二十四 夜がふたりを連れてゆく
斉京区の献灯祭りは、ながい歴史をもつ祭りである。古くは、南洋をこえ西方大陸への移住を目指し、移民団に加わった家族や友人を思ってはじめられたものだと言う。
紙で囲った手作りのとうろうに灯りをともし、願いごとを書いて川に流す。川沿いの家々のうち、古い家では古老が手作りのとうろうを家の軒先に並べ、売りに出している。
手に手にとうろうを抱えて、みんなが流し始めのレンガ橋を目指す中、子ども達はこれもまた手作りのカンテラのなかにろうそくを忍ばせて、意気揚々と歩いていく。ろうが溶けてなくなって、この炎が消えるまで、夜遊びが許される。
献灯祭りの日は、紗蓉子が皇女宮へ帰る前日だった。
食事を断ったことによる衰弱があまりに激しく、せめてもう少し体調がもどってからご移動を、と医者から告げられたのは幸運だった。
しかし紗蓉子は、すでに居所をうつされており、鹿嶋にその場所をつたえる手段はなかった。同じ斉京の街のなかの、別の宮家所有の屋敷である。
これまでの屋敷とちがい、二階建ての洋風建築で、その二階の片すみの部屋に、彼女は隠すように押し込められていた。
皇宮へ戻されるまえに、この街で過ごした最後の思い出に祭りに出ることを希望したが、許しは得られなかった。
「献灯祭りの日には、まちがいなく戻る」鹿嶋との約束は、果たされることはない。
祭りの日の夕に、鏡子が自宅まで来てくれた。
紗蓉子は紗の涼しげなワンピースを着てあらわれた。
肩と背がすっかり痩せてしまって、着物は着づらいのと言う紗蓉子は、悲しみを見た分だけ大人に近づいたように、きれいだった。
「紗蓉子さま」
「わたし、明日には帰らなければなりません」
行動の制限された小さな部屋のなかで、紗蓉子はもうなにもかも、あきらめたように瞳をゆらしている。
「また、皇女宮まであそびに来てくれますか」
「……ええ、もちろん」
言ってから鏡子は、部屋から外へつづくバルコニーに目をやる。
部屋は小さいが、そのバルコニーだけは、川をながれる献灯祭りのとうろうの火が見えるようにと、大きく張り出して作られていた。
部屋のつくりが小さいのは、この家の当主が、ゆらぐ炎をひとりで静謐に見たいと思う性質だったからだろうか。
「紗蓉子さま、川だけならお部屋からご覧になれるのでは? せっかくの記念ですし」
「わたし、あまり外には……」
紗蓉子は乗り気ではなかった。
だが、きょう彼女を外に連れだす事が、鏡子の役目なのだ。
鏡子はなにも言わず紗蓉子の手をとる。バルコニーの前まで引いていって、「どうかわたしを信じて」と告げて、彼女を外に押し出した。そしてそのまま部屋をでる。
自分と同い年の紗蓉子が、なぜ生まれた時から皇女宮から出られないのか。鏡子はそれを疑問に思ったことはなかった。そういうものだと、父母にも聞かされていた。今回も、紗蓉子さまは皇女宮に戻ったほうが幸せになれると彼らは言う。
——ほんとうにそうなのだろうか。ほんとうに。
それがわからなくなったから、鏡子はこうして紗蓉子の部屋の前で、彼らを守るように座り込んで待っている。今日が紗蓉子にとって、どういう意味を持つ日になるのか、鏡子にもわからなかった。
バルコニーからは、もっとも人が多いレンガ橋から、たくさんのとうろうが流されていくのが見える。
カンテラととうろうの灯りが浮かぶ夜に投げ出され、紗蓉子は取りのこされたように空しくなった。願うような幸福はもうない。ここに鹿嶋がいなければ。
どんな美しい光景も、彼女の眼の中には留まらない。たった一人の姿を除いては。
不意に、紗蓉子はなにかの気配を感じてふりかえった。すこしもこわくはなかった。むしろ、長く見知っていてなつかしい気配だった。
バルコニーの片すみの暗闇から、忘れようもない人の姿が浮かび上がる。
認めただけで、涙があふれそうだった。
——鹿嶋さま……!
