八 呼び名
「佐治さま!」
紗蓉子は翌朝、いつもより相当早く家を出て、通学途中に社へ寄った。すると浜縁で鹿嶋が丸まって眠っている。
「なんだ、日野紗蓉子か」
「まさか昨日、お帰りにならなかったのですか」
「ああ」
いくら初夏を迎える時期とは言え、夜は暖かいとは言えない。そんな夜を露天で過ごすとは、紗蓉子は予想もしていなかった。
「ご実家へのご連絡は……」
「していない」
「それは……大事にはなりませんか」
「そりゃあお前が一日帰らなければ大騒ぎだろうが、俺の家は俺が一晩行方をくらませても気にしない……たぶん」
何か思い出して、鹿嶋は少々顔をゆがませたが、すぐに浜縁の下を指さして、「生まれているぞ」と言う。紗蓉子はすぐさま制服であることを忘れ地べたに座り込むが、鹿嶋に触るなと忠告される。
「人間のにおいが付くと嫌がるやつもいるから、遠くから見るだけ」
「はい。とのこは元気ですか」
「ん、たぶん」
「よかった……。とのこ。がんばったね」
のぞき見る程度では何匹仔猫がいるのかもわからなかったが、紗蓉子はうれしくて何度もとのこに話しかけた。
「佐治さま、ありがとうございます。佐治さまがいてくれて、本当によかった」
「別に日野紗蓉子のためにしたんじゃない」
「知っています、ちゃんと」
「猫はもともと一人で子どもを産む」
「はい……それも知っています」
でも、やっぱりあなたがいてくれてよかった、と紗蓉子はもう一度言う。
それから鹿嶋は長くため息をついてから、漏れだすような声でつぶやく。
「腹減った……」
紗蓉子は、この方もしや昨日の夜から何も食べていないのではと気づいた。
「わたし、なにか買ってきます」
「朝早い。どこもやってないだろ」
「早くから開いているお店もあります。探せば」
「いいから、ここにいて。少し眠りたい」
呼ばれて紗蓉子も浜縁にあがると、鹿嶋のとなりに座る。
「全然寝ていないのですか」
「うん。いや……少しだけ、寝た」
背中を丸めて鹿嶋はそのまま動かなくなった。夜は冷えなかったろうか。鹿嶋はもう夏服だった。
か細い仔猫たちの声を下に聞きながら、すぐ横の彼の寝息が乱れていないのを確認する。紗蓉子は音を立てないよう気を付けて、浜縁から足を垂らして空を眺めた。平和で、静かだった。イスカもきっと、こういう時間が好きだろう。
一体どれくらい時間がたっただろう。かたまりだった白い雲が、風に散らされて形を変え細くなっていた。むっくりと鹿嶋が起き上がる。
「もういい時間だから、そろそろ行かないと遅刻する」
「佐治さまは大丈夫ですか」
「ん」
「一度お帰りになりますか」
「いや」
学校行かないと、と鹿嶋は目を閉じたまま呪文のように唱えている。
「佐治さまも大丈夫なら、来てくださいね。学校」
「ん」
半分眠ったような様子で返事をする鹿嶋を残し、紗蓉子は「待っていますから」と言い、学校への道を急いだ。
その日、紗蓉子は頻繁に外を眺めて、鹿嶋が中等部の塀を超えてくるのを待っていたが、ついにその姿は現れなかった。
次の日も、鹿嶋は学校にも社にも姿を見せなかった。
その間、紗蓉子は猫のとのことその子ども達になにかしてやりたかったけれど、触るなと言われていたので、耐えて遠くから眺めておくだけにしていた。
社で背後から人の近づく気配がして、紗蓉子は険しくなりそうだった眉を開いて振り返った。
「佐治さま」
しかし、そこで鹿嶋の顔を見て、動けなくなってしまう。
「ひどい顔」
片目は完全に腫れていて、瞼が切れていた。反対側の頬にも、引きかけの内出血のあとがある。よく見ると、顔ばかりでなく腕にも痛々しいあざが多数ついていた。
「あー……兄貴にやられた。やっぱり、外泊はだめだったらしい」
鹿嶋は面目ないという顔で、苦笑いしている。
「折檻で……?」
紗蓉子はおそるおそる尋ねる。
「いや。鍛錬場で、木刀持ってやりあうんだ」
「防具は付けないのですか」
「兄貴とのときは、付けないな」
「あの……ごめんなさい」
「なんでお前が謝る」
「だって佐治さまが残ってくれたおかげなのに……こんな」
「兄貴とは、勝負なんだよ。俺が強ければこんなにはならない。自業自得だ」
鹿嶋はその場でしゃがみこんで、囲いの奥で母猫と仔猫が無事なのを感じると、ふっと息をつく。
「……とのこが初めてじゃないんだ」
