二十 手折られた夏
皇修館は夏休みを迎えた。長期の休みを利用して生家に帰るものが多く、街はいつもより学生の姿は少ない。
鹿嶋はもちろん街をはなれず、紗蓉子も皇女宮にもどる予定はないから、二人の過ごす時間は自然多くなった。
それはとても楽しいことだが、紗蓉子には気がかりがある。鹿嶋が近頃ことさらに、紗蓉子の家のことを気にしている。
生まれはどこなのか、生家はどこにあるのか。どんな育ちをしてきたのか。幼い日の思い出、どのような子どもだったのか。鹿嶋は紗蓉子を知りたがる。
「日野」という苗字は、皇修館で学ぶにあたって、便宜上、名がなくては困るからと与えられたものである。よくよく調べれば、そんな家がないことはすぐに鹿嶋に知られてしまう。
そうして秘密が隠しきれなくなってから、やっと自分がなにものであるのかを明かすのか。鹿嶋が自分に示す心に応えるためには、すぐにでも正体を明かすべきである。誠の自分を、鹿嶋には見ていてほしい。
だが、皇女という立場は、彼にとってどんな意味を持つだろう。いちばん最初から続いてる最大の秘密が、いま彼女を苦しめている。
絹モスリンの桃色のおろしたてのワンピースに身を包み、紗蓉子は今日も鹿嶋と出会ったあの社へ向かう。今日は、鹿嶋とふたりで一カ月近くも続く長い夏休みをどう過ごすか考える予定だった。
夏の終わりには献灯まつりがある。ろうそくを灯したとうろうに願い事を書き、街の中心を流れる坂川のレンガ橋から流すのだ。
子どもたちはカンテラの中にろうそくを灯して持ち寄って、仲間内のろうそくの、最後の一本が燃え尽きるまで、その日は夜遊びがゆるされる。
それには絶対に行くとして、あとはどう過ごそう。心配事をよこに置いて、紗蓉子の足ははやる。
さわさわと騒ぐ竹林を通る時から、人の気配がしていた。鹿嶋がもう来ているのかと思ったが、どうもちがう。もっと、たくさんの人間の気配がする。
紗蓉子は立ち止まって、気配を探った。
陽の光のさえぎられた竹林で、汗がにじみ出てくる。
もどるべきだと思う。話し声からして、複数の男だ。
紗蓉子が音を立てないようにゆっくりと退がろうとしたとき、小さな生き物の、悲鳴のような鳴き声がした。
その瞬間、何もかも忘れて、彼女は前にかけだした。
抜けて開けた社の敷地で、五人の男がたたずんでいた。一人は、乱暴な足先で小さな生き物をもてあそんでいる。
「とのこ……」
今まさに、大柄な男──白瀬儀作の足に踏みつけられようとしてる猫の名を、紗蓉子は呼んだ。
「やめて!」
駆け出して、とっさに猫をかばうように突き出した手を、白瀬の重い足が容赦なく踏みつける。紗蓉子はうめき声をあげたが、手を引かなかった。
「こいつか?」
白瀬が振り返って、竹内朝昭に確認する。
「こいつが日野紗蓉子か」
「そうだよ」
朝昭は面倒くさそうに言う。
そうか、とだけ答えて、白瀬はなんの迷いもなく紗蓉子の腹を下から蹴り上げる。白瀬以外の朝昭を含めた四人は、だれも彼がそこまですると思っていなかった。
紗蓉子は痛みに悶えながらも、這ってとのこのところまで行き、猫を胸にかばって抱き寄せる。白瀬はその襟首をつかんで、顔を上に向かせた。
「白瀬」
朝昭が、白瀬がなにをしようとしているのかを察して、呼びかける。
「白瀬。俺たちに日野紗蓉子を連れてこいといった連中は……あれはアルモリカから来た奴らだ」
──皇修館中等部にいる、日野紗蓉子を連れてこい。
街中で白瀬たちに声をかけてきた連中は、大金をちらつかせてこの話を持ち掛けてきた。
これだけなら、白瀬たちがのってやる理由はない。腐ってもこの国の特権階級。人さらいなどの罪を犯して得られるものがただの金銭では、割に合わない。
しかし、そのあとに連中が口にした言葉で、白瀬は狂ってしまった。
──佐治鹿嶋を、陥れたくはないか。
声をかけてきた連中は、暑さの残る気候のなかでも、目深く外套で顔を隠していた。
「この国でアルモリカ人が歩いていると目立つから、あんなふうに顔を隠している」
ここで退くべきだ、と朝昭は訴えた。この場所で鹿嶋と紗蓉子がいつも会っていると白瀬たちに教えたのも連中だった。そこまでわかっていて自分たちで手を出さないのは、初夏に派手に動きすぎたせいだろう。
日高見国で、秘密裏に動き回ることのむずかしさを感じているのかもしれない。
