十四 隠れながら泣かないで
豊忍鏡子は慌てていた。
昼食時に目を離したすきに、紗蓉子が隣学級の女子生徒に連れていかれたと聞かされて、急いで高等部の学舎に飛び込んだ。
昼食時なんて最悪である。どこに行こうと自由な時間だから、鹿嶋を探すのは容易ではない。
「あれーこの前の人だよね」
声をかけてきたのは、鹿嶋の友人とは思えないくらい人当たりのいい、葛城一陽である。
「か、鹿嶋さまは」
「今日は用事があるって。でも中等部のほうに行ったんだよ」
火急の事態なので、と鏡子は一陽の腕をつかんだ。
「この際もうあなたでいいです」
「そんな言いかた?」
中等部の学舎に向かう途中、一陽は小槻嬢について、覚えがあると言った。
「高等部に上がったばかりのころ、あいつ進級けっこうぎりぎりでさ。お父上に散々突き上げくらって、けっこう殺気立ってた時期なんだけど」
その時に、折り悪く来たのが小槻凛子だった。「雑な扱い、したんだよなあ」と一陽はひとりごちる。
中等部の食堂につくと、そこには鹿嶋がいた。
「一陽」
なんでここに? と聞く鹿嶋に、一陽はこっちのセリフだと返す。
「一陽が小槻凛子の名に心当たりがあるというから来た。でもどこの教室かわからなくて、昼時ならこのあたりで会えるかもと思ったんだ」
「……いきなり本丸に乗り込むなよ」
「時間をかけたくなかった」
まずその前に、鹿嶋は小槻嬢に会って、何を言うつもりでいるのか。
一陽は何を想像するよりそれが気がかりだ。鹿嶋の対応の仕方によっては、火に油を注ぎかねない。
ののしるのも、追い詰めるのもよくない。
だいたい小槻嬢のしていることは、すでに嫌がらせの範ちゅうを超えつつある。紗蓉子に身の危険が迫るなら、教師も巻き込むべき案件である。それを当事者とはいえ、鹿嶋にどうにかできるのか。
「あ、紗蓉子さまが」
鏡子が食堂から外に続くテラスに立たされる紗蓉子を見つけてしまった。それを聞いて、一陽が策を考える前に、鹿嶋は走り出してしまう。
紗蓉子が連れていかれた場所は、中等部の食堂の、外につづくテラスである。
今は暑すぎるので出るものがいないが、春や秋にはここで食事をとる学生もいる。
確かに中からは見えづらいが、危険があればすぐにでも食堂へ逃げ込むことができる。紗蓉子は目線を食堂へ通じる窓から離さずに、小槻凛子と対面した。
小槻嬢は、彼女を案じて取り囲む何人かの級友たちと一緒だった。取り巻きと言うより、対等で信頼した友人なのだろう。彼女たちにとって、小槻嬢が正義で、紗蓉子は異物。わかりやすいなと思う。
「わたくしは、中等部の一年生の頃から佐治鹿嶋さまをお慕いしておりました。いつか鹿嶋さまに必ず想いをお届けしようと努力しているのに……」
あんな人を何年も想い続ける根気がすごいと素直に感じる。
自分が思いを寄せた人間に愛を返されて当然と思えるのは、これまでの人生で愛し愛されてきた証だ。そういう人は、その想いが報われなかったとき、どうするのだろう。誰が誰を好きになろうと自由だが、その恋心の責任は自分で取るべきであるのに。
こうして紗蓉子を排除して、鹿嶋の心は手に入るのだろうか。彼は紗蓉子が消えてしまっても、泣きもしないだろう。考えれば考えるほど、それが悲しいと感じる理由が紗蓉子にはわからない。
「なのに、ポッと出のあなたばかりが……いつもいつもあなたばかり。鹿嶋さまに話かけられて、名前まで呼んでもらえて」
怒りばかりだった小槻嬢の声は、途中から泣き声に変わった。
「お姿を見るだけでも苦しいのに」
どこに行けば鹿嶋さまに会えるの。泣き出す小槻嬢を、一緒に来ていた級友たちがなぐさめる。
紗蓉子はそれを見て、嫌悪は感じなかった。むしろ雷に打たれたように、気づいてしまった。
ああ、この方、本当に鹿嶋さまのことが好きなのだ。
ただ姿を見るだけで苦しくなったり、どこに行ったら会えるのだろうと考えて悩んだり、あの人はどんなことを話すのだろうと想いながら、少しずつ少しずつ、好きなっていったのだろうな。
——私は? 私はいったいいつから。
「どこに行ったら鹿嶋さまに会えるかなんて、私が聞きたいくらい」
思わず紗蓉子は、心に浮かぶままを、虚飾なく口にしてしまった。
「え?」
小槻嬢は、まったく思い至らない内容の発言に、裏返った声をあげる。
「いつも行ったら、同じ場所にいるの。でもそれは、明日も鹿嶋さまに会える保証にはならないのです」
あの社でも、時間を決めて会っているわけではない。
何日もすれ違って会えなくて、暗くなる直前まで待っても来てくれなくて、ひとりで帰る日もあるの。
今日はなにをお話ししようか、こんなことがあったからお伝えしたい。たくさんたくさん考えたのに、全部無駄に終わってしまう日もあるの。
会えなかった日、きっと鹿嶋さまは私のこと一度も思い出さなかったのだろうなって、わかる。
「いたり、いなかったり、猫みたいな人」
口に出せばもう、涙が止まらなくなってしまう。次から次にあふれる涙を、ぬぐうこともできない。流れ落ちる涙が気付かせる。
——ああ私はこんなにも、あの人のことを。
