八 雨に沈む火
戦場はあるときから連日の雨だった。
扶桑国は秋の長雨の時期に入ったのだ。激しい雨に視界が不良すぎる。
降りはじめて数日で、戦闘継続は困難とみなされたのか、両軍動きがなく、一時的に平穏だった。しかし塹壕のなか雨に打たれ続けなければいけないのはつらい。
鉄帽のふちを流れ落ちた雨は、滝のようにえり口から軍服の中に侵入し、中から人間をぐっしょりと濡らしていく。
半長靴にも水は入り込み、足をぐずぐずに崩してしまう。宿営場所を確保できなければ、夜も雨ざらしのまま過ごすよりほかない。
湿気と不潔な空間に長時間晒された足は、血液のめぐりが悪くなり、壊死にもつながる。
大雨の中、なんとか天候をしのげる宿営場所を確保できたイスカたちの隊は、久々に半長靴を脱ぎ、空気に足をさらす。
「やーばいな」
もはや全身ずぶ濡れの稲積が、なす術もないという顔で半長靴をひっくり返す。
「みんな同じだ。替えの靴下もずぶぬれだよ」
イスカが背のうを開けて中身を点検している。
「これ、どうすれば治るんですか」
鹿嶋も自身の老人のようにくたびれた足を見て、ついたずねてしまう。
「乾かせば治るが、乾くかね。一晩で」
稲積はそう言って、ちらっと横目でイスカの様子をうかがった。
「イスカさん、ここはひとつ頼めませんか」
「しょうがないな」
そうイスカが言った瞬間、人の退避した後の民家に設けた宿営所の中に暖かい風がめぐり、それがまわり始める。
「これって……」
「魔法よ」
稲積は嬉しそうに靴下を脱ぎ、外で絞って乾かし始める。
「イスカはあんまり使ってくれないがね。便利なもんさ」
「そういうわけだから、一晩でみんななんとかしてくれ」
明日からも先に進まねばならない。イスカの言葉に分隊の者たちはそれぞれの場所で衣服や足を乾かし始める。
その夜、寝しなに鹿嶋はイスカにたずねた。
「イスカさん」
「ん?」
「イスカさんが魔法をあまり使いたがらないのは、どうしてですか」
今日の出来事で、イスカが詠唱魔法だけでなく、一般的な生活魔法もかなり使えることがわかったが、これまで鹿嶋はイスカがそれらを使っているところを見たことがなかった。
戦闘中は、詠唱魔法使用許可が出るまで魔法が使用できないのは当然だが、身近な生活魔法まで制限する必要はないはずである。
「そうだなあ……」
「俺は、魔法と言うものを一切使えないので、使えるなら使ったほうがよほど便利なのにと、つい思ってしまうんです」
「確かに魔法は私の一部ではあるが、すべてにはなりえない。私はこの力が、いつまでもずっと自分の中にあり続けるものだとは思えない。だれか、もしくは何かかから、預けられた力なのではないかと。そういう気持ちが消えない」
だれかから預けられた力。鹿嶋の龍骨がもたらしたと思われる力も、あるいはそう言えるかもしれない。
「だから、いつか魔法が私の中から消え去ったとき、何も残らないものになるのがこわい。そのために、私は魔法に頼りすぎる生き方を肯定できない」
他人はともかく、少なくとも私自身は、と続けて言った。
「あと、好きなんだよ。人の力で何かをするのが」
その力がなくなったとき、何も残らぬ者にならないように。それはとても大切な言葉のような気がして、鹿嶋は何度か心の中でつぶやいたが、やがて寝てしまった。
雨上がりの戦場で、咲いたばかりかもしれない花を見つけた。花弁の内側が白で、外が桃色だった。名前も知らない花を、鹿嶋は悪いと思いながら摘み取る。
そして出発の準備を整えるイスカのもとへ運ぶ。
「さっき、そこで見つけました」
「鹿嶋は花を探すのがうまい」
笑ってイスカは、背のうの上にわかりやすくちょこんと乗せてくれた。あとでそれは、適切に誰かの墓前に供えられるだろう。
「イスカさん」
鹿嶋はイスカの隣にしゃがんで、胸元から御守石を引き出す。
「これ、俺の御守石です。なかなかそう見えないから」
イスカは鹿嶋の手の中の白い塊をまじまじと見る。
「象牙かな」
「ちがうんです。もっと、ぜんぜん違う生き物の骨」
鹿嶋は迷って、でもイスカは馬鹿にしないし、笑わないと思ったから言った。
「龍です」
イスカはその言葉に、鹿嶋の手の平をさっきよりしっかりと見る。
今では鹿嶋もそれが本当のことだと思っているから、たぶん違うとはもう言わない。
「もしも俺が帰れなくなったときは、イスカさんが持って帰ってください。父はともかく、兄ならば引き取ってくれると思います」
イスカはとっさになにか言おうとしたが、横から稲積が飛び込んできて邪魔をする。
「おっ御守石の話か? 俺のも見てくれ。気に入ってるんだ」
稲積の御守石は青虎目石だった。輝きの向こう側に、またもう一つ層があるような不思議な石だった。
「私のはこれ」
イスカも、石を見せてくれた。赤い石。柘榴石だと言う。イスカは虹彩の緑に、御守石の色まで紗蓉子と同じで、鹿嶋は一層彼女を思い出す。
イスカの石は、紗蓉子のものより赤が黒っぽく沈み、深かった。鮮やかさはないが、それはイスカに合っているような気がする。
日高見国では、大切な人の御守石と同じ石の装飾品を身につけることを、良いことと考える風習がある。装飾品であれば、紅玉を付けることも許される。鹿嶋はいつか自分が身につける紅玉を夢想する。
その日宿営地を出発する直前に、イスカは鹿嶋をつかまえて、
「その御守石は、かならず鹿嶋が持って帰りなさい」
いいね、と言い聞かされて、鹿嶋はおとなしくうなずいた。
お前の行く戦場には貴人がいる。鹿嶋は、兄の尚隆の言葉を頭の中で反すうする。そいつが命を守る価値もないと思えば、捨ておけと兄は言った。でも。
——兄上、もしもイスカさんがそうだとしたら。俺は死ぬことは約束があるからどうしてもできないけれど。
——命を失う寸前までは、この人のために戦いたいと思います。