二人とも、もう名を呼ぶことはない。これがもし、夢幻だとしたら。幻が消えることを恐れる速さで二人は駆け寄り、どちらともなく手を取った。
鹿嶋は、彼女を強く抱きしめる。
「紗蓉子、元気だった?」
紗蓉子は、はいと答えたが、離れている間に彼女の身に起こった数々の異変は隠しきれていない。
「少し痩せた。でも、ケガの傷が残っていなくてよかった」
紗蓉子はずきりと胸が痛む。あの傷を、残しておかなくてよかったと思う。
「……鹿嶋さま、とのこは」
失った猫の名を口にした。
「わかっている」
寂しさと、いくらかの後悔がかよう口調だった。
「俺も気がかりだったけど、俺たちは外に出られなかったから。一陽が、墓を建ててくれていた」
紗蓉子は胸のつかえがひとつ減って、鹿嶋の肩に顔をうずめる。鹿嶋はその存在を確かめるように紗蓉子にふれた。そのまま、真正面からではどうしても言えなかった未来を告げる。
「……紗蓉子、俺は戦争に行くことになったよ」
紗蓉子は、抱きしめる鹿嶋のシャツの背を、跡が残るほど強くつかんでいた。
「そ……んな。鹿嶋さまは学校に戻れると、信じていたのに」
「紗蓉子は?」
鹿嶋は体をはなし、紗蓉子の目をのぞき込む。
「俺は、俺がおとなしく軍務に就けば、騒ぎが多くならずに、紗蓉子がこれまでどおり暮らせると言われて、この道を承諾した」
「わたしは……明日この街を発ち、もう二度と戻ることはありません」
「そうか……」
鹿嶋は口惜しいというように、唇を噛む。
「……だまされていたんだな」
「鹿嶋さま……」
鹿嶋は紗蓉子からはなれて、街をのぞむバルコニーの先端にたつ。
「あの火、ずっと消えなければいいな」
鹿嶋は街中によわい星の光のように揺れる、人々のカンテラの火を見る。
「俺はもっとガキのころ、わざとろうそくの火を吹き消して、ろうが減らないようにしてずっと遊んでいた。だって、あのろうそくの火がすべて消えれば、帰らなくちゃいけない」
なら、少しぐらいいいじゃないかと言って、鹿嶋は紗蓉子を抱きよせる。
「紗蓉子。一緒に……逃げないか」
灯りのないバルコニーの暗がりのなかで、鹿嶋の声だけがする。
だまされて、いいように人生を操られて、そんな人間たちに囲まれて生きていくくらいなら、二人だけでいいじゃないか。
「俺はもう十七だ。選ばなければ仕事はある。紗蓉子のためならどんなこともするし、なんとかやっていけると思う。誰も知らないところで、二人だけで生きよう」
「だけど……」
何もかも捨てて。皇女の責任も、立場も。イスカも捨てて、私はどこに。
「ここで別れたら……たぶん、もう二度と会えない」
鹿嶋の言葉に、思考がさらわれる。
「俺はそれでもいいと思っていたけど、それは紗蓉子のしあわせと引きかえなら耐えられることだ。そうじゃないなら……俺は……」
鹿嶋の腕にこもる力がつよくなる。
「紗蓉子は? 紗蓉子は、俺から離れていけるのか」
暗闇から聞こえるのは、胸に風切りの音が響くように痛々しい声だった。
「俺は、無理だよ」
鹿嶋の中に打算はなかったろうが、思えば彼は悪い男だった。紗蓉子は後からそう感じる。
好きになった男から、俺と離れていけるのかと訊かれて、即座に「はい」と答えられる女が、この世に一体どれだけいるの。
「私も、できません」
紗蓉子はすべての迷いと鹿嶋を天秤にかけ、比べるべくもないと悟って答える。
「鹿嶋さまと、離れることはできません」
鹿嶋の腕のなかで見上げた満天の星空が、落ちるように迫ってくる。風が強く吹いている。遠くから、とても大きな光の渦が鹿嶋をさらっていこうとする。その背を追っていきたい。置いていかないで。連れて行って。私を。
「紗蓉子、俺は未熟な男だから、はやく一人前になれるように努力するけど、その前にもたくさんあなたを傷つけるかもしれない」
「それでもいい。私は、鹿嶋さまなら大丈夫です。たとえ、傷つけられても」
わかった。じゃあ、一緒にいよう。二人の約束だ。
傷つけても、傷つけられても、最後まで一緒にいよう。
死が、二人を分かつまで。




