近づいた。そのとき自分が言ったことを、彼は覚えているだろうか。
——青い炎を覚えていてください。
青い炎?
——青い炎は、魔法使いの炎ですよ。
鹿嶋は、その空中に浮かぶ青い炎を追って飛んだ。
風も吹いていて、雨もやんでいないのに、ずいぶん静かになっていた。
飛行船もまた、炎の導きを目指して飛び始める。
やがて雲の切れめに出た。
夜はあけて、晴れていた。のぼりかけの薄紫の朝日をあびた雲の谷間をすべるように、飛行船は飛びつづける。
鹿嶋が飛行船の下をくぐって東側に出ると、はるか上空から仲月見イスカ少佐が降りてくる。
「鹿嶋!」
イスカはゴーグルも酸素吸入器もはずして、清々しい顔で朝日を浴びている。
「ありがとう! 飛行船墜落の大惨事は免れたな」
鹿嶋もそれに笑って答えると、自分も酸素吸入器をはずす。
「少佐、龍は!」
イスカはそれに答える前に、鹿嶋たちのすぐ横を飛ぶ飛行船を一瞬見やった。それからそこに乗る彼らに示すように、ふた山ほどさきの雲のむこうを指さしている。あれを見よ! と言わんばかりの動きだった。
「……龍だ……!」
鹿嶋は思わずつぶやいた。
イスカが指さした雲のあいだから、赤黒いうろこを朝日にきらめかせて、二翼を悠然とはためかせた巨大な龍がすがたを現した。
西方諸国の言葉なら、龍と呼ばれる生き物である。黄金色のひとみに王者の風格を宿して、泰然と北の大地を目ざして飛んでいる。
飛行船乗りたちは、これほど近くで龍を見る機会は、このさき一生ないかもしれない。ゴンドラ内の乗員はみな夢中で窓にとりついている。
飛行船を爆撃用に運用するなら、その照準をさだめるのは、副長である岡田の役目となる。爆弾を落とす、その眼下の景色は、こんなにきれいではないだろう。
彼に、どうかこの空を忘れないでほしい。
イスカはふたたび吸入器を装着し、飛行船に向かって鷲獅子の腹をみせる形で龍に接近していく。鹿嶋も編隊をくむようにそれに続いた。
鷲獅子が龍のまわりを飛びはじめて、あらためてその大きさを実感する。
イスカと鹿嶋は龍を先導するように、雲のかなたに消えていく。姿が見えなくなってから、はるか遠く、青いひかりの瞬きが見えた気がした。
飛行船と別れてその後、イスカと鹿嶋は無事に龍を北の海に送り出し、近衛師団の第二連隊本部に帰投していた。
皇都の近衛師団司令部庁舎は、皇宮から徒歩十数分のところに建つ、赤煉瓦造りの堅牢そうな洋風建築である。
「だから、討伐だって言ってんのになんでお前は毎回毎回を龍を逃がすんだよ。ふざけるなよ」
近衛師団第二連隊連隊長、引佐大佐は、部下をねぎらう間もなく悪態をついている。
「ふざけけてなどいません。わたしはいつでもまじめです。それに、ついこの前は言われた通り命令を果たしました」
「知ってるわ。それがあたりまえなんだよ。鹿嶋、お前笑ってんじゃねぇぞ。本来お前が諫言を進呈するんだよ。副官としてな」
「いえわたしは、少佐のお考えに賛同していますので」
「ひとみの色が黒く濁っていない龍ならば、戦わずに帰ってもらえます。まだ理性がある。今回の龍も、まだ黄金色のひとみのままでした」
イスカの訴えにも、大佐は懐疑的である。
「理性ね。畜生に理性もなにもあるかね」
「散々な目にあったな」
イスカは疲れた声を出し、残念そうに続ける。
「みんなのためになると思うんだ」
庁舎の廊下を歩き、大隊本部に戻りながら下を向いている。
「国に飛来した龍はかならず殺さなければいけないという考えは、人も龍も追いつめる」
鹿嶋はだまって聞いていた。
「わたしは、またいつ皇太子殿下に呼び出されて、めんどう事に巻きこまれるかわからない。そうすれば何週間か国をあける。わたしがいなければ、軍は火砲で龍と戦うことになる。かならず死人がでるよ」
避けられない人死は、軍にはいくらでも転がっている。
「引佐大佐にも立場がありますからね。一応、言わざるをえません」
「ああ、わかっている。大佐のお立場なら、わたしを叱責することはやむ負えない」
師団庁舎のなかにある騎兵大隊本部が見えてきた。丸二日ぶりの帰還である。
本部が近づいてくると、待ちきれないように通路に顔をだす男がいる。
「イスカさーん」
大隊長付き伝令の金邑眞夏上等兵である。副官の佐治鹿嶋中尉とならんで、イスカの世話係といえる。
「手紙がきてますよ、ほら」
眞夏はイスカの手のひらに、白い封筒を一通のせる。
「鹿嶋。見たまえ。さっそくだ」
鹿嶋は渡された封筒を確かめる。
封じ目の、翠玉色の封蝋が美しい。宛名と差出人を確認すると、鹿嶋はそれをイスカに差し返す。
「皇太子殿下からですね」
参内せよとの手紙に決まっている。殿下はイスカに、交換手を通さずに直通で電話をかけられる。あえて封書をつかったのは、呼び出した証が欲しいからだ。断る方法はない。行かねばならない。
「参りましょう。少佐。わたしもご一緒しますから」