十二 猫になりたい
皇修館は爵位持ちの子女が通う学校ではあるが、その階級によって、特定の生徒がひと際ひいきされることはない。
民の苦労をよく知り、国の礎を支える一個の責任ある大人になるためと称して、学内の大小の雑事も生徒主導で運営している。また男女の別なく、事に当たっては生徒一丸となって真摯に取り組むことを是とする。
そのような校訓に則り、高等部のとある女子生徒が、廃材を焼却場所まで運ぶという重労働を任されている。
理念が先行し、現実が蔑ろにされる悪例である。
休み休みなんとか運ぼうとする女子の横から、奪うようにそれを持ち上げて、運び去る腕がある。
廃材を肩に担ぎ、先に立って歩き出した男子生徒が振り返って尋ねる。
「これ、どこまで運ぶの」
「……第三学舎の裏です」
「わかった。あとやっとくから、いいよ」
「はあ」と言って立ちすくむ女子生徒は、我に返ってから驚きの声をあげる。
「あれはまさか、佐治さまでは?」
近ごろ、佐治鹿嶋が人に優しいという話は、高等部内では珍事としてとらえられている。
紗蓉子と鹿嶋が二人で会う社には、猫のとのこが戻って来ていた。
仔猫たちは会わなかった期間分大きくなっていて、もう母猫から離れて、兄弟でじゃれ合うようになっている。
紗蓉子は仔猫たちをかわいいかわいいとほめそやし、社にいる間中、ほとんど猫と遊び、猫を眺めている。
ようやく仔猫たちは遊び疲れたのか、兄弟同士くっついて丸まって眠りだす。紗蓉子が屋敷から持ってきた大き目の藤かごに、やわらかいガーゼを敷いた即席のゆりかごだった。
「まいったな」
かごの中をのぞき込んで鹿嶋はぼやく。
「どこからどこまでが一匹なのか、つなぎ目が全然わからん」
仔猫は全部で四匹。
三匹が黒猫で、残り一匹が母猫のとのこと同じ、赤みの鈍い薄茶で、左耳のてっぺんだけに白い毛がふわふわしていた。四匹は個体の境界も溶けてなくなるほど、引っ付いて寝ている。
「ちゃんと起きて出てきたら、わかりますよ」
紗蓉子はかわいくて仕方がないというように、ずっとかごをのぞき込んでいる。最近鹿嶋のことを見ない。
「紗蓉子」
返事がない。
「さーよーこ」
「は、はい! なんですか」
「そんなに猫がいいのか」
だってかわいいからと言って、紗蓉子は笑う。
「鹿嶋さまは、どうかされたのですか」
「なんで」
「だって今日、ずっとため息ばかりついているから」
「べつに」
と言って、鹿嶋はまた黙る。こういうことはたまにある。紗蓉子はなにか考え事をしたい気分なのだろうと、鹿嶋を放っておくことにも慣れてきた。
「紗蓉子」
「はい」
「人に親切にするとき、何を考えている」
「どうしたんですか? 悩み事ですか鹿嶋さま」
「いいから」
「特に、何も考えていないかもしれません」
「このあいだ、俺の御守石を拾ってくれたときは」
「このあいだ? ああ」
鹿嶋が上級生に絡まれて、御守石を投げ捨てられた時の話だ。
「あのときも、ただ私がそうしたいと思うからそうしました」
「そうしたいと思うからか……」
難しいなあと言って鹿嶋は空を仰いだ。竹林の隙間から、夏の日差しが鋭く透ける。紗蓉子は仔猫を構っていて、鹿嶋のほうはもう見ていない。
「それで」
高等部の教室で、にやにやと楽しそうに一陽が寄ってきた。
「紗蓉子さんと話して疑問は解決したのか」
「さあな」
「慣れないことするからだよ」
「俺はべつに、悪人じゃない」
「そりゃ知っているが」
男子学生の中にも、排水溝に落ちた下宿のカギを探してもらったという奴や、野犬を追い払ってもらったという連中がいる。
人に積極的に優しくしている佐治鹿嶋というのは、やはり少々奇特に見えるらしく、なにか魂胆があるのではと、あやしむ人間もいるほどだ。
「何があったのかしらないけど、そろそろやめたら。大体、常々思っているんだが、たとえば人からのお誘いを断るにしてもお前には誠実さがない。もうちょっと穏便にことを済ませるように努力すればいい。善行を積むより、それが先だ」
「誠実誠実と、どいつもこいつも簡単に言ってくれる。俺はそれを親にも教師にも習った覚えがない。これは教育の敗北じゃないか?」
「話を勝手にでかくするな。おまえに常識がないだけだ」
鹿嶋は椅子に浅く腰かけて目をつむっている。ふて寝でもするつもりだろうか。
舞踏会の夜に、華やかな会館の前で、来ないかもしれない自分を待つ紗蓉子を見て、鹿嶋は死ぬほど後悔した。兄・尚隆がいなければ、この不誠実は完遂されたかもしれない。
よりにもよって、紗蓉子に対してあんな不実を働きそうになる自分が嫌だった。根本にある心の本音に気づかなくても、何か変わりたいと彼が思い始めたのは事実だった。
人に親切にするから誠実性が身に付くのか? そもそも誠実であるから人に親切にできるのか?
