一 雲の迷路
雲のにおいがする。
いま彼は、大海原のただなかに、泳ぎ方も知らずに投げだされた、生まれたての生き物だった。
ただしここは海ではなく、地上を数千メートルはなれた、大空のかなたである。
——少佐はどこだ。
はげしい雷と雨、風のなか、鹿嶋はみずからの上官をさがした。積乱雲につっこめば、乱気流に遭遇するおそれがあるとわかっていたが、追っている獲物がそこへ突きすすむので、自分たちも続くしかなかった。
鹿嶋の騎乗獣は、すでに方向を見失っている。彼が首を抱いてなだめて、かろうじて高度を保って飛んでいる。上下を知覚しているのがせめてもの救いだ。しょせん生き物なので、つよい恐怖から失神して落下すれば騎乗者ともに命はない。
雨のとともにふりそそぐ雷は、この獣のもっている野生の本能と運で、避けてくれるよう祈るしかない。
風に流されて、何度も押しもどされている。いつまでも同じ場所にとどまっている感覚だ。この雲を抜け切れる気がしない。
しかし彼の上官、仲月見イスカ少佐とその騎乗獣であれば、この嵐のなかでも冷静に、地獄のような気流を抜けだす方向を見つけるはずだ。
——離れてはいけない。
少佐を見つけるまではこの空域にとどまる必要がある。それは鹿嶋の命にもかかわる。
稲妻のさきに、稲光とはちがう光が見えた。色がちがう。たたきつけるような雨のなかでも、消えずに燃えつづける青い炎。
あれは、魔法使いの光だ。
東方の国のとある軍用飛行場。
西方諸国からはじまった近代化の波は、この国にも押し寄せていた。
軍用飛行場には最新式の飛行船が停まり、空の哨戒や偵察に使われている。その広い滑走路に、嵐を抜けた二頭の鷲獅子が転がり込んできて、早朝の飛行場は騒然とした。
地面に足がついたことを確認したあと、鹿嶋は飛行用ゴーグルをはぎ取り、水タバコの吸い口のような酸素吸入器を吐き出す。質のわるい圧縮酸素の油臭さに吐き気をもよおすが、なんとかこらえる。
飛行服の胸をあけて、携帯用ボンベを確認すると、圧縮酸素は残りわずかしかない。乱気流のなかにとどまり高高度を維持したままでは危なかった。
横で同じように伸びている騎乗獣をなでてやる。
「よくここまで飛んでくれた。ありがとう」
「鹿嶋!」
はなれたところに降りたった仲月見イスカ少佐が走ってくる。乱気流から鹿嶋をみちびき、連れ出したその人だった。
あちらは鹿嶋のような無様はさらしていない。みごとな軟着陸である。
——あの人、よく走れるな。
「無事か」
「ええ。なんとか」
鹿嶋は周囲を見わたす。遠まきにふたりを囲む人の群れが見える。
「日ノ出台の飛行場です」
「そうだな」
「事前に、こちらへ連絡とかは」
「できると思うか?」
「無理でしょうね。あの状況では」
そう言うと、鹿嶋はようやく立ち上がる。
「事情を説明しなくちゃいけません。滑走路に無断侵入なんて、どやされるだけで済めばいいですが。師団本部につたわると面倒ですよ」
「我々の騎乗獣はよく目立つ。こちらが何者であるかは、すでにわかっていると思うが」
すぐに飛行場に駐屯する部隊の当直士官を名乗る大尉階級のものが、所属の確認にやってきた。
所属と階級を明らかにされたし、という大尉に対し、少佐はこたえる。
「近衛師団第二連隊鷲獅子騎兵大隊大隊長、仲月見イスカ少佐、並びに副官佐治鹿嶋中尉であります」
「当飛行場は、飛行船の夜間訓練をひかえ滑走路の使用は全面的に停止しております」
「申し訳ありません」
イスカはフライングキャップをとると、それを胸にあて、貴公子のように頭をさげた。
鹿嶋はイスカがなにを言おうとしているのか薄々わかって、つい笑いそうになる。
「ある生物を追っていて、乱気流に巻き込まれまして。なんとかこちらへたどり着きました」
「ある生物とは?」
「龍です」
イスカは自分たちがやってきた空のかなたを指さす。
「我々は、龍を追っております!」