この国で西方諸国の人間が往来を歩いていれば、非常に目立つ。行く先々で人の記憶に残る。
そのうえ初夏の騒動で、危険で注意すべき対象として、街の人間からも認識されてしまった。女ひとりかどわかすのはわけないが、どこかで誰かの目に入る恐れがある。
「この女が何かなんて知らないが、アルモリカはいま戦争中の国だぞ。そいつらの要求をのんでいいわけない」
紗蓉子嬢にはなにもするなと、一陽に釘を刺されたことは関係ないと、朝昭は自分に言い聞かせる。
紗蓉子が痛めつけられても声も上げずに猫を守るすがたを見て、内心激しく狼狽したことすら、朝明は気のせいだと片付けようとする。
日野紗蓉子が鹿嶋の泣き所であるのは間違いない。だが、紗蓉子を傷つけても、白瀬にも自分たちにも益がない。
「どうでもいい」
白瀬には、アルモリカのことも戦争のことも心底どうでもいい。
「俺には関係ない。佐治の奴を絶望させたいだけだ」
結局、白瀬も朝昭と同じだ。
自分たちから見れば、鹿嶋はすべて持っているように見える。立派な家柄、世間から下に見られない家業、努力に見合う能力。そういう奴が、おちぶれて嘲笑の的となってくれれば気が晴れるのに、鹿嶋はちがうところへ行こうとしている。それを堕とすほうへ引きもどすのだ。
白瀬は容赦なかった。恨みがある男の想い人であっても、年下の、無抵抗の女にこれほど直接の暴力を向けることができるか? それも顔ばかりを執拗に。
白瀬以外の誰もが、目をそらしている。この場にいる以上、誰も無関係であったと言い訳はできないのに、現実から目を背けようとしている。
紗蓉子はどれほど殴られても、胸に抱いた猫をはなさなかった。
猫は、紗蓉子が来るまえに、もう死んでいたのに。
白瀬は一通り暴れて満足したのか、今度は彼女の胸元に手をかけた。もはやだれも白瀬を止めるものはいない。そう思われたが。
胸元を隠す胡桃ボタンを引きちぎろうとする白瀬の腕を、よわよわしくも朝昭の手がおさえた。
「……それはだめだ」
「あ?」
凶暴な白瀬の顔が朝昭をにらむが、それでもこの手は離せない。
「やっぱりだめだ。それだけは、それだけは違うだろ!」
そのとき、竹林の奥からざわりと風を裂くような足音が聞こえた。だれかが走ってくる。空気が一変した。五人の男たちのうち、何人かが無意識に身を引いた。
社の敷地内に、鹿嶋が飛び込んできた。竹林を抜ける前から異変を感じ、走ってきたのがわかる。
「……か……しま」
紗蓉子は泣いていた。でもそれは、これから自分の身に起きることを嘆いて流す涙ではない。胸に抱いた、彼女が名前を付けた猫が、もう動かないことを受け入れられず流す涙だ。
「とのこ……が」
赤く腫れつつある目じりから、まっすぐにこぼれ落ちた涙の清さすら、踏みにじられた。
「紗蓉子」
無垢な、鹿嶋の声だった。
地獄で鬼が愛でていた、たった一輪の花を、手折ったものがどうなるか知っているか。
──鹿嶋さま。
──鹿嶋さま。
遠くかなたから、自分を現世に引き戻す、優しい声がする。
「鹿嶋さま」
ひざをつく鹿嶋が見上げると、とのこを胸に抱いた紗蓉子が立っている。
いつの間にか雨が降っている。
紗蓉子が濡れてしまうと思って、鹿嶋は彼女の手を引いて、野点の傘の下に連れて行こうとした。なのに傘は、無残に骨が折れて、転がっている。
少しずつまわりが見えてきて、点々と落ちる血のあとと、転がる人の姿が見える。
紗蓉子と過ごした思い出の場所が、そこにはもうなかった。自分も相応にケガをしているはずなのに、体は少しも痛くない。ただ自分の拳の血まみれなのが後悔だ。
「紗蓉子、本当にすまない」
鹿嶋は紗蓉子と相対し、かたく寂しい口調で言った。紗蓉子が自分を怖がっていないのだけが救いだった。痛々しい彼女の顔の傷。触れれば、彼女は涙をこぼすのではないかと怖かった。抱きしめることにも躊躇する。
「俺は未熟で、愚かだ。ほかにもっとやりようがあったはずなのに、どうしてこんな風にしかできないんだろう。暴れて、全部壊す以外の方法で、何とかしたかった」
鹿嶋は、こらえきれなくて泣いた。自分のしたことをこれほど悔いて、世に取り返しのつかないことがあると初めて知った。
「鹿島さま、帰ろう。帰りましょう」
紗蓉子はそっと鹿嶋の肩を抱いて、頭をなでる。こうなる前と後で、その形が変わっていないことを確かめるような、丁寧な手つきだった。