卵が先か、ニワトリが先かの理論で悩んだ挙句、とりあえず手当たり次第に人を助けてみようと思い立って始めた騒動が、今回のこれだ。
社に続く竹林のなかで、猫のとのこに会った。鹿嶋は当然声をかける。
「とのこ、どこ行く。子どもはどうした」
猫は、なーと鳴いて、竹林の道なきところへ飛び込んでいく。その先には、鹿嶋によく慣れたあの黒猫がいた。とのこが追いつくのを待つと、二匹は連れ立って林の奥へと消えていく。鹿嶋が社へ着くと、紗蓉子がいつもの通り、階段の下でゆりかごの中の仔猫を見つめている。
「紗蓉子、とのこは」
「この子たちが眠ったら、すぐにどこかへ行ってしまって」
お母さまはご飯でも探しにいったのかしら、と紗蓉子は団子になって眠っている仔猫たちに話しかける。
鹿嶋は仔猫の眠る藤かごを挟んで、紗蓉子の隣に座る。それから「紗蓉子」と呼びかける。いつもより硬めな声に、この時だけは彼女はすぐに顔をあげた。
「仔猫たちに、里親を探してやったほうがいいかもしれない」
鹿嶋がそう言うと、瞬間紗蓉子の顔から血の気が引き、胸を突かれたように何も言わない。鹿嶋は内心、紗蓉子の反応にかなり狼狽したが、口に出してしまった以上、言い切るしかない。
「猫は子を産んであまり間もないうちに、次の子を孕むことがある」
「そうなったら、この子たちはどうなるのですか」
「とのこがそのまま面倒を見てくれるかもしれないけれど……もしだめなら、こいつら離乳はしかけているが、まだ一人前とは言えないし」
紗蓉子は手の甲で起こさぬように優しく仔猫たちの背を撫でている。この慈しみの極みのような手の行き先を、鹿嶋は奪おうとしている。奪ったところで、それが自分に向くとは限らないのに。
「鹿嶋さまにお借りした本で読みました。野良の仔猫の大人まで生きる率は、二割ほどしかないと」
彼女のさみしさが、猫に触れる指先から漏れ出てくるようだった。
「家付きの猫になったほうが、長生きできるのでしょうね。この子たち」
紗蓉子は仔猫の貰い先を探すことを承諾した。
浅はかだった。
鹿嶋は紗蓉子と別れ、大股で怒るように早い足取りで佐治の屋敷を目指している。
仔猫に里親をと告げた時の紗蓉子の顔。あんな顔をさせたかったわけではない。
仔猫がいなくなれば、また前のように紗蓉子が自分を見てくれるかもしれないと、短絡な考えがあったことを否定できない。浅慮で、下劣で、自分勝手。まったく誠実さのかけらもない最低の思考。
鹿嶋は自分を責めて、責めて、責め立てた。こうなれば、なんとしても仔猫たちが幸せに暮らせる家を探してやらねばならない。紗蓉子が安心して笑って、仔猫を送り出せるような家だ。
「兄上!」
翌日の放課後、鹿嶋は兄・尚隆の自室へ飛び込んだ。
「お願いがあってまいりました」
尚隆は取り組んでいた書類仕事をやめ、ペンを置き、鹿嶋と向かい合う。鹿嶋は昨夜手ずから夜なべ仕事で作った、猫の貰い先を探すビラを尚隆の執務机に置く。
「協力していただけませんか」
「猫か」
尚隆は短く言う。なにを考えているかとても読めないが、それは鹿嶋が退く理由にはならない。
「とても大切な友人がかわいがっている猫たちです。事情があってその友人は猫を引き取れませんが、なんとしても、この子たちが幸せに暮らせる家を探してやりたい」
お願いします。と、鹿嶋は兄に向って深々と頭を垂れる。
尚隆はビラと、床を見つめたまま動かない弟を見くらべる。もらい手に名乗りをあげるものの連絡先は、佐治侯爵家。家名を出せば相応の信用は得られる。その許可願いも兼ねている。
「よろしい。だが俺がもらうのはこれだけだ」
尚隆は鹿嶋が作ったビラのうち、上から半分だけを取って、残りを弟の手に返す。
