九 紅の秘密
「人間は育てたようにしか育ちませんよ、父上」
鹿嶋が相変わらず問題を起こし続けている。そう言って、電話の向こうで猛っている父親に対し、息子である佐治尚隆が放った言葉が、これだ。
まだ父が何がしか叫んでいる電話口から耳をはなし、早々に切ってしまう。壁掛け式の電話機は、勝手口から入った土間を通り抜けた上がり框の横の柱にある。
横の炊事場で仕事をする使用人たちにも、父の怒声は響いていただろう。はっきりと内容は聞きとれなくても、穏やかなやり取りでないことはわかったはずだ。
まるで自分たちが怒鳴られたかのように委縮するいくつかの背中に向けて、「邪魔をしたな」と断り、尚隆は自室へ戻る。
自分が父に発した言葉に、まったく嘘はない。自分たちは今、長年鹿嶋から目を背け続けてきたつけを払っている。逃げることは許されない。
鹿嶋は近頃ようやくまともに学校へ通い始めたと聞く。一度だけ一晩戻ってこなかった日があり、厳しく注意をしたら、鍛錬場での三本取りの勝負に勝ったら自由をくださいと生意気を言った。
どう見ても勝負がついているのに鹿嶋が折れないから、結局半日は打ちあっていたように思う。最後には鹿嶋が木刀を持ったまま気絶をし、勝負はついた。丸一日以上眠っていなかったらしい。
最近家付きの使用人たちが街中で見かけたところによると、いつも同じ女生徒と一緒に歩いているという。どんな意図があるか知らないが、それで学校へ通うようになったのであれば喜ばしい。
——ただ。
と尚隆は思いなおす。行き過ぎて間違いが起きないようには注視しなければならない。鹿嶋にとっても、その女生徒にとっても。
近いうちに自分も扶桑国へ出向かなければいけない。戦火は止むところを知らず、前線の士気高揚のため、ついに皇太子殿下自らが戦場へおもむくことになったからだ。
尚隆は、机上で皇修館で提出するいくつかの書類にペンを走らせていたが、途中で手を止めた。
該当生徒の所有輝石を記入する欄があった。
日高見国では、子が生まれると、親から子へ輝石を贈るならわしがある。子に贈るその輝石を、御守石と呼ぶ。輝石はたいてい高価であるが、爵位を持つ子息であれば、当然持っているものとして、記入の欄が設けられている。
鹿嶋の輝石は、産みの母から賜ったものだ。石英にも似た白く、すべらかなその石を、母は産み落とす前から鹿嶋の御守石にと決めていた。
——龍に会ったの。
鹿嶋を産む直前、まだ子ども相手に話す余裕があったとき、母は尚隆に告げた。
——この石を、赤ちゃんにあげてね。
——この石を持つことになる人の子は、龍にとっても、人にとっても、大変大きな役目を持つようになる。龍はそう言いました。
まだ十歳の少年だった尚隆は、その手に白いかけらを握らされた。駆け上がり、上りつめてきた痛みに耐えるため深く呼吸を繰り返す母に、尚隆少年は尋ねた。
——この石はなんですか、母上。
お産が進み、尚隆が産室から追い出される直前、母は絞り出すように言った。
——龍骨。
これは、龍の骨であると。それが尚隆少年が母と交わした、最後の言葉だった。
別珍の小袋から転がり出てきた石を、教室の机の上に置き、まじまじと見つめる。紗蓉子は昨夜、改まって女官のユラに呼ばれた上、この尖晶石を渡された。
「中等部の教育課程においては、自身の御守石について調べ、また他の生徒の御守石について知る機会を得るというものがございます」
「その時に、わたしはこの石を提出するのですか」
「そうです。紅玉や翠玉を御守石としていれば、皇統に連なる証を自ら示すようなものです。ましてやあなたの紅玉はひと際特別なもの」
決して人に見せてはなりません。
きつく言い渡され、紗蓉子は渡された尖晶石を、文字通り御守りのようにぎゅっとにぎりしめた。
天河石、日長石、碧玉……授業中、次々と紹介される生徒達の御守石は、多種多様で、それぞれに贈った両親の願いがこめられている。紗蓉子だけが、石も、それに込められた祈りも、すべて偽りだった。
ユラが考えてくれた尖晶石についての当たり障りのない由来とそれに絡めた口上を述べ、紗蓉子の発表の機会は終わった。すぐ前に座る鏡子が振り返り、小声で尋ねる。
「ねえ、紗蓉子様の御守石って……」
「ええ、本物ではないの。鏡子さまには、後でお見せしたいです」
「ぜひ」
鏡子は笑って正面に戻る。彼女はちゃんと知っていてくれた。
授業そのものは楽しかった。同じ輝石でも形や色はそれぞれ異なるし、願いのこめ方も人の数だけある。生まれた子に、こんな風に生きてほしいと願うその気持ちは、きっと愛だろう。
紗蓉子の輝石は特別とユラは言う。大変価値のあるものなのは確かだろうが、それだけだ。皇女の輝石など最初から決まっていたようなものだ。そこに、母はともかく父は愛を込めただろうか。
仔猫を産み落としてからしばらくして、またとのこが姿を消した。今度は仔猫も一緒だ。
紗蓉子は心配して、探しに行きそうな勢いで鹿嶋に伝えたが、彼は驚かなかった。出産後の猫が居どころを頻繁に変えるのは、めずらしくないらしい。また落ち着けば戻ることもあるとなだめられ、紗蓉子はちがう猫が足元でじゃれるのを見ている。
