七 帰れない理由
あれから数日経って、皇修館の学内でも社でも、鹿嶋はいつもと変わりないように見えた。
きっと先日のようなことは、彼にとって取り立てて騒ぐほどのことでもないのだ。そう思うのが一番心身の健康によかった。
鹿嶋のことを頭のかたすみに追いやれば、皇修館の授業は楽しかった。学友がいる教室は、ひとりですすめる皇宮での勉強より楽しい。
その日の二限目に、ふと窓の下を見ると、中等学校の中庭を駆ける鹿嶋の姿があった。
近ごろの鹿嶋は、寝坊しようが道草をくおうが、なんとしても学校にだけは来ようとするので、そのせいで今度は遅刻が多くなっている。
遅刻したときに鹿嶋が学校に入り込む方法が教師たちに割れてしまったらしい。高等学校の塀には、ネズミ返しならぬカシマ返しの爪がついてしまって、乗り越えられなくなった。
「来て欲しいのか欲しくなのか、どっちだ」と鹿嶋はぼやいていたが、正しくは、「正課に間に合うよう時間通りに来て欲しい」だろう。
それで彼は最近、中等学校の塀を超えて学内に侵入している。
——佐治さま。また遅刻。
皇修館は歴史ある学校だから、学舎は洋風建築の走りを感じさせるが、木造で古い。
二階建ての学舎の上階から、下見板張りの白壁の建物の間を走り抜ける鹿嶋をぼうっと眺めていた。紗蓉子がどこにいるのかなんて、きっと気にもしていないのだろう。
上を向いた鹿嶋と、ふと目が合った。彼はさわやかに笑い、まさか手まで振ってきた。鹿嶋は学舎の隙間に消えていったが、紗蓉子は思わず教科書の間に顔をうずめる。
なぜこんなことができるんだろう。佐治鹿嶋は本当にひどい。
一時期さわがれた皇修館の生徒を狙う無頼者たちの噂は、すでに聞かなくなっていた。
無頼者たちの正体が、西方諸国の人間なのではないかというウワサも広まって、街の住民も学校も、生徒自身も用心を始めたからかもしれない。西方諸国の人間が、都会でもない斉京の街でたむろしていれば、それは目立つ。
紗蓉子もまた、何事もない日常に慣れつつあり、猫に会いに行く日々を平和に送っていた。
その日の放課後、紗蓉子はいつもの社でひさしぶりに猫のとのこを見つけた。社の浜縁の下の柱の奥で、腹を横たえている。
「とのこ、おいで」
とのこは動かない。呼ぶと寄って来てくれるくらいになっていたのに、起き上がりもしなかった。
「久しぶりだから、忘れてしまった?」
様子がおかしい。なにか、長い声でずっと鳴いている。
紗蓉子は立ち上がって辺りを見回すが、もちろん誰もいない。
不安に胸をちくちくと刺されるようで耐えきれず、竹林の小路へ走り出す。まっすぐの路の先に、探す人を見つけて足を速める。よかった、来てくれてよかったと、何度も心の中で唱えている。
「日野紗蓉子」
息を切らして走ってきた紗蓉子を、鹿嶋は「よう」といつものように迎えた。
「どうした?」
「佐治さま、とのこが」
鹿嶋はそれを聞くとすぐに竹林の路の中にカバンを投げ出して走り出してしまう。
この方本当に学用品を大切にしない、と紗蓉子は投げ捨てられたそれを拾い、後を追う。
「そうじゃないかなとは思ってたんだけど」
社に着くと、鹿嶋はもう浜縁の下をのぞき込んでいる。
紗蓉子は彼のカバンを手に、静かに隣に座る。
「たぶん、子どもが生まれる」
「え……」
思いもよらない結果に紗蓉子はとまどい、それから何もできないのにきょろきょろしてしまう。
「ど、どこかへ連れて行ったほうがよいのでしょうか」
「必要ない、猫はひとりでも産めるから。人が手出しすると返ってよくない」
「そんな……」
「でも落ち着きがないから、ちょっと囲ってやろうか」
鹿嶋はすぐに社から出て行って、しばらくするとどこからか調達してきた板で、とのこの周りに囲いを作ってやる。
「気に入ればここで産むし、そうじゃなければまたどこか行くよ」
ハラハラとして気が気でない。紗蓉子は膝を抱えて、ずっと遠くから囲いの奥を見つめていた。
「おい日野紗蓉子」
声をかけられたのは、どのくらい時間が経ってからだったのか。
「もう日が暮れるぞ。帰った方がいい」
「だけど、とのこが」
「いても、できることはない」
「……佐治さまは?」
「俺はまだ大丈夫」
いつまでも帰りづらそうにしている紗蓉子は、その場を追い出されるように家路についた。
帰ってから紗蓉子は鹿嶋に貸してもらった本で、仔猫について調べてみる。すると猫は一度に多ければ八匹も子を産むことがあるという。
「そんなにたくさん子を産んで、一人で育てていけるの」
とのこだって、紗蓉子から見たらまだ小さいように見えるのに。
——何匹かお世話をしてあげられない? もしくは親子そろってでも。余っているお部屋もたくさんあるし。
紗蓉子は炊事場で仕事をしているユラのもとへ行く。ほかの使用人は通いなので、今は屋敷に紗蓉子とユラしかいない。
「ユラさん」
「なんでしょう」
一段降りた土間の水道の前に立つユラは、返事だけで振り返らない。
「ここで、猫を飼ってはいけませんか」
考えているのか、取り付く島もないのか、ユラは黙っている。
「あの、ここにいる間だけでもいいのです。学校に通っている間だけでも……」
「いけません。そのようなお考えは」
今度はぴしゃりと、即座に返答がある。
「だ、だめでしょうか」
「こちらで猫を持てたとしても、皇女宮にはどうあっても連れ帰れないとお考え下さい」
皇女宮にはどうあっても、という言葉が強すぎて、紗蓉子はもう自分が言ったことを後悔した。
「一度家付きとなった猫をまた野良に戻すのですか。そのほうがよほど不憫ですよ。紗蓉子さま」
炊事場にぶら下がった傘の短い電球の灯りだけがちらちらとしていて、二人の間に言葉はなかった。
「そうですね……浅はかでした。申し訳ありません」
紗蓉子はようやくそれだけ告げると、自分の部屋に戻る。心が冷たくなるような不快な恥ずかしさがあった。
鹿嶋にも少し前に同じようなことを言われた。猫たちの食事の面倒をみたいと言ったとき、「ここで食い物がもらえると覚えた猫たちは、外でとらなくなるから、日野紗蓉子がいなくなったら死ぬぞ」と。
彼がとても大人に感じる。同学の級友たちも、みんな。イスカだってそう。紗蓉子は四年後に、自分がイスカのようになっているとは到底思えない。
——みんないつ大人になるんだろう。わたしはいつ。
鹿嶋はもう家に帰っただろうか。とのこは今、ひとりぼっちで痛い思いをしていなければいい。