十三 情けない獣
「私は本当に我慢がなりません」
紗蓉子の友人である豊忍鏡子は、いつになく猛っていた。
紗蓉子の母である皇后陛下の類縁にあたる家柄の娘であるから、その出自は由緒正しく高貴である。
しかし彼女は、その生まれを忘れさせるほど眉を吊り上げ、本気で立腹している。
「そもそもが、私が紗蓉子さまのおそばを離れるときを狙っているのがよくありません」
性格が悪すぎる、と鏡子は吐き捨てるように言う。
「いっそ紗蓉子さまのご身分を明かしてしまうのがよろしいのでは」
「鏡子さま、ありがとう。でも、きっと私の身分が割れたとして、これはおさまらないと思うの」
そもそも、皇女は生誕時にその名が国民に伝えられるが、その後公務で人前に姿を見せることはない。
いったい日高見国の国民のうち、どれだけが紗蓉子の名を覚えているだろう。
皇修館就学にあたって、彼女が名乗るための苗字を与えられる以外、偽名の必要なしと断じられたのも納得の話だ。
鏡子は紗蓉子の言葉に深いため息をつく。
「だって、そうしたらこれは一体いつまで続くのですか?」
彼女たちがこれと呼ぶ騒動の中身は、隣学級の小槻凛子による、紗蓉子への嫌がらせである。
同学級ではないから、授業中はそうしたことは起こりえない。
しかし選択科目の移動教室で、紗蓉子が鏡子やその他の級友と離れるとき、またひとりで下校する際などに、ささいな嫌がらせをされる。
最初は、子どものいたずらのようなものがほとんどだった。
鏡子やその他紗蓉子の級友もあきれ、紗蓉子自身が取り合わないのもあって放っていた。
しかし、先日中等部の舞踏会に紗蓉子が佐治鹿嶋を伴って現れた時から、嫌がらせの質が変わった。
——ご実家が傾きがちで、将来いいご縁に恵まれないかもってお嘆きなの。
——お母さまが芸妓だったこともあって、そういった知識も豊富な方。
あらぬウワサを吹き込まれた見ず知らずの男子学生から、とてもご令嬢に送る内容とは思えない手紙を受け取るようになって、紗蓉子は疲弊し、すり減り始めていた。
朝から放課まで、おとなしく学校にいる佐治鹿嶋など、もはや鹿嶋ではないのだが、近頃の彼はまさにそれである。
決まった時間、決まった場所にいるということは、捕まりやすいということだ。
おかげで鹿嶋の行動などまったく把握していない鏡子も、すぐに彼を見つけることができた。鏡子から取次ぎを頼まれた一陽から「断ろうか」と提案されたが、鹿嶋は「知っている人間だから会う」と答える。
「いつも紗蓉子と一緒にいる……」
「豊忍鏡子と申します」
あの、と鏡子は切り出しに困って、今朝方、紗蓉子が通りがけの男子学生から押し付けられた手紙を鹿嶋に手わたす。
「紗蓉子さま宛のものです。紗蓉子さま、最近ご様子がおかしくありませんか? ずっとささいな嫌がらせを受けてこられたのですが、最近特にひどくて」
手紙を開き、目を通している鹿嶋に反応がないのが心配で、鏡子は言葉を連ねる。
「紗蓉子さまは登下校もひとりでされますから、私心配で……」
「なんだよこれ」
鏡子の声は、低くどす黒い鹿嶋の声にかき消される。
「誰だこんな……こんなひどいものを」
手紙を持つ鹿嶋の手が震え、怒気が身体から湧き上がってくるのが見てわかる。
「どこのだれだ!」
突然の怒号に鏡子は小さな悲鳴をあげるが、なんとかすべてを伝えようと努力を続ける。
「そ、そこに書かれていることは、すべて事実無根で……」
「当然だ!」
今度こそ息が止まるほど驚いて、鏡子は黙ったが、一陽がすかさず「落ち着け。怖がらせているぞ」と声をかける。
手紙に手を伸ばす一陽の手を、鹿嶋が振り払う。
「だめだ! 絶対に見せない! こんなもの……!」
それから鹿嶋は少しは理性を取り戻した顔で鏡子に確認する。
「こいつ一人ではないんだな」
鏡子は無言でうなずく。
「手引きしている奴がいる?」
また鏡子はうなずいた。
「紗蓉子はひとりにはさせない。約束する」
鹿嶋は手の中の手紙を握りつぶして、静かに決意を口にする。
「これは、俺が何とかする」
紗蓉子は放課後、皇修館の門を出る直前にカバンをぎゅっと胸に抱いた。ここ数日は、こうして走るように帰ることが続いている。
社にも数日行っていない。行きたい気持ちは大いにあるが、万が一あとを付けられて、人気のないあの場所で見知らぬ人と行きあうことになると恐怖だった。
もしそこに鹿嶋がいなかったら?
下を向いた紗蓉子が門を出た瞬間、
「紗蓉子」
鹿嶋さま。とつぶやいて、紗蓉子は呆けた。いるはずがないと思っていた人物が門の外で自分を待っている。そして一緒に帰ろうと言って、並んで歩きだす。混乱したまま、紗蓉子は鹿嶋に言われたとおり、歩き出す。
二人とも無言だった。猫がいないと私たち話すことがないのかもと、紗蓉子は不安になる。
「このところ、ずっと元気がない」
鹿嶋の言葉に、顔をあげる。
「そうですか?」
鹿嶋に気取られるような真似はしなかったはずだ。ここ数日、会ってすらいない。
「なにもありませんよ」
「嘘をつけ」
何もかも知っているという口ぶりである。
「あったとして、鹿嶋さまにどうにかできるものではありません」
「それ、俺が原因だったら?」
どうする? と鹿島は重ねて尋ねる。誰に聞いたのだろうか。確かにきっかけは、小槻嬢から鹿嶋への、報われない恋情である。
「……それでも、なにもしていただかなくて結構です」
「俺が行って話をつけることもできる」
そんなことを言う人ではなかったでしょう、佐治鹿嶋は。紗蓉子はすんでのところで、その言葉を飲み込んだ。
「……鹿嶋さまは気まぐれな人でしょう。きっと今日は、たまたまそういう気分だっただけです」
「気まぐれじゃない」
紗蓉子は耐えきれなくなって、鹿嶋を置いて走り出した。
「紗蓉子!」
背後から、鹿嶋が自分の名を呼ぶ切実な声がする。
自分が鹿嶋を撒けるわけなどなかったのだ。鹿嶋はすぐ追いついて、しかしそれでも、もう近づかず話しかけても来ず、少し離れたところから紗蓉子の屋敷までついてきた。
そして彼女が屋敷の門をくぐる直前に、「紗蓉子」と呼ぶ。また明日、とだけ言って鹿嶋は背中を見せた。紗蓉子はそれを見送って、その場にへたりこんでしまう。
俺が行って話を付けるということは、小槻嬢と鹿嶋が二人で会うということだ。
二人だけで? それだけは絶対に嫌。紗蓉子はこの浅ましい考えが、鹿嶋に伝わっていないことを祈るばかりだった。