「何かあったのか」
猫にはふれず、見ているだけの紗蓉子の様子に、社の中に入り込んで寝ころがっている鹿嶋が話しかける。仮にも龍の神様が安置されているであろう堂の中には、紗蓉子は恐れ多くて入ることができないが、彼はおかまいなしである。
「……今日、学校で御守石についての授業をして」
「なんだそれ。そんなのやったかな」
「鹿嶋さまお休みしていたのでは」
「そうかも」
近頃こうして不躾なことを言っても、鹿嶋がうれしそうに返すから、紗蓉子はいつも調子をくずされている。慣れない。
「輝石って、普通あんなに願いをこめて贈られるものなのかと思って驚いたのです」
「紗蓉子のは違うのか」
「……両親に聞いたことがないのでわかりません」
「聞けばいい」
「母は亡くなっています。父ともあまり話す機会がなく……」
話す機会どころか、紗蓉子が直接に皇帝陛下にお会いするには、面倒なしきたりを二、三は通過しなくてはならない。実の親とて、遠いのだ。
「俺と一緒だ。俺の御守石は母から賜ったものだが、死んで聞けないから、なぜこの石なのかわからない」
今まで知らなかった鹿嶋の話に、紗蓉子はとっさにどんな言葉もつなげず黙ってしまう。
「ねえ」
起き上がって社から這い出てきた鹿嶋が、紗蓉子の横に座る。
「紗蓉子の石、見せて」
そう言われて、紗蓉子はなんの嫌悪も示さず、白金の鎖につながれた本物の御守石を鹿嶋に渡してしまった。
なぜ、ユラに渡された尖晶石ではなく、こちらを差し出したのか、自分でもわからない。鹿嶋に知られる自分は、いつわりであって欲しくはなかったのかもしれない。
「これは……」
「紅玉です」
言ってしまってから、しまったと思う。鹿嶋は御守石に紅玉を持つ意味を知っているだろうか。今回の授業でも扱わなかったから、知りえないと思うしかない。
「紅玉の中に、星がある」
鹿嶋は見とれるように、その紅から目を離さない。
紗蓉子の御守石の輝石は、原石ではない。石の上部は凸状に研磨されている。その研磨された表面から、輝く六条の星型が浮かび上がる特別な石だった。
「……六条紅玉と申します」
ひとしきり眺めると、鹿嶋はもう十分と思ったのか紅玉を紗蓉子の手に握らせて返す。
「はやくしまったほうがいい」
言われるがまま、それを首にかける。紗蓉子ももう夏服になっている。留め金を首の後ろで留めて、赤い細いリボンが揺れる胸元に、紅玉をそっと隠す。
鹿嶋はそれをずっと見ている。見つめられて寄る辺がなくなった紗蓉子は、「鹿嶋さまは」と思わず訊いてしまう。
「鹿嶋様の御守石はどんなものですか」
母君から賜ったという石。
鹿嶋が目を見開いて何も言わないから、紗蓉子は森に迷い込んだような不安を覚える。
「全然、いいものじゃないけど」
鹿嶋は首に掛けている革紐を引き出して外すと、やはり紗蓉子の手に乗せてくれた。
白くて、なめらか。でもところどころ角がある。
「動物の骨のよう……」
思わず口走ってから顔をあげると、鹿嶋は笑っていた。
「正解。それ龍の骨だってさ」
「龍の……」
「ま、嘘だと思うけど」
軽く笑ってふざける鹿嶋をしり目に、真剣な目で龍骨を見つめる紗蓉子は、静かに告げた。
「私はこの石から、魔法の気配を感じます」
のぼりたつ湯気のように、この石のまとう香気のような魔力が、紗蓉子には見えている。
「俺は魔法を使えないのに?」
「でも鹿嶋さまは魔力をお持ちでしょう」
鹿嶋は急に横から無関係なものに小突かれたような顔をして固まった。
「そういうのもわかるのか」
わかる者とわからぬ者がいるだろうが、紗蓉子はよく見えるほうだった。
「自分でも、魔力の湧き出る何かが体のなかにあるのはわかる。でもそれが形になったことはない。簡単な生活魔法だって、俺は使えないんだ」
「なぜなのでしょうか。この龍骨と関係が?」
「全然わからない」
紗蓉子は両掌で包み込んだ龍骨に心を寄せる。きっと何かの願いが込められているはずの石だ。
「鹿嶋さま。この石、大切になさってくださいね」
俺は、と言ってから、鹿嶋は最初すこし言葉にすることを迷った。
「俺はこの龍骨のせいで馬鹿にされてきたことも少なくない」
なぜまともな石をくれなかったのかと母を恨み、捨てようとしたこともある。
「あまり好きじゃなかった。でも紗蓉子が言うなら、これまでよりは大事にするよ」
翌日、御守石の授業を担当した教師から、日高見国の国民として、必ず知っていなければいけない知識を伝え忘れたとして、学年全体に補修の刷り物が配られた。あまりに常識的なことゆえ、抜け落ちたと教師は弁明した。
そこにははっきりと、この記述があった。
『紅玉、翠玉をはじめとした鋼石派生の輝石は、宮家、皇族をはじめとした皇統に連なる方々だけが、御守石として持つことを許されている』
鹿嶋に特別な紅玉、六条紅玉を見せてしまった。あの人は気づいただろうか。紗蓉子が何者であるのか。
気づいたら、鹿嶋はどうすると思う?
紗蓉子は自分自身に問いかけた。身分が割れて、皇修館を去ることになっても、残念ではあるが怖くはない。ただ、鹿嶋が遠ざかっていくことだけは、想像できないほどに怖かった。