「猫なら懐くからまだいいほう。私だって、鹿嶋さまはわからない」
わからないのに。
「私も、小槻様と一緒ですね」
同じ人を想ってこんなに苦しいの一緒ね、という気持ちで、紗蓉子は心から小槻嬢に微笑みかけた。
毒気がない、晴れやかで物悲しい笑顔。小槻嬢はそれにあてられて、何も言わずに紗蓉子を見つめた。叶わないかもしれない恋の悲しい予感が、彼女をこんなにも輝かせる。
勢いよく窓を開け放って、鹿嶋がテラスに飛び込んでくる。
「佐治さま!?」
小槻嬢が悲鳴のような声をあげるが、鹿嶋は最初から一人しか見ていない。
「紗蓉子」
鹿嶋は駆け寄ると、肩に触れ、うつむく紗蓉子をのぞき込む
「泣いているの? 誰が泣かせたの」
見ている全員がお前だよと言いたくなる状況だが、鹿嶋は大真面目である。
「なんでもありません。私がひとりで泣いてしまっただけです」
「本当に?」
「本当です」
涙をぬぐって、紗蓉子は笑った。やっと安心した鹿嶋は、小槻嬢に向き合う。
「小槻凛子嬢」
「は、はい!」
初めて想い人に名を呼ばれ、凛子の顔はみるみるうちに赤くなる。
「以前、あなたがわざわざ俺みたいな男に想いを告げてくれたときに、ひどいことを言ったのを謝る」
凛子は目を丸くした。その日のことを思い出したのか。
「誰? と言った」
「お、覚えていらしたのですか」
「いや、忘れていた」
取りつくろえない男である。
「でも友人から聞いて、思い返せばひどいと思う」
「では、わ、私の気持ちに応えてはいただくことは……」
「それはできない」
あまりにも毅然とした物言いに、凛子は赤くなった顔を青くして黙る。
「俺は今、別に想う人がいるから、あなたの心に応えることはできない」
はっきりと、想う人がいると鹿嶋は言った。
「そんな」
「だけど、人の心がいつでも自分の思うままにならないのは、あなたも重々承知していると思う。だからどうか、飲み込んで欲しい」
鹿嶋は深々と、頭を下げる。
「それから」
鹿嶋は頭を垂れたまま、もっとも自分が言いたかったことを告げる。
「紗蓉子を俺から遠ざけても、俺の心があなたに傾くことはありえない。だから、彼女を苦しめるようなことはもうやめてほしい」
完全にくじかれて、凛子は「はい」と力なく返事をする。
「話を聞いてくれてありがとう」
鹿嶋が顔をあげると、凛子の級友のうち一人が、「凛子さまも他の皆様も、こんな男のどこがいいのかわからない」とつぶやく声が聞こえた。それを拾って、鹿嶋は笑う。
「俺もそう思うよ。俺の兄貴にしておけよ。いい男だよ」
鹿嶋は後ろで取り残された顔をしている紗蓉子を見やって、「じゃあ、また」と言って、テラスを出ていく。
そこで一陽と行きあって、鹿嶋は決まり悪そうに「お前が断るのにも誠実さが足りないと言うから」と言った。
「なら俺のおかげだな。礼くらい言ってもばちはあたらないぞ」
しかし鹿嶋は、またも「うん」と言ったきり、なにも言わなくなる。
その日、紗蓉子は迷いに迷って、街中を無闇に歩き回り、門限までもう間がない時間になってから、ようやく社へ向かった。
鹿嶋は、そこにいた。
風が強く吹いていて、その日に限って猫はいなかった。ゆりかごの中もからっぽで、紗蓉子は鹿嶋のそばに寄る理由を見つけられない。
「紗蓉子」
鹿嶋はすぐに駆け寄ってきた。
「あのあと、何もなかった?」
「はい……」
「よく考えたら、教室まで送っていけばよかった」
「いえ……」
紗蓉子は頭を巡らせて、やっと正当に言うべきことを見つけて顔をあげる。
「今日はありがとうございました」
「いいんだ。もともと、俺のせいだった」
そこまで言って二人とも、話すことがなくなってしまった。
「……今日も本当は、迎えに行こうと思った」
鹿嶋が口を開いた。
「でもなんとなく行きづらくて、ここで待っていた」
待っていた、と確かに言った。
「紗蓉子」
名を呼んで、鹿嶋が紗蓉子の手をつかんで引き寄せる。紗蓉子はカバンを取り落として、近づいてくる鹿嶋の胸を空いた手で押し返した。
「紗蓉子?」
「あの……」
これを、受け入れていいのかわからない。
思い違いをして縋っても、この人はまたどこかへ消えるかもしれない。一時心を通わせても、受け入れ続けることはこわい。触れられると心がすべて漏れそうでこわい。強く引き寄せられると、心までさらわれそうで、それもこわい。
「こわくて……」
「俺が?」
紗蓉子は必死で首を振った。自分が何を怖がっているのか、鹿嶋にすべてわかってもらうのは無理だと思った。
鹿嶋はぱっと手を離すと、横倒しになったカバンを拾って手渡してくれる。怒っているのかと思ったが、笑っている。
「じゃあ、帰ろう」
鹿嶋は当然のように紗蓉子を家まで送るつもりのようで、ときどき振り返っては、彼女の歩みに合わせて待っている。
こんな、歩き方をする人ではなかった。
鹿嶋は別れ際に、名残惜しそうに紗蓉子の頬に手を伸ばしたが、触れる前にその手を引いた。
「また、明日」
少し寂しそうに笑って去っていくのを見て、紗蓉子は自分が鹿嶋を拒んだことが、彼にとってどんな意味を持つことになるのか深く考えたくなくて、その日は異様に早く眠った。