意味もなく、鹿嶋の右手が行き場をさがして石畳の間の雑草をいじっている。
「前にもここで仔猫を産んだやつがいて、俺は夜帰って朝戻ったら、母猫はもうどこかに行ってて、仔猫はカラスに食い荒らされていた」
紗蓉子はきゅうと喉の奥が狭くなって、吸った息を吐くことも飲み込むこともできなくなった。それをたった一人で見つけた時、鹿嶋はどんな気持ちだったのだろう。
「母猫が産んだあといなくなることはあるらしい。だから心配でさ。でも、とのこは大丈夫だった」
彼は地べたに無造作に放り出したカバンから、缶詰を取り出す。
「あっ、それ……」
猫用の缶詰。
「あ、あげてもいいんですか!?」
「だってエサ取りに行けないだろ」
それが許されるなら自分だってあげたい。
紗蓉子は浜縁の下から戻ってきた鹿嶋に、食いつくように話しかける。
「佐治さま!」
「鹿嶋でいい」
不意打ちで思いがけない答えが返ってきて、紗蓉子ははじめ驚き、それから心臓がなり出すのを感じていた。なにも言わない紗蓉子に、鹿嶋が繰り返す。
「鹿嶋と呼べ」
「そのお名前、お嫌いだったのでは」
確かに嫌いだから呼ぶなと言っていたではないか。
「どっちの名も嫌いだ。佐治も、鹿嶋も。鹿嶋のほうがまだマシ」
そうですかと、か細く言って、そのまま紗蓉子は下を向く。この話、いつ終わらせればいいのかわからない。
「じゃあ呼んでみて」
「今ですか」
「そう。試しに」
「……鹿嶋さま」
「何?」
下を向く視線をすくい取るように、鹿嶋が紗蓉子の顔をのぞき込む。
眼が、うれしくてたまらないというようにきらきらと光っている。あの青っぽい白目の真ん中の、夜のように真っ黒い虹彩が、きらきらと。
「あなたが呼べと、言ったので……!」
呼んだだけですと、最後消え入りそうな声で紗蓉子は、やっと言う。
「そうだった」
と、またけらけら笑っている。なんだか悔しくて、紗蓉子は鹿嶋をびっくりさせてやりたくなった。
「鹿嶋さま」
振り返った顔の横に、触れはしないが手をかざす。絶対になんとも反応しないと思ったのに、鹿嶋は走っていた人間が急に止まろうとするような動揺を、顔と体で示して来る。そんな驚き方をされると、こちらまで戸惑ってしまう。
でもすぐに彼は自分の体に起こったもっと大きな異変に気付く。
「治った」
自分の傷だらけだったはずの顔に触れ、腕のあざの消えたのをまじまじと見つめている。それより前に痛みも消えたはずだ。突き飛ばされたように立ちすくむ鹿嶋に、紗蓉子が説明する。
「加療術です。魔法の一種です。軽いケガなら治せます。病気は無理ですが、わたしは役立つ魔法と言えば、これしか使えません」
加療術は魔法の中でも使えるものが限られた、ひとつの技能と言っていい。
明確に、鍛錬や努力以外の素質が必要な分野であり、本来なら使用できることを誇ってもいい。
紗蓉子が自分の成せる魔法に対し過剰に謙遜するのは、仲月見イスカの存在がある。
一つの世代の魔法使いと名乗れる魔法の使い手の中から、詠唱魔法使用者の出現はさらに珍しい。希少性の高さでは比べるべくもない。
十二の頃に能力を自覚して以来、イスカはその力を日高見国のために使うよう、彼女を取り巻く全方位から求められている。
それに比べたら、紗蓉子の魔法は、大海に投じた落石のように、さざ波にもならない。
イスカの妹だからと根拠のない期待を寄せられて、結果得られたものがこれだから、勝手に失望されたこともある。
たった一人、皇宮に詰める加療術士のなかで、紗蓉子の才を見出し、信じて加療術について説いてくれた"先生"がいた。もっとも高齢で、置物のような物静かな先生のもとに通って、紗蓉子は誰にも気づかれることも褒められることもなく、静かにこの力を温め続けた。
「いつか皇女宮の外で、この力があなた様を助ける日がくるでしょう」老加療術士は、その日が来ることを疑っていないようだった。そのいつかはきっと、今日ではないと思うけれど、紗蓉子は鹿嶋にこの力を見せた。
鹿嶋は、痛みと傷あとの消えた自分の顔を何度もさわって確かめながら、
「紗蓉子はすごいな」
と、なんのけれんみもないまっさらな笑顔で言いぬく。
そしていつの間にか、紗蓉子、紗蓉子と、鹿嶋は彼女を呼び捨てにする。苗字がどこかへ行ってしまった。
——これ、明日からもそうなのですか。
聞けないまま、帰り道、紗蓉子は機嫌のいい鹿嶋の後ろをついて歩く。