「取引のある店や、手伝いのものたちのつてを頼もう。だが、残り半分は鹿嶋、貴様が自分で貼り先を探せ。店でも人様のご自宅でも、置かせていただくなら頭も下げ、礼も言わねばならない。そのくらいの覚悟は……」
「あります!」
すぐに行ってきますと叫び、廊下のかなたに走り去る音が遠ざかったと思えば、足音はすぐにまた近づいてくる。パーンと障子戸を開け放った鹿嶋が、特大の大声で兄上! と叫んだうえ、
「ありがとうございます!」
とさらに大きな声で叫んで、また走り去っていく。
「騒がしい奴だな」
尚隆は弟に見えないところで、小さく笑った。
鹿嶋はその後、日の暮れる直前まで街中を駆けまわった。
ビラを貼ってよいと言ってくれた店、家の塀に貼ることを許してくれた家、知り合いにあたってみると言ってくれた人々。どこでも鹿嶋は、心から湧き出るままに大きな声で、「ありがとうございます」と言えた。
本心だった。
心から、礼を言いたい気分だった。私がしたいと思ったからしただけ。紗蓉子の言っていることが、やっと少しわかりかけている。
一週間後には、四匹のうち三匹の仔猫の貰い先が決まった。うち二軒は先住の猫を迎えている家で、猫のあつかいに慣れており、仔猫も楽しく暮らせそうだった。残る一軒も、小さな姉妹を育てる家族で、ぜひ子どものよき友達にと猫を望んでくれた。
残る一匹、母猫と同じ毛色の仔猫は、他の三匹と比べるとひと際小さく、またこの数日で結膜炎にでもかかったのか目やにが出始めてしまったので、一度里親探しは区切りとした。
それから、ビラを貼らせてくれた各所に、今度は紗蓉子と二人で礼を言って回る。
「来なくてもよかったのに」
「でも、鹿嶋さまが何もかもしてくださって、そのうえ後始末まですべてお任せしては心苦しいです」
鹿嶋はビラ貼りを頼んだすべての場所で、「大切な友人がかわいがっている猫である」旨、漏れなく告げていた。紗蓉子を連れて礼を言いに行った何軒かは、すぐに事情を察して暖かく二人を送り出してくれたのだが、それが鹿嶋にはもうつらい。
社には、たった一匹だけの仔猫が残されている。
「ひとりぼっちになってしまったね。ごめんね」
紗蓉子は仔猫を胸に抱いて暖めてやる。母に抱かれるがごとき落ち着きようだった。
母猫のとのこは留守にしていることも多かったが、いるときは仔猫の世話も焼くからまだ心配はないようだ。
「さみしくはないか」
紗蓉子がぱっと顔を上げて鹿嶋を見る。
「さみしいです。すごく」
正直な言葉に、鹿嶋の心は痛くなる。
「でも、あの子たちがこれから幸せに暮らせるのだと思うと、安心します」
鹿嶋さまのおかげですと言って、紗蓉子は残った仔猫の左耳の先っぽの白いのに触れながら、「お前はもう少しお母さまのところにおりなさい。ね?」と話しかける。
そうっと仔猫をゆりかごの中に降ろすと、「明日もまた来るからね」と名残惜しそうに言って、立ち上がる。
「鹿嶋さま、私もう行かないと」
「ああ」
ビラ剥がしに回っているうちに、いい時間になってしまっていた。日は長くなったが、それで紗蓉子の門限が伸びるわけではない。
「鹿嶋さまは?」
「俺はまだ、もう少しいるよ」
紗蓉子が去っていく背中を見送りながら、鹿嶋はゆりかごから這い出ようと藤かごをよじ登っている仔猫の背を優しくつつく。
「おい、お前のところには明日も来るそうだぞ。よかったな」
仔猫は、なーと鳴いて振り返る。
「母さまが戻るまで俺がいてやろう。ひとりになってしまったから」
ごめんなと鹿嶋はつぶやいて、仔猫をそっと抱きあげる。目のまえにかかげて、鼻先で仔猫の腹の毛をくすぐる。
「……どこにも行くあてがなかったら、お前は紗蓉子のところに行くのかな」
そう言ってから、さっきまで紗蓉子の胸元にいた仔猫を、自分の腕の中に引き寄せる。柔らかい鼓動に頬を寄せて、鹿嶋はつぶやいた。
「いいなぁ。俺も猫になりたい」